軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 【草むしり魔法】で不毛の地が霊薬の園に

世の中には、どう考えても「教育の皮を被った処刑宣告」が存在する。

たとえば、たった八歳の幼い公爵令息に対して、「北西の沼地を整えておきなさい」と命じることとか。

しかもそれを、まるで『貴族としての帝王学の一環です』みたいな顔で、にこやかに言い渡してくる性悪な継母とか。

なお、その沼地は屋敷の使用人たちの間で「近づくだけで呪われる」「底なし沼で過去に何人か沈んだ」「夜になると怨嗟のうめき声が聞こえる」と評判の、いわくつき中のいわくつき特級呪物エリアらしい。

控えめに言って、終わっている。

私は廊下の陰で、継母付きの侍女が勝ち誇ったように去っていくのを見送りながら、静かに、けれど確実に殺意を込めて拳を握りしめた。

その少し前。

北棟の居間へわざわざ乗り込んできた公爵夫人――つまりレオン様の継母は、いかにも慈悲深い、吐き気のするような猫撫で声でこう言い放ったのだ。

「貴族たるもの、年若いうちから領地を整える目を養わなければなりませんわ」

「北西の沼地は長らく放置されていて見苦しいの。雑草だらけで、土地の魔力もすっかり死んでしまっているでしょう?」

「ですからレオン。あなたが自ら現地へ赴き、手入れを始めなさい」

「泥にまみれる小さなことを厭わぬ者こそ、真に民を導く器となるのですから。期待していますよ?」

言葉だけ聞けば立派だ。

立派すぎて逆に笑える。

その実態が、“屈強な大人の騎士ですら近寄りたがらない呪われた毒沼ダンジョンに、まともな装備もない八歳児を放り込む”なのだから、悪意に高貴な品位をまとわせる技術だけは超一流と言わざるを得ない。

しかも腹が立つのは、周囲の取り巻き使用人たちも、表向きは「さすが奥様、素晴らしいお心遣い」「お坊ちゃまのご成長のための試練ですね」とか何とか言って媚びへつらうことだ。

違うだろうが。

これは教育でも試練でもない。

ただの陰湿な『生存フラグ粉砕イベント』だ。

嫌がらせにしても人としてのラインを越えている。いや、この公爵家、最初からだいたい全部の倫理ラインを反復横跳びで越えまくっているけれども。

私ははあ、と深く、ドス黒い息を吐き出した。

だが、怒りに任せてここで暴れ回るわけにはいかない。

今の私は単なる下っ端のモブメイド。表立って公爵夫人へ逆らえば、余計にレオン様の立場と命を危うくするだけだ。

つまり、ここで取るべき限界オタクの最適解は、ただ一つ。

推しを絶対に沼地で傷つけず。

なおかつ、

押しつけられた課題そのものを“ぐうの音も出ないほど完璧以上”に終わらせて、奴らの顔面を札束(成果)で往復ビンタしてやること。

要するに、またしても私のチート家事魔法の出番である。

「クロエ」

小さな、震える声で呼ばれて、私はすっと我に返った。

振り向けば、不安そうな顔をしたレオン様がこちらを見上げていた。

白銀の髪が、窓から差し込む昼の光を受けてやわらかく輝いている。相変わらず顔がいい。いや知ってるけど。毎日見惚れてるけど。こんな不安げで庇護欲をそそる表情すら一枚の芸術絵画になるの、本当に罪深いな最推し。

