作品タイトル不明
第31話 ラスボス「古の魔竜」の復活
乙女ゲームの世界というものは、だいたい登場人物たちの「やらかし」の連鎖で破滅のバッドエンドへと向かうようにできている。
誰かが傲慢に怒って。
誰かが意地を張って。
誰かが身の程知らずの嫉妬をして。
誰かが「ちょっとだけ」のつもりで、取り返しのつかない禁忌の箱を開ける。
そして、その“ちょっとだけ”のやらかしが、チリツモで特大の災厄を呼び起こすのだ。
今、まさに私は、その『特大の災厄』の現場のど真ん中にいた。
◇ ◇ ◇
地下ダンジョンの分厚い壁を物理で粉砕して現れたレオン様に、お姫様抱っこで強制回収されて――無事に地上へ戻った瞬間。
足元の石畳が、どくん……と不気味に脈打った。
地面が巨大な生物のように呼吸しているみたいな、気持ち悪い揺れ。
耳の奥で、低くドス黒い唸りが響く。
それは音というより、空気を圧し潰す絶対的な『死の圧』だ。
世界の温度が、ガクンと一段落ちた。
「……なに、これ」
私の声が震えたのは、寒さのせいじゃない。
限界オタクの生存本能と、乙女ゲームプレイヤーとしてのメタ的な勘が、全力で警鐘を鳴らして叫んでいるのだ。
「クロエ」
レオン様の腕が、私を抱きしめる力を痛いほど強めた。
さっきまでの私を失いかけたことへの激しい怒りの熱が、別の形へ急速に変わっている。
怒りではなく、極度の警戒。
俺の神様に傷をつけさせないための、張り詰めた殺気。
レオン様の氷のような蒼い瞳が、ひび割れた地面の亀裂を鋭く見つめる。
そこに走っていたのは、ただの崩落のひびではなかった。
地の底の底からドロドロと滲み出る、古い古代の術式。
禍々しい封印の紋。すべてを飲み込むような黒い光。
――封印。
「……まさか」
私が喉の奥で絶望の呟きを漏らした瞬間、遠くの王都の方向で、けたたましく鐘が鳴り始めた。
緊急避難警報の鐘だ。
学園だけじゃない。王都の街全体が、この尋常じゃない異常を察知した音。
その直後。
空が、真っ二つに割れた。
◇ ◇ ◇
鼓膜を破る轟音が、上空から降ってきた。
雷ではない。爆発でもない。
もっと深く、魂の髄まで響くような、太古の咆哮。
『グ――ォォォオオオオオオオ……ッ!!』
大気が震え、学園の窓ガラスが一斉に粉々に砕け散り、屋根の瓦ががたがたと悲鳴を上げて跳ねた。
人々の恐怖の悲鳴が、時間差で王都のあちこちから上がり始める。
私は反射で、レオン様の広い胸元に顔を埋めた。
いや、見たい。
限界オタクとして、推しのいる歴史的瞬間のスチルは見たい。
見たいんだけど、本能が恐怖で拒否している。
でも、見なきゃいけない。オタクの使命感とモブの生存本能が脳内で激しく殴り合っている。
レオン様が、私の顎を長い指でそっと、壊れ物を扱うように持ち上げた。
「俺の可愛い神様。見なくていい」
「……でも」
「怖いでしょう。目を閉じて、俺の腕の中に隠れていてください」
「怖いですけど……愛する推しが戦う尊いお姿は、限界オタクとして最後まで見届けないと……っ!」
言った瞬間、自分で自分にツッコミたくなった。
こんな世界の終わりのような時まで推し活の発想が先に出るの、我ながら不治の病だ。
でも、レオン様はその病的な愛の言葉を一切咎めない。
むしろ、その言葉にだけ反応し、狂おしいほど甘く微笑んだ。
「……俺を見届ける?」
低い声に、火傷しそうなほどの熱が混じる。
「ええ。なら、俺の背中から一瞬たりとも目を離さないでください。あなたの視線が、俺のすべてですから」
