軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第30話 ヒロインの姑息な罠

「クロエ」

昼休み、食堂の入り口で呼ばれて振り向くと、そこにいたのはカスティエル・ド・ヴァロア殿下だった。

もう今は傲慢なギラギラ感はない。

でも目だけは妙に澄んでいて、私を見るときだけ、捨て犬がご主人様を見つけたような変な熱が乗る。

やめてほしい。

「……殿下、体調はよろしいのですか」

「俺はもう平気だ」

平気じゃなさそうな声で言い切り、殿下は『ドンッ』と胸を張った。

「それより、お前だ。こんな人目に付く場所を一人で歩くな」

「私?」

「ああ。何があるかわからん。無茶はするな」

「……は?」

私が言うのも何だが、無茶をするのは殿下のほうだ。

怪しい劇薬を飲んで魔人化しかけた人間が、どの口で無茶をするなと言うのか。

けれど殿下は大真面目な顔だった。

「お前は、俺の命の恩人だ。これからは、俺が命に代えてもお前を守る」

突然の忠犬宣言。

ジョブチェンジの速度が早すぎる。

「殿下」

私はできるだけ丁寧に、しかし鉄壁の拒絶を込めて言った。

「私は大丈夫です。私には推しがいますので」

殿下が『きょとん』とした顔をしているところへ、絶対零度の冷たい影が差した。

「――クロエ」

レオン様だった。

ただの学園制服を纏っているだけなのに、立っているだけで“死の空気”を連れてくるような圧倒的な圧がある。

近づく気配が、静かで、強くて、逃げ場がない。

そして、忠犬化した殿下の存在を見た瞬間、レオン様の目が一段と冷え切った。

「……殿下」

「公爵か」

殿下も負けじと顎を上げる。だが、先日の完全敗北がトラウマになっているのか、声に余計な力みが混じる。

レオン様は、虫けらを見るような目で淡々と言った。

「俺のクロエに近い。離れろ」

「……たまたま出くわして、恩人に礼を言っていただけだ」

「近いと言っている」

「……チッ」

殿下が悔しそうに唇を噛む。

私は胃が痛くなって、慌てて二人の間に入った。

「だ、大丈夫です! 私はちゃんと一定の距離感を守ってます!」

「守っていません」

レオン様が即答した。

「俺の基準では、同じ空気を吸っているだけで不快です」

「その基準が世界一厳しくてヤンデレなんですよ!」

言った瞬間、レオン様の口元が僅かに緩む。

その緩みが、私だけに向けられた甘い温度であるのがわかってしまうから、胸がきゅっとなる。

だめだ、推しの顔が良すぎる。何をしてもときめきが混ざる。情緒が忙しい。

その時だった。

空気の端に、吐き気がするほど甘い香りがした。

「クロエ様」

振り向くと、アリア・ベルフォードが立っていた。

可憐な微笑み。上品な姿勢。

完璧な“健気な原作ヒロイン”の皮。

でも私は知っている。

その皮の下に、どれだけドス黒いヘドロが詰まっているかを。

「……ごきげんよう」

私が警戒度マックスで挨拶すると、アリアは目を細めた。

「先日の模擬戦では、失礼いたしましたわ。私、少し熱くなってしまって」

言葉は謝罪なのに、声は甘く、空気がじっとり濁る。

『 魅了(チャーム) 』を薄く滲ませて、周囲の目を誤魔化そうとしているのがわかる。

でも、私とレオン様の前では一切通用しない。

だから彼女は、私だけに狙いを定める。

「クロエ様に、どうしてもお伝えしたい謝罪がございますの」

「……何でしょう」

「少しだけ、二人きりでお時間をいただけますかしら?」

私の背中がぞくりとした。

これは、来る。来てしまう。

陰湿な罠の香りだ。

レオン様が即座に口を挟んだ。

「俺のクロエとどこへ行く気だ?」

アリアは微笑んだまま、少しだけ悲しそうに首を振る。

「レオン様には関係のない、女同士のお話ですわ」

「関係があります」

絶対零度で言い切る。

「クロエに関わる全ては、俺に関係がある。お前のようなゴミが視界に入るだけで不快だ」

言質が重い。重いけど、嬉しい。

でも今は嬉しがっている場合ではない。ここでレオン様が手を出したら、また学園が物理で壊れる。

私は一歩前へ出て、レオン様の袖を軽く掴んだ。

安心してほしい合図。

「大丈夫です。話を聞くだけですから」

その言葉に、レオン様の瞳が僅かに揺れた。

理解してしまったのだ。私が自分が矢面に立つことで、推しへの被害を未然に防ぐ限界オタクだということを。

レオン様は低く、重い息を吐いた。

「……五分です」

「はい」

「それ以上戻らなければ、この学園の壁をすべて更地にして探します」