「……あの沼、僕、ひとりで行かないとだめかな」

その問いは、消え入りそうに小さかった。

けれど、そこに滲んでいる怯えも、警戒も、痛いほどよくわかる。

ああ。

そうだよね。

この子は、もう残酷なほど知っているのだ。

この屋敷で“大人が善意の仮面を被って与えてくるもの”の裏側に、どれほど致死量の悪意が混じっているかを。

私は着ているメイド服の汚れなど気にせずしゃがみ込み、彼の目線に合わせた。

「行きます」

「……」

「でも、どうかご安心ください。当然、私もご一緒いたします」

「……ほんとに?」

「もちろんです。むしろ私が率先して、雑草という雑草を物理と魔法で根絶やしにして、土地ごと更地にして差し上げますから」

「……ねだやし」

レオン様が、ぱちりと大きく目を瞬かせる。

あ。

しまった。

語気が若干、山賊か破壊神みたいに物騒だったかもしれない。

でも本音だ。推しをいじめる世界の理不尽に対して、限界オタクは基本的に温厚な仏ではいられないのだ。

私は慌てて、にっこりと聖母のように微笑んだ。

「大丈夫です。ただの、ちょっとしたお庭の手入れをしてくるだけですから」

「……お庭?」

「はい。少しぬかるみが深くて、少し厄介な雑草が多くて、少し呪いと瘴気が渦巻いているだけの、普通のお庭です」

「それ、だいぶすごくない……?」

「ええ。でも私、お掃除とお片付けと【草むしり】には、前世からわりと自信がありますので」

実際、自信はあった。

いや、“普通の意味での地道な草むしり”に自信があるわけではない。

私の【無自覚チート生活魔法】が、どうも普通の家事レベルではない、国家機密レベルの方向へ突き抜けているという意味での絶対的な自信だ。

掃除をすれば、国宝級の絶対防御・浄化結界。

煮沸をすれば、猛毒が極上の旨味と魔力回復バフへ反転。

鮮度保持をすれば、時間を凍結する異空間ストレージが爆誕。

ここまで来ると、ただの『草むしり』だってもう何が起こってもおかしくない。

むしろ怖い。

自分の魔法のインフレ具合が便利すぎて、最近ちょっと自分が怖い。

でも、推しの命と未来を守るためなら、多少の規格外は誤差の範囲である。

レオン様はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて小さく、けれどしっかりと頷いた。

「……クロエがいるなら、行く」

「はい。すべてこの身にお任せください」

その真っ直ぐな一言が、胸の真ん中にじんわりと、熱く沁み込んだ。

ああ。

この子は今、ちゃんと“クロエがいれば大丈夫かもしれない”と、私を信じて頼ってくれている。

たったそれだけの事実が、どうしようもなく嬉しい。

だったら。

オタクとして、メイドとして、その期待に全力で応えるしかないだろう。

私はすっと立ち上がり、胸の内で静かに、しかし熱く宣戦布告をした。

来るなら来い、Sランク呪われ沼地ダンジョン。

推しに押しつけられた理不尽な死亡フラグイベント、私の家事魔法でまとめて浄化して更地にしてやる。

◇ ◇ ◇

北西の沼地は、想像の三倍以上ひどかった。

いや、正確に言おう。

“沼地”という単語から想像できる牧歌的な範囲を、きれいに三段階くらい突き抜けていた。

まず、異様に臭う。

近づいただけで本能が警鐘を鳴らす。

土と泥と水が完全に腐敗したような、甘ったるく粘着質な不快な臭気が鼻を突いた。

次に、暗い。

真昼間だというのに周囲だけ妙に薄暗く、空気が物理的に重い。風もないのに毒々しい色をした雑草がざわざわと蠢くように揺れ、足元の泥は生き物のようにぬるりと靴底へまとわりついてくる。

そして何より、嫌な『圧』がする。

これはもう、理屈ではない。

私の『生活魔法センサー』が全力で「ここはヤバい」とサイレンを鳴らしていた。

汚れとか、不浄とか、悪意とか、そういう“家事的に見過ごせないもの”が、何百年分も濃縮還元されてこの一帯の地脈に沈殿している感じだ。

「……うわぁ」

思わず、素の引きつった声が漏れた。

ひどい。

これはひどい。

雑草が多いとか、地面がぬかるんでいるとか、そういう可愛らしいレベルではない。

不毛の地というより、呪詛と瘴気とヘドロの特盛り詰め合わせセットだ。

ここを丸腰の八歳児に整備しろ? 正気か?

