軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第28話 王子の惨敗

闘技場を埋め尽くしたドス黒い靄は、“魔法”というより、醜悪な感情そのものだった。

怒り。屈辱。嫉妬。

そして、「俺は選ばれた人間だ」という根拠のない自信。

カスティエル・ド・ヴァロア殿下は、もう人間の顔をしていなかった。

血走った瞳は焦点が合わず、口元は笑っているのに笑い方が壊れている。

赤黒い靄が皮膚の上を這い、理性がボロボロと剥がれ落ちていくのが分かった。

そしてその暴走した力は、思ったより早く、思ったより醜く、彼自身を内側から食い破っている。

今の彼が狂信的に求めているのは“勝利”ではなく、公爵を捻じ伏せるという絶対的な力だ。

「見ろ……! 公爵ゥ……! これが、王太子である俺の真の力だァァァッ!」

獣のように吠えた瞬間、体から漆黒が溢れ出した。

闘技場の防御結界が悲鳴を上げて軋み、教師たちが絶望に青ざめ、観客席の生徒たちが息を止める。

私の最推しであるレオン様は、一歩前へ出る。

「……お願い」

声にならない私の祈りが、喉の奥で震えた。

無事で帰ってきて。

◇ ◇ ◇

光は、決して派手じゃなかった。

天使の降臨も、祝福の鐘もない。

ただ、世界が「ここから先は一切の汚れも通さない」と明確に拒絶したみたいに、レオン様の目の前に透明で絶対的な境界が立ち上がった。

漆黒の奔流が、そこへ激突する。

『どんっっ!!』と空気が爆発的に鳴り、闘技場全体が地震のように揺れた。

観客席の結界が震え、私の心臓は喉の奥まで跳ね上がる。

でも――通らない。

黒い濁流は境界の前で無残に押し潰され、霧散して、終わるはずだった。

なのに。

私の『お守り』は、守るだけで満足しなかったらしい。

通さない。

そして、そのまますべて反射で『返す』。

まるで「ゴミは元の場所へお持ち帰りください」とばかりに、お掃除魔法の延長線が容赦なく発動した。

「……え?」

私の口から、情けない素の声が漏れた。

漆黒の奔流が、鮮やかに反転したのだ。

鏡に反射した光のように向きを完全に変え、放った本人であるカスティエル殿下へ一直線に突き刺さった。

「――ぐ、ァ、あああァァァッ!?」

カスティエル殿下の身体が弓なりに反り、王族の矜持など微塵もない、ひしゃげた絶叫が鳴った。

赤黒い靄が内側へ凄まじい勢いで逆流し、己の魔力回路そのものを焼くように暴れ回る。

「な、なんだ……! 戻って……俺の魔法だぞ……っ!」

必死に制御しようとするが、もう手遅れだ。

劇薬で無理やり膨らませた力は、もともと自分のものではない。支配しきれない強大な力は、支配者のふりをした傲慢な人間へ最初に牙を剥く。

「俺は……王太子だぞ……! 俺に従え……ッ、ぐあああっ!」

その悲痛な叫びには、王族の威厳など欠片もなく、ただの死への恐怖だけが混じっていた。

観客席の空気が完全に凍りついた。

教師たちが呆然と立ち尽くし、誰も、あの自滅していく王太子を助けに行けない。

そして、観客席の暗い影。

上品な微笑みを貼り付けていたアリア・ベルフォードの顔から、一瞬で表情が抜け落ちた。

(……は? 何よ、あれ)

その歪んだ顔には、ドス黒い本音が張り付いていた。

(バカ王子が暴れて、公爵にダメージ与えて、弱ったところをアタシがチャームで頂くはずだったのに!)

(なんで自滅してんのよ! ていうか、あの光るお守り何!? “魔人の力”より強い結界ってどういうことよォ!!)