「学園を物理で壊さないでください!」

アリアは、そのやり取りを可憐な笑顔で眺めていた。

だが、その目の奥の黒い渦が、静かに嘲笑っていた。

◇ ◇ ◇

アリアに案内されたのは、校舎の裏手――誰も使っていない旧倉庫棟の脇だった。

人気がない。風が冷たい。石壁が湿っている。

そして、そこにある。

「立ち入り禁止」と書かれた、厳重に施錠されているはずの古い鉄扉。

……ああ、知ってる。

乙女ゲームプレイヤーなら絶対知ってるやつだ。

学園地下に広がる、古代の魔物ダンジョン。

「ここ、地下への扉ですよね。鍵が開いてるみたいですが」

私が言うと、アリアは可憐に首を傾げた。

「さすがクロエ様。お詳しいのですね」

「詳しいというか、限界オタクの嫌な予感がビンビン警鐘を鳴らしてるんですが」

「安心なさって」

アリアは笑う。

「ここにクロエ様の『落とし物』があると聞きましたの」

「落とし物」

私の胸が冷えた。

知っている。

彼女は落とし物なんて探すためにここへ来たわけじゃない。

「クロエ様」

アリアが一歩近づく。

声が甘くなる。『魅了』が、濃密な魔力となって私へ絡みつこうとする。

でも、私の身体はそれをホコリやカビと同じ汚れとして、オートお掃除魔法で弾き飛ばしているのがわかった。

アリアの目が『ギリッ』と細まる。

『魅了』が効かない。自分の完璧な計画をことごとく潰す、目障りなモブ。だから――最後は……殺そうとする。

私がそれを理解した瞬間には、もう遅かった。

『ドンッ!』と背中に、強い力が当たった。

「……え!」

『ぐい』と暗闇へ向かって押される。

アリアの指先は細いのに、そこに乗っているのは純粋な憎悪だ。

私という存在をこの世から消し去るためだけの、どす黒い力。

私の足が鉄扉の縁を踏み外す。

「クロエ様、永遠にごきげんよう」

声は上品だった。

でも、その顔は醜悪に笑っていた。

「アタシの邪魔をするモブが、一番悪いのよ」

次の瞬間。

私の世界が、真っ暗な地下へと真っ逆さまに落ちていった。

◇ ◇ ◇

暗い。落ちる。冷たい。

風が頬を切る。

私は無意識に両腕で頭を守り、歯を食いしばった。

『どんっ!』と背中に衝撃。

痛い。でも死ぬほどではない。

たぶん、常時発動している生活魔法のバフのおかげだ。

……いや、痛いよ!?

普通に全身痛いよ!?

でも生きてる。生きてるけど、ここどこ!?

目を開けると、黒い石の壁。湿った空気。

鼻に刺さる鉄と土と、獣の匂い。

遠くで、何かが滴る音。

そして――

圧倒的に重い、死の気配。

「……」

闇の中で、無数の目が一斉に光った。

赤い。黄色い。青白い。

嫌だ。本当に嫌だ。

「……魔物」

しかも、気配が重い。凶悪。デカい。

Sランク級。それが、十数体。

私は喉の奥が『ひゅっ』と鳴った。

ここは立ち入り禁止の魔物ダンジョン。

私はそこに落とされた。

原作ヒロインの嫉妬と憎悪によって。

「アリアのバカァ……!」

魔物たちが、『じり、じり……』と距離を詰める。

鋭い牙が光る。爪が石を引っ掻く。飢えた唾液の匂いが濃くなる。

私は一歩下がり、背中が冷たい壁に当たった。

詰んだ。いや、詰んでない。

私には無自覚チートな【万能生活魔法】がある。

煮沸で毒を消し、洗濯で暗殺者を丸洗いした魔法がある。

……でも今の私は、巨大な魔物を前にして完全にパニックだ。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」

頭の中がぐるぐる回る。

「掃除!? 洗濯!? 煮沸!? 草むしり!? 土いじり!? いや、今この状況でどれを使えばいいの!?」

その時、一番巨大な魔物が、私に向かって大きく跳躍した。

「ひっ……!」

身体が生存本能で勝手に動いた。

腕が振れる。口が叫ぶ。

「不法投棄のゴミは、まとめてポイです!!」

◇ ◇ ◇

発動したのは、【ゴミ出し魔法(空間廃棄)】だった。

私にとっては、ただの日々の家事だ。

生ゴミを出す。可燃、不燃、資源を分別して、袋に入れて、決まった収集場所へ置く。

ただそれだけの、平和な魔法。

なのに。私の目の前に、黒い巨大な“口”が開いた。

いや、口というより、空間そのものが裂けた。

底が見えない。光もない。音も吸い込む。

世界の外側に繋がっているみたいな――絶対的な虚無のゴミ箱。

「……え」

自分で出しておいて引いた。

魔物が、その空間の口に触れた瞬間。

『シュポンッ』

吸い込まれた。

一体。

二体。

三体。

シュポン、シュポン、シュポン、シュポン!