いや知ってる。正気じゃないからあの性悪継母なんだよな。今さら確認するまでもなかった。

隣にいるレオン様が、怯えたようにそっと私のエプロンの袖をつまんだ。

「……クロエ」

「はい」

「ここ、すごく、へんな感じがする」

「ええ。私も全力で同感です」

「……帰ったら、だめ?」

「私としても今すぐ回れ右して帰りたい気持ちは山々ですが、ここで何もせず戻ると、あの方々がまた別の陰湿な嫌がらせを仕掛けてくる可能性が高いんですよね……」

ああもう、本当に腹が立つ。

推しに「帰りたい」と言わせるような恐ろしい場所へ来させている時点で、私のストレスゲージが天元突破しかけている。

今すぐ継母の居室へ突撃して「貴婦人の嗜みとして、まずまともな良心と脳味噌を身につけていただけます?」と物理で問い詰めたい。無理だけど。立場的に。今はまだ。

私はぐるりと、ゆっくり沼地を見回した。

黒ずんで泡立つ水面。

蛇のように絡み合うように茂る、トゲだらけの雑草。

ずぶずぶと沈みかけた不気味な朽ち木。

土の底深くから這い上がってくるような、じっとりとした魔力の気配。

……うん。

だいぶ、わかりやすい。

“この土地を完全にダメにしている元凶”は、たぶん表面の雑草そのものではない。

『何か』がいる。

地中深くか、腐った水底か、そのあたりに。

しかも、かなり巨大な、土地の養分を吸い尽くしている『何か』が。

私は無意識に、ぐっ、と眉を寄せた。

草むしり。

そう、今日の私のミッションは草むしりだ。

雑草を抜く。

根こそぎ片づける。

土地の養分を奪う余計な害悪を取り除き、風通しをよくして土壌を整える。

だったら、私がやるべきことは極めてシンプルかもしれない。

「レオン様」

「……なに?」

「危険ですので、少しだけ、後ろへ下がっていていただけますか」

「クロエは?」

「私は、ちょっと念入りに『草むしり』をします」

「……ここで?」

「はい。たぶんただの雑草だけじゃないので」

レオン様は不安そうにしながらも、私の言葉に素直に従って数歩下がった。

その素直さが愛しい。いや待って。今それに浸って尊死している場合じゃない。目の前の沼地、どう見ても穏便に終わる気配がゼロだ。

私は泥沼の縁のギリギリへ立ち、深く、深く息を吸い込んだ。

思い描くのは、荒れた庭の徹底的な手入れだ。

厄介に絡みついた雑草を引っこ抜く。

地中深くまで張り巡らされた根を、残さず整理する。

土を腐らせている元凶を取り除き、風通しをよくする。

地面がちゃんと呼吸できるように、余計なゴミを完全に排除する。

そう。

私はただ、庭をきれいにしたいだけ!

「【草むしり】!!」

その言葉を、魔力に乗せて落とした瞬間。

ぞわっっっ!!! と。

沼地全体が、大地震のように激しく震えた。

「……え?」

私が目を見開くのと、地面が爆ぜるのはほぼ同時だった。

ずるりっ、と。

ぐしゃりっ、と。

まるで泥の底から『巨大なビル』が無理やり引き剥がされるような凄まじい音を立てて、沼の中心部が大きく、不自然に盛り上がる。

次の瞬間、黒い泥と瘴気をまとった異形の巨大な魔樹が、ぬうっ! と地上へ姿を現した。

「うわああああっ!?」

思わず叫んだ。

そりゃ叫ぶ。

だって木だ。

見上げるほどものすごく巨大な木。

いや木というか、木の姿をした“Sランク指定のバケモノ”だ。

幹には無数の亀裂があり、その裂け目からどす黒い瘴気が毒霧のように噴き出している。根は巨大な大蛇みたいにうねり、枝の先には歪んだ鋭い爪のような突起がぶら下がっていた。