計画が、音を立てて粉々に崩れ去っていく。

私のオタク的祈りが。

私の推しを絶対に無傷で帰したいという重すぎる執念が。

悪意に満ちた陰謀を根底から粉砕してしまった。

限界オタクの愛の重さ、我ながらちょっと怖すぎる。

◇ ◇ ◇

「……終わりにしましょうか」

レオン様の声が、闘技場に静かに落ちた。

氷みたいに冷たいのに、芯の奥でドロドロとした熱が燃えている。

レオン様が、ゆっくりと一歩踏み出す。

たった一歩なのに、闘技場の空気が彼の色に完全に支配される。

暴走する黒い靄が、彼の前では存在してはいけないただの汚れみたいに縮み上がった。

「来るな……! 俺に近づくなァ……!」

カスティエル殿下が血を吐きながら吠える。

もう完全に怯えた獣だ。

「俺は……次期国王だぞ……! 俺を見下すな……っ!」

「ええ、知っています」

レオン様の返答は、底冷えするほど淡々としていた。

淡々としているのに、言葉が研ぎ澄まされた刃のように鋭い。

「だから」

一歩。

「あなたのその無様な醜態を」

さらに一歩。

「これ以上、俺のクロエの美しい瞳に映すわけにはいきません」

その言葉で、私の胸が『どくん!』と大きく鳴った。

推しが、私の視界を不快なものから守ろうとしている。

それは甘くて、重くて、逃げ場がないほど過保護で優しい。

レオン様が、流麗な動作で剣を抜いた。

光は派手じゃない。

でも、白銀の刃が空気に触れた瞬間、闘技場の温度がもう一段階落ちた。

「一刀」

低い、死神のような声。

「両断」

振り下ろされた刃は、殿下の肉体を直接斬ったわけではない。

斬ったのは、殿下を覆っていた黒い魔力の“核”だった。

暴走する歪んだ回路の中心。

そこだけを、恐ろしいほど神がかった精度で断ち切る。

『ぱぁんっ!』と弾けるように黒い靄が散り、殿下の身体が糸の切れた操り人形みたいに、力なく地面に崩れ落ちた。

瞬殺。

静まり返った闘技場に、司会の教師が震える声で叫ぶ。

「しょ、勝者……レオン・ヴァン・エルグラン……!!」

観客席が、一拍遅れて爆発的な息を吹き返した。

「すごい……一撃だ……!」

「王太子殿下のあのヤバい魔法を跳ね返したぞ……!」

「黒い魔力を断った……!」

「エルグラン公爵、最強すぎる……!」

私は、思わず立ち上がっていた。

叫びたい。

手作りの応援うちわを狂ったように振りたい。

横断幕を掲げて「顔面国宝! 最強騎士!」と紙吹雪を撒き散らしたい。

でも、ここは王立学園。

だから私は、心の中で全力のメガホンを持って叫ぶ。

さっすが私の推し!!!!

完全無傷!!!!

最強!!!!

顔が良い!!!!

尊い!!!!