その激重な愛の誓いが終わる前に、巨大な影が王都の上空を完全に覆い尽くした。
デカい。とにかく、異常なほど巨大だ。
分厚い雲が裂け、その裂け目から、鋼のような黒い鱗がぬめりと現れる。
鱗は黒曜石のように光を吸い尽くし、ところどころに赤いマグマのような古い紋様が浮かんでいる。まるで世界そのものが刻んだ呪いの傷跡みたいに。
巨大な翼が、ゆっくりと開く。ばさり、と。
その一枚が動いただけで暴風が生まれ、王都の屋根が一斉に吹き飛んだ。
舞い上がった瓦礫と砂埃が、街の上に薄暗い死の嵐を作る。
凶悪な頭部が、こちらを向く。血の池のように深い紅の瞳。
その奥に、確かな知性がある。人間を“獲物”として見る野性ではなく、道端の“虫けら”として見る冷酷で圧倒的な強者の知性。
――『古の魔竜』。
原作乙女ゲームの、真のラスボス。
王都を灰にし、幾多の英雄を飲み込み、最後に主人公たちによって討たれるはずだった絶対的な災厄。
それが、なぜか学園編の超序盤の今、目の前にいる。
「……やばい。ゲームバランス崩壊してる」
言葉が軽いのは、私の限界オタクとしての語彙が完全に死んでいるせいだ。
本当は、もっと適切な言葉がある。絶望とか、終末とか、破滅とか。
でも、全部ひっくるめて、口から出たのは「やばい」の一言だった。
「レオン様」
私は震える声で彼を見上げた。
「これ、私たちが……じゃなくて、レオン様が……」
「……ええ、俺がクロエを助けるために地下の壁を壊したせいですね」
レオン様の声が、一切の感情を交えずに冷たく沈む。
そこに後悔や自責はない。ただの冷静すぎる状況把握の速さだ。
「魔物ダンジョンの封印を支えていた層が、俺の魔力で完全に崩れたのでしょう」
「……」
「地下深くのラスボスの封印核が、表層の破壊の余波で緩んだ。それだけのことです」
淡々と分析しながら、レオン様の腕は私の腰を絶対に離さない。
離す気も一ミリもない。
それが嬉しくてたまらないのに、今は限界オタクとして嬉しがっている場合ではない。
王都の方角から、王属騎士団が絶望的な顔で飛び出してきた。
魔導砲の陣列が組まれ、空の魔竜へ向けて光の矢が一斉に撃ち上げられる。
だけど、魔竜の黒曜石の鱗は、その全力の魔法攻撃すら傷一つ付けずに弾いた。
攻撃が当たる。――当たって、ただ虚しく消える。
まるで小さな火花が広大な海に落ちるみたいに、一瞬で飲まれて終わる。
「くそっ! 魔法が一切通じないぞ……!」
誰かが絶望して叫んだ。誰かが泣き叫んだ。
街の中で避難の波が起こり、人の流れがパニックを起こした蟻の列みたいにうねる。
火の手が上がり始める。
魔竜が羽ばたいた風圧だけで、灯りが倒れ、火種が飛び、乾燥した屋根に燃え移る。
王都が、本当の火の海になる寸前。
「……あいつら、無能どもが……!」
背後で、聞き覚えのある焦った声がした。
振り返ると、忠犬化したバカ王太子・カスティエル殿下がいた。
首元は包帯姿。顔色はまだ悪い。
でも、王太子としてのなけなしの意地と責任感だけで、震える足で立っている。
その隣に、アリアがいる。
完璧な可憐な顔の仮面が剥がれ落ち、目が信じられないものを見るように激しく泳いでいた。
今日ばかりは、彼女の腹黒い計算より、圧倒的な死の恐怖が完全に勝っている。
「何が起きたというのだ!」
殿下が血を吐くような声で叫ぶ。
「なぜ、王都の上空に伝説の魔竜が……! 騎士団は何をしている!」
レオン様が、虫けらを見るような冷酷な目で殿下を一瞥する。