完全に雑草ではない。

どう見ても、この呪われたダンジョンの『ラスボス(沼の主)』ポジションである。

「クロエ!」

背後でレオン様の悲鳴のような声がする。

私は反射的に振り返った。

だめだ。

この距離は危ない。

私はとっさに、片手を後ろへ向けて彼を庇うように立った。

「レオン様、もっと下がってください!」

「でも……!」

「大丈夫です、たぶん!」

たぶんって何だ。

我ながら不確定要素が多すぎて不安しかない。

でも今さら「やっぱり無理かもしれません、逃げましょう」とは言えない。最推しの前で、カッコ悪いメイドにはなりたくない。

異形の巨木――沼の主は、ぐるりと禍々しい根を持ち上げ、こちらへ叩き潰すように振り下ろしてきた。

速い。

でかい。

死ぬほど怖い。

私はほとんど裏返った悲鳴みたいな声で叫んだ。

「ちょ、ちょっと待ってください! 私はただ草を抜こうと――」

そこまで言いかけて、ぴたりと止まる。

あ。

草を抜く。

根を抜く。

地中深くに蔓延った害悪を、まるごと引き抜く。

……これ、もしかして。

私は咄嗟に、迫り来る沼の主へ向かって両手を突き出した。

「“根っこごと”いきます!!」

ぶわぁぁぁぁっ!! と。

太陽のように眩い純白の光が、私の手から地面へ向かって爆発的に走った。

その瞬間。

異形の巨木の根元一帯の地面が、ごごごごごっ! とものすごい音を立てて波打つように盛り上がった。

泥が弾け、黒い沼水が飛び散り、地中深くまで何百年も食い込んでいたはずの巨大な根が、まるで『家庭菜園の小さな雑草』を引き抜くみたいに。

すぽんっ。

本当に、間抜けなほど軽快な「すぽんっ」という音とともに。

巨大な沼の主が、地中から丸ごと、空高く引き抜かれた。

「…………」

私は両手を前に突き出したポーズのまま、完全に固まった。

えっ。

抜けた。

あっさり抜けたんですけど。

いや待って、今のあの怪獣みたいなサイズ感で「すぽんっ」って何?

物理法則がおかしくない?

もっとこう、剣と魔法が交差する死闘とか、泥まみれの激闘とか、命懸けの死線とか、そういう派手な演出が必要なラスボス相手では?