……尊い、と拝み倒した次に、私は『はっ!』と我に返った。

「無傷……だよね?」

推しの全身を、視力2.0の目で舐め回すように確認する。

血がない。呼吸も乱れていない。特注の制服にチリ一つついていない。

本当に、完全に無傷。

私の過保護な祈りが通じた。理想の結末すぎて、ガチで泣きそうになった。

◇ ◇ ◇

でも、そこで「めでたしめでたし」で終われないのが、私の不遇なモブ人生である。

地面に倒れて痙攣するカスティエル殿下を見た瞬間、私の脳内の乙女ゲーム危機管理センサーが爆鳴りした。

このまま、あのバカ王太子が薬の反動で死んだら。

レオン様が『王族殺し』の特大の罪に問われる可能性がある。

たとえ相手が勝手に劇薬を飲んで暴走していようが、自滅に近かろうが。

国家の政治は理屈ではなく、権力者の都合で動く。

都合の悪い英雄は、理不尽に潰されるのがお約束だ。

そんなの、絶対に許せない。

私は反射で、スカートを翻して走り出していた。

「クロエ!」

背後で誰かの叫びが刺さる。

でも止まれない。

ここで立ち止まったら、私の最推しの輝かしい未来がバッドエンドに折れるかもしれないのだ。

闘技場の中央へ駆け寄り、血の海に倒れる殿下の傍へ膝をつく。

顔色が完全に死人だ。呼吸が浅い。

劇薬の反動で、魔力回路が内側からズタズタに壊れかけている。

黒い靄は散っているのに、死の匂いみたいな不吉さが肌にまとわりついている。

「……おい……」

殿下が、かすれた血の混じる声を出した。

まだ王太子の無駄なプライドだけで、なんとか立ち上がろうとしている声だ。

「俺は……勝ったのか……? 俺の、モノに……」

勝ってない。大惨敗だ。

でも今は、そんな現実を教えて絶望させている場合じゃない。

私は【 鮮度保持庫(ストレージ) 】へ手を伸ばし、あのチート霊薬――『特濃エリクサー』を取り出した。

「口を開けてください、飲みますよ!」

「誰が……平民の施しなど……っ」

「いいから黙って飲め!!」

私は瓶を殿下の口に強引に突っ込み、液体を流し込んだ。

殿下は抵抗する力もなく、むせながら光り輝く液体を飲み込んだ。

次の瞬間、死人のようだった肌の色が急激に戻る。

呼吸が深くなる。瞳の赤みがスッと薄れ、死の震えがピタリと止まった。

よし。もう大丈夫。

これであのバカは死なない。

これで、レオン様の輝かしい未来が守れる。

私は胸の奥から、心底『ほっ』と息を吐いた。

その直後。私の背後の空気が、絶対零度に凍りついた。

「……クロエ」

低い、地鳴りのような声。

振り向かなくても分かる。

推しが、限界突破で嫉妬している。

私はゆっくり、『ギギギ……』と振り返った。

レオン様が立っていた。

完全無傷。顔面国宝。

でも、目が最高に危ない。

敵に向ける冷酷な殺意ではない。

もっと個人的で、もっと感情的で、もっと――世界を滅ぼしかねないほど深くどす黒い、ヤンデレ特有の熱がある。

「俺の目の前で、他の男に触れて。……何をしているんですか」

「チ、治療です!」

「なぜ」

そのなぜが、鋭利な刃物のように刺さる。

愛する女が他の男を助けたことへの、嫉妬と絶望のなぜだ。

完全に勘違いしている。

私は一秒も置かずに即答した。

「ここで殿下が死んだら、レオン様が困るからです!」

バカ王太子への好意なんてマイナスを振り切ってゼロだ。

ゼロだけど、推しの未来のためにはどうしても生かしておく必要があったのだ。

「ここで殿下が死んだら、レオン様が『王族殺し』の理不尽な罪に問われる可能性があります!」

私は身振り手振りを交えて早口で捲し立てた。

「そんな理不尽で、私の尊い推し……っ、レオン様の輝かしい人生が潰れるとか、絶対に許せません!」

レオン様の瞳が、わずかに大きく揺れた。

殺意と怒りが残っている。

でも、その怒りの形が急速に変わっていく。

私からの矢印が「自分へ向けられた極大の愛」だと気づき、ヤンデレの勘違いがスルスルとほどけていく。

「つまり」

彼は信じられないというように、続けて確認した。

「あなたは、ただ俺の未来を守るために、あのゴミを助けたと」

「そうです! 全部、愛するレオン様のためです!」

その瞬間、レオン様の耳が、『ぽっ』とほんのり赤く染まった。

……赤面。

推しが赤面した。

しかも照れ隠しのように口元を片手で覆っている。

世界一かわいい。保護したい。この顔、ずっと拝んでいたい。

レオン様は『スッ』と視線を逸らし、ひどく嬉しそうに、でも悔しそうに口元を歪めた。

「……俺のために必死になる、クロエの愛を」

小さな、でも熱い声。

「一瞬でも疑って嫉妬した俺が、どうしようもないバカでした」

胸が、『どくんっ!』と大きく鳴った。

だめだ。

その破壊力のあるデレ方は反則だ。

疑われたくない。でも、疑ったことを照れながら恥じているのも、全部私に向けての感情のバカデカさが故だと分かってしまうから――苦しいほど嬉しい。

私は小さく息を吐いた。

「……たまには疑って嫉妬してもいいんですよ」

「嫌です。二度と嫌です。あなたの愛は、もう俺のものだと完全に確信しましたから」

重い。

重すぎる。

でも、そのヤンデレ的な重さが今は妙にあたたかくて心地いい。

「……レオン様」

「はい」

「完全無傷で、本当によかったです」

「ええ」

レオン様の声が、ようやく甘くとろけるようにやわらかくなる。

「すべて、あなたの愛の結晶(お守り)のおかげです」

その言葉が、反則みたいに甘かった。

◇ ◇ ◇

一方、闘技場の観客席の暗い影で。

アリアが「ギリィィィッ!」と奥歯を噛み砕く勢いで歯ぎしりし、ドレスの裾を握り潰すように睨みつけていた。

表の可憐な天使の笑みは、もう一ミリも保てていない。

目の奥がぎらりと憎悪で黒く濁っている。

(……こんなはずじゃないわ!!)

王太子は無様に惨敗し、落とすはずだったレオンは無傷で圧勝した。

アリアの思い描いた盤面が、完全にひっくり返ったのだ。

(なんでよ! あんなの絶対おかしいじゃない!!)

決闘は終わり、王太子は惨敗した。

推しは無傷で勝利した。

だが、影に潜む原作ヒロインの瞳はまだ諦めていなかった。

光の消えたその両眼は、ヘドロのようにドロドロとした執着の色に染まる。

私は最強の推しの隣で、次にやってくるであろう嵐の気配を感じながら、限界オタクとして静かに身構えるのだった。