その目は「お前のような無能は黙っていろ」と言っている。
「俺は今、俺のクロエを守るためにやるべきことをやります。邪魔をするなら切り捨てますよ」
その一言の圧倒的な殺気に、殿下が完全に押し黙った。
状況が状況だ。王太子であろうと、魔竜の前ではただの無力な餌だと、誰の目にも分かる。
アリアが、ガタガタと震える声で呟いた。
「そんな……どうして……地下の封印が……」
彼女の声が、恐怖で裏返る。
「だ、誰かが……ダンジョンを壊したの……? そんなの、アタシの計画にはないわよ……!」
その憎悪と恐怖が混ざった視線が、私に向く。
ああ。そうだ。
彼女にとって、モブである私は全部の完璧な計画の崩壊の起点だ。
でも今は、腹黒ヒロインのヘイトなんてどうでもいい。
魔竜が、ゆっくりと巨大な口を開いた。
喉の奥が、不気味な紫黒の色に光る。
「……やめて」
誰かが言った。祈りみたいな絶望の声だった。
遅い。
次の瞬間、魔竜の口から吐き出されたのは、燃え盛る炎ではなかった。
ドス黒い霧。紫の呪われた稲妻。
すべてを腐敗させる、『呪いのブレス』。
「――ッ!!」
空が病に侵されて腐るみたいに、ドロドロと色が変わる。
ブレスが通った軌跡の空中に黒い呪紋が残り、建物の屋根が“数百年経過したように古びて”ボロボロと崩れ落ちる。
燃えるのではなく、朽ちる。生命力そのものがごっそり抜かれるように。
「呪いの……ブレス……!」
カスティエル殿下が絶望に息を呑む。
アリアは恐怖でガチガチと歯を鳴らし、腰が抜けて膝が笑っているのを必死に隠していた。
レオン様が、私の前に立ちはだかる。
「クロエ」
「はい」
「俺の愛する神様。ここから一歩も動かないでください」
「……」
「俺が、あのトカゲを塵にして止めます」
言い切って、レオン様が迷いなく歩き出す。
燃え盛る王都へ。空の魔竜へ。
私の心臓が、『ばくんっ!』と大きく鳴った。
最強の推しが、ラスボスへ向かう。
いや、待って。これ、限界オタクへの公式供給としては強すぎる。
最強の冷酷公爵令息VS古の魔竜。
王都防衛戦。英雄譚の最高潮の激アツ展開。
でも私は、安全な画面の外にいるプレイヤーじゃない。
私は、推しの無事だけを狂おしいほど願うオタクだ。
推しが死んだら、英雄譚どころじゃない。私が死ぬ。
「レオン様……!」
声が震えた。
止めたいのに、止められない。止める資格が私にはない。
この人は、私を守るために、私が生きるこの街を守るために、たった一人で死地へ歩いていく。
レオン様は振り返らない。でも、甘く、絶対的な声だけが戻ってくる。
「大丈夫です」
低い声。私への愛の熱だけがある声。
「俺の帰る場所であるあなたが、ここで待っていてくれるから」
その言葉が、ずるい。
私を永遠に逃げられない帰る場所として束縛する言葉だ。
◇ ◇ ◇
王都外縁の広場。
レオン様が立つと、絶望していた騎士団が自然とモーセの海のように道を開けた。
恐怖と、畏敬と、そして「この男にすべてを任せたい」という本能が混じった目。
レオン様が流麗な動作で抜いたのは、あの時私と一緒に見つけた剣だった。
『初代国王の聖剣』。
光を宿す絶対の刃。
竜の硬い鱗すら容易く断てるはずの、伝説の武器。
刃が『キィィン……』と澄んだ音で鳴る。
空気が一瞬で浄化される。
聖なる気配が、周囲のドス黒い呪いの臭いを薄める。
「来い。這いつくばらせてやる」
レオン様が、空の魔竜へ向けて言い放った。
短い一言。