なんで大根を抜くみたいなノリで瞬殺(除去)できてしまったんだ、私のチート草むしり魔法。

そして、さらに意味不明な現象が起きたのは、その直後だった。

空中に引き抜かれた巨大な沼の主は、ぶるぶると激しく震えたかと思うと、ぱんっ! と目も眩むような光の粒になって空中で弾け飛んだ。

まるで、“この土地を蝕む不法投棄のゴミ”として、システムによって完全に 強制消去(デリート) されたみたいに。

しんっ、と。

あたりが嘘のように静まり返る。

次の瞬間。

沼地の空気が、劇的に変わった。

あの重苦しく吐き気のする臭気が、みるみるうちに浄化されて薄れていく。

黒ずんでいた水面がクリスタルのように澄み渡り、ヘドロに覆われていた地面が、少しずつ生命力に溢れた明るい色の土壌へと回復していく。

そして、主のいた跡地を中心に、ぽこ、ぽこ、と小さな芽が一斉に顔を出した。

「……え?」

私は目を瞬かせた。

芽だ。

淡い銀色に近い緑の、小さく可憐で、けれど膨大な魔力を内包した芽。

それが一つ、二つではない。

回復した広大な地面いっぱいに、次々と無数に顔を出してくる。

しかも成長速度がおかしい。

芽はあっという間に葉を広げ、蕾をつけ、やがて透き通るような美しい花を咲かせた。

甘く清らかで、吸い込むだけで寿命が延びそうな神聖な香りが、風に乗ってふわりと広がる。

「うそ……でしょ」

私は呆然と立ち尽くした。

つい数分前まで、荒れ果てた毒沼だった。

草も泥も瘴気も呪いもぐちゃぐちゃに絡み合った、大人が見捨てるほどの不毛の地だった。

それが今や、柔らかな光を帯びた幻想的な花々で埋め尽くされた『霊薬の園』に変わっている。

この花、知ってる。

絶対知ってるぞ。

ゲームの王立図書館の設定資料集で見た。

たしか、どんな傷も癒やし、魔力回路を全回復させる、伝説の希少な霊薬の原料になる――

「国宝級の、エリクサー草……?」

ぽつりと震える声で呟いた瞬間、背後からはっ、と息を呑む気配がした。

振り向くと、レオン様が信じられないものを見るように目を見開いていた。

その蒼い瞳いっぱいに、咲き誇る花の光がきらきらと反射している。

「……きれい」

「……はい」

「さっきまで、あんなに黒くて怖かったのに」

「そうですね……」

「クロエが、魔法で変えたの?」

その純粋な問いに、私は一瞬答えに詰まった。

変えた。

……のだと思う。たぶん。

でも術者本人にも、何がどういう理屈で起きたのか完全には把握できていない。

私はただ、推しのために「雑草と悪い根っこ」をむしりたかっただけなのだ。

まさか土地を蝕むラスボスごと引っこ抜いて、その跡地から国宝級のエリクサーが雑草みたいにぽこぽこ群生するなんて、普通は想定しないではないか。

いや、最近もう私の周りで“普通”って何だっけ状態だけど。

私はこほんと咳払いし、なるべく有能なメイドを装って落ち着いた声を出した。

「ええと……たぶん、土の中にいた“悪いもの”が取れたので、土地が元気になって恩返しをしてくれたのかと」

「草むしりで?」

「ええ、草むしりで」

「……クロエの草むしり、魔法みたい。すごい」

「私も、心底そう思います」

正直すぎる返答になってしまった。

でも仕方ない。

私が一番びっくりしているのだ。

レオン様は輝く花畑を見つめ、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。

泥濘んでいたはずの地面は、いつの間にかやわらかく乾いた、歩きやすい土へ自動で変わっている。

その至れり尽くせりな変化だけでも、もう意味がわからない。私の家事魔法、毎回、プレイヤーの理解の三歩先を行くんだよな……。

「クロエ」

「はい?」

「これ、一つだけ、持って帰ったらだめかな」

そう言って、彼は咲きはじめたばかりの小さな花を指さした。

私は思わず、ふっと笑った。

「あまりたくさんは摘みすぎないほうがいいですが(※国家の経済バランスが崩れるので)、少しなら大丈夫だと思います」

「……ほんと?」

「ええ。今日の、頑張った記念に」

「きねん」

その響きをくり返すレオン様の声は、ほんの少しだけ明るく弾んでいた。

ああ、よかった。

この子が、呪われた沼地での嫌なトラウマではなく、“きれいな花が咲いた日の記念”として今日を覚えてくれるなら、それだけで私はもう報われる。

レオン様はそっとしゃがみ込み、咲いたばかりの花へおそるおそる手を伸ばした。

壊れ物に触れるみたいに、やさしく繊細な指先だった。

「……やわらかい」

「そうですね」

「いい匂いがする」

「はい」

「クロエみたい」

「…………はい?」

今、なんと?

私は限界まで瞬きをした。

いや、今、私の聞き間違いでなければ。

最推しが、国宝級の花の香りを「私みたい(いい匂い)」と例えた。

どういうこと?

尊さの不意打ちにもほどがある。

心の準備がまったくないんですが!? 致死量です!

レオン様はきょとんとして私を見上げていた。

どうやら本人に深い意味や計算は一切ないらしい。

ただ、本当に無邪気に、思ったままを口にしただけなのだろう。

その純粋無垢さが、余計にオタクの心臓に深く突き刺さる。

だめだ。

朝から昼から晩まで、推しの何気ない天然の一言に心臓を撃ち抜かれていたら、こちらの 命(メンタル) がもたない。

でも嬉しい。

ものすごく、天にも昇るほど嬉しい。

この子の中で私はもう、“怖くないもの”“あたたかいもの”“きれいな花と同じもの”の側へ、確実に置かれはじめているのだ。

そんなこと、嬉しくないわけがない。

「……光栄の極みです」

どうにか震える声でそれだけ絞り出すと、レオン様は小さく首を傾げた。

「こうえい?」

「天にも昇るほどとても嬉しい、という意味です」

「……そっか」

そして、彼はほんの少しだけ。本当に、わずかに。

ふわりと、微笑んだ。

まただ。

またこの子は、世界を平和にできるくらいささやかで美しい笑みを、こんなふうに私にだけ無防備に見せてくる。

ずるい。尊い。推しの微笑み、あまりにも特効すぎる。情緒が毎回ふわっと天へ召されかける。

私は危うくその場で両手を組んで「推しが尊い」と祈りを捧げそうになるのを必死にこらえつつ、広大な花畑を見回した。

さて。

現実的な問題は、ここからだ。

この土地、どう見ても“ただ雑草を抜いて整備されました”では済まない。

むしろ、霊薬の群生地として国家中枢がざわつくレベルの『やばい資産』が爆誕してしまっている。

あの性悪な継母が意地悪で押しつけた課題が、なぜか公爵家の財政を傾きから救いかねない特大の成果へ進化しているのだから、世の中はわからない。

いや、一番わからないのは主に私の家事魔法なんですが。

◇ ◇ ◇

屋敷へ戻ると、案の定、特大の騒ぎになった。

当然である。

公爵夫人が「どうせ泥まみれで泣いて逃げ帰るでしょう」とでも思っていたらしい嫌がらせの課題から、まさかの“伝説の霊薬の群生地発見”という、国を揺るがす成果が上がったのだ。