あまりにも軽い、コミカルな音で、Sランク魔物が次々と消えていく。

存在ごと、燃えるゴミとして、ぽいっ。

私は呆然と立ち尽くした。

「……ゴミ出し魔法、こわっ」

いや、一番怖いのは私だよ。

なんでゴミ出しで、S級魔物を異空間の虚無へ完全廃棄できるの。世界の法則どこ行った。

でも、魔物が消えるなら今はそれでいい。

私は膝が笑いそうになるのを必死にこらえて、魔法を維持した。

最後の一匹が吸い込まれる。

シュポンッ。

ダンジョンに、完全な静寂が戻った。

私は壁に手をつき、ぜえぜえと息をした。

生きた。生きてる。推しがいないのに生きてる。

偉い。今日の私はめちゃくちゃ偉い。

……でも、本当の問題はここからだ。

ここは地下深く。出口が分からない。

そして何より――レオン様がこれを知ったら、絶対にアリアが抹殺される。

怒りで。

恐怖で。

私を失いかけたという、凄まじい絶望で。

◇ ◇ ◇

その時。

頭上から、鼓膜を破るような轟音がした。

『ゴゴゴゴゴゴッ!!』と石が軋む音。

分厚い壁が紙屑のように割れる音。

そして――あり得ない速度で落下してくる、圧倒的で凶悪な魔力。

「クロエ!!」

低い、咆哮のような声が、地下の闇を裂いた。

その切実な一声だけで、私の目から涙が出そうになった。

「……レオン様」

次の瞬間。

ダンジョンの分厚い壁と天井が、物理的に粉砕された。

巨大な石が飛び散り、粉塵が舞い、開いた大穴から眩しい光が差し込む。

そこに立っていたのは、白銀の髪の最強の騎士。

目が、恐ろしいほど座っている。

怒りで血走っているわけではない。

でも、蒼が深すぎる。底が見えない。

私を失う恐怖と、犯人への殺意の感情が重すぎて、周囲の空気がバリバリと音を立てて圧し潰されている。

「……誰が」

レオン様の声が、地獄の底から響くように低く震えた。

「誰が、俺のすべてであるあなたを、こんな場所に落とした」

私は答えようとして、言葉が詰まった。

アリア。原作ヒロイン。

でも、それを言った瞬間――レオン様の無慈悲な殺戮が始まる気がした。

私は必死に口を開く。

「レ、レオン様、まず落ち着いてください!」

「完全に落ち着いています」

嘘だ。全然落ち着いてない。魔力で小石が浮いてる。

レオン様は私のところへ一歩で飛んできて、私を強く、強く抱きしめた。

痛いくらいに強い。

でも、その広い背中に、ひどい震えが混じっているのがわかった。

「……怖かった」

耳元で囁く声が、掠れて、泣きそうに震えていた。

「あなたの気配が、一瞬消えかけて……俺の心臓が、止まるかと思った」

胸が『きゅっ』と痛む。

この人にとって、私の存在は命綱だ。

それを私は知っている。知っているのに、また危険な目に遭って、彼をこんなに怯えさせてしまった。

「ごめんなさい」

「謝らないでください」

レオン様の声が、さらに低く、冷たくなる。

「あなたが悪いわけがない」

その言い方が、怖い。

悪いのは誰かが、もう完全に決まっている処刑人の声だ。

私は必死に彼の袖を掴んだ。

落ち着かせるために。私の愛する推しに戻ってきてもらうために。

「私は大丈夫です、無傷です!S級魔物も、全部、私がゴミとして捨てましたから!」

「……ん?」

レオン様が一瞬、理解できないという顔をした。

でも、すぐに顔が戻る。戻ってしまう。冷酷な怒りの顔に。

「……あなたは本当に」

「はい?」

「どんな状況でも、俺の心臓に悪いことをしますね」

違う。私だってしたくない。

でも、限界オタクの推し活というものは、常に命がけなんです。

レオン様は私を抱きしめたまま、額に短く口づけるような距離で囁いた。

「二度と、あなたをこんな危険な場所に置きません。原因となった学園ごと、地下ごと」

「ま、待ってください」

「俺が更地にして壊します」

だめだ。

来た。学園崩壊が。私は全力で言った。

「学園は壊さないでください!」

「あなたが落とされた」

「はい」

「だから壊します」

「論理が短絡的すぎますヤンデレ!」

愛が重い!

重すぎる!

でも、その重さがどうしようもなく嬉しいのが本当に限界オタクとして困る!

私は深呼吸して、言葉を選んだ。

「……犯人のことは、あとで考えましょう」

「今です。今すぐ殺します」

「今は、私を地上に連れて帰ってください!一緒に。無事に。レオン様と一緒に帰りたいです」

その一言で、レオン様の張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。

「……ええ」

低く、甘い声。

「俺たちの場所に帰りましょう」

そして彼は、私をお姫様抱っこで軽々と抱き上げた。

もう慣れた。慣れたけど恥ずかしい。

でも今は、推しの腕の中の圧倒的な安心感が勝つ。

天井の穴から光の中へ上がりながら、私は思った。

アリアは、もう戻れない一線を越えた。

私を地下へ落とした。魔物に食わせようとした。

それは姑息な罠じゃない。明確な殺意だ。

そして、その殺意を知った、私を「俺のすべて」と呼ぶ推しが、黙って見過ごすはずがない。

でも、私は逃げない。推しの隣にいる。

推しが私を守ると言うなら、私は絶対にその手を離さない。

だって、私はもう。ただのファン(モブ)ではいられないのだから。