なのに、絶対的な強者の宣戦布告として完璧だった。
魔竜が、人間を見下して嘲笑った気がした。
口角が上がるわけじゃない。でも、その紅の瞳が「面白い虫けらだ」と言っている。
そして、魔竜が再び大きく息を吸い込み、ブレスを吐く。
濃密な呪いの霧が、巨大な槍のようにレオン様へ落ちる。
レオン様が力強く踏み込み、聖剣を真上へ振り抜く。
圧倒的な光の斬撃が走り、呪いの霧を真っ二つに裂く――はずだった。
だが。
「……っ?」
聖剣の眩い光が、ブレスに触れた一瞬、ジュッ……と鈍い音を立てた。
刃の輝きが、ドス黒く曇る。
絶対的だった聖なる気配が、急速に薄くなる。
呪いのブレスが、聖剣に触れた瞬間。
伝説の聖剣そのものを腐らせるように、チート級の力がゴリゴリと削がれていく。
レオン様の美しい眉が、僅かに動いた。
驚きではない。厄介な事象を瞬時に理解した冷静な顔だ。
「……なるほど。少しばかり厄介ですね」
呪いのブレスで、聖剣の威力が強制的に落ちるデバフ効果。
原作のラスボスは、やっぱり伊達にラスボスじゃなかった。
正面から物理で斬れば終わる、なんて都合のいいチート展開はない。
私の喉がからからになる。
「レオン様……っ!」
遠くから、思わず叫ぶ。
届かない距離なのに、限界オタクとして叫ばずにいられない。
レオン様は、こちらを見ない。
でも、その広くて逞しい背中が私に語りかけている。
――俺のクロエ、案ずるな。まだ終わっていない。
カスティエル殿下が、震える声で虚勢を張って叫んだ。
「騎士団! 怯むな、総攻撃だ! 次期国王である俺の王都を守れ!」
声は王太子らしく強がっている。
でも、目は恐怖で完全に怯えきっている。それでも立っているのは、王族のなけなしの意地だ。
アリアは、私の近くで、血が出るほど唇を噛みちぎっていた。
震える声で、誰にも聞こえないくらい小さく、本音を呪詛のように呟く。
「……こんなの、聞いてないわよ……アタシの完璧なシナリオが……!」
当然だ。
あなたの底の浅い逆ハーレム計画は、モブメイドを地下に落として消す程度で完結するはずだった。
まさかラスボスが序盤で復活して王都が壊滅の危機に陥るなんて、想定しているはずがない。
でも現実は、あなたの思い通りにはならない。
魔竜がさらに巨大な翼を広げ、王都の空を完全に覆い尽くして影を落とす。
最悪の呪いの霧が、再び竜の喉の奥にドロドロと溜まる。
レオン様が、光の鈍った聖剣を力強く握り直す。
輝きは確実に弱まっている。
でも、その剣を握る手は一ミリも揺れない。
「……クロエ」
遠いのに、私にだけ向ける極上の甘い声だけが、耳元に届いた気がした。
それは限界オタクの幻聴かもしれない。
でも、私は信じた。
「俺は必ず、あなたの元へ戻る」
たったそれだけで、私の震える胸の奥に、確かな火が灯る。
恐怖で震える情けない火じゃない。
愛する人を守りたい、という強い火。
私の推しを。
彼が守ろうとするこの街を。
そして、この理不尽な乙女ゲームの物語を。
魔竜が極大のブレスを吐き出す。
絶望の呪いの嵐が、王都へ向かって落ちる。
聖剣の光が、さらに呪いで削がれ、薄れていく。
絶望的なパニックの中で、私の最推しであるレオン様はただ一人、最強の騎士として竜へ向かって立っていた。
そして私は、ただ両手を組んで強く祈った。
――愛する推しが、無傷で私の元へ帰ってきますように。
次の瞬間、私の中に眠る限界オタクの業(チート魔法)が、世界を再び大きく動かす予感がした。