しかも、後から現地確認へ向かった屈強な下男やベテランの庭師たちは、そろいもそろって青ざめた顔で戻ってきたあと、震える声で当主たちにこう報告した。

「ぬ、沼が……跡形もなく消滅しておりました」

「は?」

「正確には、何百年も蓄積していた呪いの瘴気が完全に消え、地盤が落ち着き、土壌が最高ランクに回復し……その、見たこともない光る花が、一面に咲き乱れておりまして」

「何を馬鹿なことを言っているの!」

「で、ですが奥様……! あれは王都の特級薬師が見れば泡を吹いて卒倒するような、とんでもない代物で……!」

継母の顔が、ぴくりと醜く引きつる。

一方で私は、北棟の片隅の壁際で、おとなしくメイドらしく控えていた。

おとなしく。実におとなしく。

内心では『ざまぁみろ』とだいぶ楽しくサンバを踊っているけれども。

だって、あれだけ悪意満載で押しつけた課題が。

結果的に、『レオン様の輝かしい特大の功績』として、屋敷中の使用人や騎士たちに広まりつつあるのだ。

こんなに痛快なことがあるだろうか。

いや、ある。きっとこれからもっとある。けれど今この瞬間の「顔面蒼白ざまぁみろ感」も、なかなか味わい深い極上のエンタメである。

「レオンが……あの忌々しい子が、やったというの……?」

継母が信じられないもの、いや、信じたくないものを見るような顔でギリッと歯を食いしばる。

「あなた、本当にあの場所を一人で整えたの!?」

レオン様は、私の少し前に立っていた。

白銀の髪が揺れる小さな背中は、まだ華奢で折れそうだ。

けれど、以前よりほんの少しだけ、立ち方にブレない芯がある。

「……クロエが、一緒でした」

「……は?」

継母の毒蛇のような視線が、ぎろり! とこちらへ向く。

うわ、怖。般若かよ。

でも今さら一ミリも怯まない。

私はすでに、推し救済・最強育成ルートをブレーキなしで全力疾走しているのだ。悪役ババアの敵意の視線くらいで、足を止めていられるか。

私は静かに、優雅に一礼した。

「僭越ながら、お供いたしました」

「ただのメイドのあなたが、一体何をしたというの!?」

「はい。草むしりを少々」

「草むしりで、沼地が霊薬の園になるわけがないでしょうが!!」

「私も心底、そう思います」

つい、真顔で本音のツッコミを返してしまった。

場がしんっ、と凍りつくように静まる。

やばい。つい限界オタクの正直さが出た。

でも事実なんだから仕方ない。私が一番びっくりしてるんですよ、本当に!

継母はわなわなと真っ赤な唇を震わせた。

今すぐ私を怒鳴りつけ、レオン様を罰したいのだろう。だが、今この場でそれをやれば、せっかく“無能で家を荒らす厄介者”として扱ってきたレオン様が、逆に『特大の利益をもたらした有能な跡継ぎ候補』であることを自ら認める形になってしまう。

つまり、簡単には騒げないのだ。自分の首を絞めるから。

いいぞ。

そのまま矛盾に苦しんで困っていてください。

私は推しの幸福と尊厳のためなら、にこやかに無自覚チート無双をかます、最強のモブメイドです。

その時、ずっと黙っていた公爵(父親)が、重々しく口を開いた。

「……その花畑、すぐに王都から薬師を呼んで徹底的に調べさせろ」

「しかし、あなた……! あれはまぐれで……!」

「黙れ」

低い、有無を言わさぬ一喝に、継母がひっ、と息を呑む。

そして公爵は、ゆっくりとレオン様を見た。

その視線には、これまで彼へ向けていた「無関心」とは違う色が混じっていた。

戸惑い。計算。利益の評価。値踏み。

最低だなとは思う。

父親なら、利益の前にまず息子の存在そのものを見ろよと胸ぐらを掴んで言いたい。

だが、それでも。

この家で初めて、レオン様が“ただ虐げられる存在”から、“一目置かれる者”として正面から見られたという事実は、決して小さくない一歩だ。

レオン様は、その打算的な視線を静かに受け止めていた。

震えていない。

怯えて目を逸らしてもいない。

私はその横顔を見て、胸がじんと熱くなった。

強くなってる。

少しずつ。

本当に少しずつだけど、確実に。

それは魔法や筋力だけじゃない。

温かい食事と、結界の安心と、日々の小さな積み重ねが、この子の折れない芯を育てている。

だったら私は、もっとやれる。

もっと高く積み上げられる。

この子が理不尽な大人たちを前に、二度と俯かなくて済むだけの圧倒的な武器を、何だって用意してみせる。

◇ ◇ ◇

その夜。

私はレオン様の部屋で、沼地から摘んできた小さなエリクサーの花を、細いガラス瓶へ生けていた。

淡く光る花弁が、清浄で甘い香りをやさしく漂わせる。

「……きれい」

ベッドのそばから、レオン様が小さく呟いた。

「ええ。とても」

「今日、最初は、すごくこわかったけど……」

「はい」

「でも、最後は、すごくきれいだった」

その言葉に、私はふっと心底安堵して微笑んだ。

「それなら、本当によかったです」

「クロエ」

「はい?」

「また、いっしょに行ってくれる?」

「どこへでも」

即答だった。

庭でも、沼でも、森でも、地獄の果てでも。

あなたが不当に泣かされる場所なら、どこへだって一緒に行く。

そしてその全部を、あなたにとって少しでも“怖くない場所”へ、物理と魔法で塗り替えてみせる。

そんな想いを込めて深く頷くと、レオン様はしばらく黙っていたあと、ぽつりとこぼした。

「……クロエがいると、なんだって、だいじょうぶな気がする」

その一言が、私の胸の奥の一番やわらかい場所へ、まっすぐに落ちてきた。

ああ。

もう。

だめだ。

そんなこと言われたら、限界オタクはどこまででも命を懸けて頑張れてしまう。

前世の私は、ゲーム画面の向こうでこの子が理不尽に傷つくたび、何もできない無力な自分を噛みしめることしかできなかった。

でも今は違う。

私はこの子のそばにいて、手を伸ばして、言葉を返して、残酷な現実のシナリオを書き換えられる。

それだけで、どれほど救われるか。

私は花瓶を窓辺へ置き、レオン様のもとへ歩み寄った。

「大丈夫です」

そっと、やわらかく言う。

「これから先も、怖いことや嫌なことがあったら、私が全部一緒に『片づけ』ましょう」

「……片づける」

「ええ。お掃除して、草むしりして、いらないものは全部どかして、更地にして」

「……クロエ、なんでも片づけるんだね」

「わりとそうですね」

「すごい。僕の魔法使いだ」

「ありがとうございます」

くすっ、と。

今度は私の方がたまらず笑ってしまった。

確かにそうかもしれない。

私はこの世界で、家事という名目のもとに、だいぶいろんなものを過激に片づけている。

汚れも、毒も、瘴気も、呪いも、Sランク魔物も、ついでに理不尽なイベントの死亡フラグまで。

でも、それでいい。

この子の未来を曇らせるものなら、なんだって片づける。

そう決めたのだから。

私はそっと温かい毛布を整え、レオン様の額にかかる銀髪をやさしく払った。

「おやすみなさい、レオン様」

「……おやすみ、クロエ」

その眠りに落ちる声音は、もう最初の夜の地下室ほど、何かに怯えてはいなかった。

窓辺では、沼地に咲いた花が静かに香っている。

あの不毛の地が、今はこんなにも穏やかな光を運んでくる。

それはきっと、これから先も同じだ。

呪われた場所も、痛い思い出も、全部が全部、絶望のままじゃない。

手をかけて、守って、取り除いて、育てていけば、ちゃんと幸せな未来へ変えられる。

私はその小さな確信を胸に、夜の静けさの中でそっと目を細めた。

――そして、この『霊薬の園の発見』という特大の功績が、公爵家の権力勢力図を少しずつ揺るがしていくことを。

焦った継母が、さらに愚かで致命的な次の手を急ぎ始めることを。

そしてレオン様自身もまた、“クロエがいれば不可能は覆る”“クロエだけがいればいい”という、きわめて重くて純度の高い、独占欲に満ちた信頼をさらに深めていくことを。

このときの私は、まだ完全には理解していなかった。

ただ一つだけ、はっきりしていたのは。

『推しに押しつけられた理不尽な試練は、どうやら私のチート家事魔法にかかると、だいたい最終的に“とんでもない利益とざまぁ”へ転化されるらしい』ということだった。

うん。

やっぱり便利すぎるな、私の生活魔法。

でもまあ――レオン様がこうして安心して笑ってくれるなら、結果オーライ、何でもいいか!

そう思いながら、私は明日に備えて。

次はどの理不尽イベントのフラグをへし折ってやろうかと、ひそかに燃え盛る闘志をたぎらせるのだった。