軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 【お掃除魔法】は国宝級の浄化結界

人生には、どうしたって眠れない夜がある。

たとえば、最推しが自分の腕の中でか細い声を震わせ、「……いなくならない?」なんてすがりついてきた夜とか。もう完全にそれだ。

眠れるわけがない。そんなの、精神が有観客ライブの最前列どころか成層圏を突破している。情緒が忙しすぎて、脳内に鳴り響くファンファーレと保護欲の大合唱のせいで一睡もできる気がしない。

もっとも、実際には少しだけ意識を手放していたらしい。

地下室の冷たい石の床に寄りかかり、幼いレオン様を抱きしめたまま、ほんのうたた寝程度に。

気づけば、真っ暗だったはずの扉の下に、ぼんやりと白い線が滲んでいた。

薄明かりの中で、私の腕の中にいるレオン様は、昨夜よりも少しだけ穏やかな寝顔をしていた。

眠りは浅いし、目の下にはうっすらと隈が残っている。それでも、あの凍えた子猫みたいな痛々しい震えは止まっている。

よかった……。

本当によかった……っ!

胸がいっぱいになりすぎて、その無防備な寝顔を見つめるだけで視界がぼやけてくる。

危ない危ない。朝から号泣するメイドはさすがに情緒不安定すぎる。いや実際めちゃくちゃ不安定なんだけども。

だって最推しの寝顔が! 至近距離で! この世の物理法則を無視した美しさで存在していて! しかも私の腕の中に!

はい、無理です。尊さの暴力。致死量です。

けれど、悠長に尊さに浸っている場合ではなかった。

問題は、エベレスト級に山積みなのだ。

まず、こんな冷たい地下室に閉じ込められる状況そのものが最悪。

次に、レオン様の普段の生活環境が劣悪すぎる。

そして何より、このまま私が一時しのぎで優しくしたところで、周囲の環境という『根本』が変わらなければ、彼の心と体へのダメージは蓄積していくばかりだ。

ゲームをやり込んだ私は知っている。

この公爵家の人間は、表面上は高貴に取り繕っていても、レオン様に対しては驚くほど冷淡で残酷だ。

特に継母派の使用人たちは露骨で、食事を減らす、部屋を掃除しない、洗濯物をわざと汚す、冬でも暖炉の薪を渡さないなんて嫌がらせは日常茶飯事。

もはや陰湿を通り越して、普通に虐待である。即座に通報案件だ。児童相談所はどこですか? 王都ですか? ない? そうですか。なら私が私設保護団体を立ち上げるしかないですね。

私は、レオン様を起こさないよう慎重に腕をほどき、そっと立ち上がろうとした。

その瞬間。

エプロンの裾を、きゅっ、と小さく引かれる。

振り返ると、微睡みの中にいる蒼い瞳が、すがるように揺れていた。

「……クロエ」

うっ。

名前を、呼ばれた。

推しに。

私の名前を。

呼ばれた。

朝っぱらから 致命傷(クリティカル・ヒット) である。

だめ、待って、心の準備が。いや昨夜からずっと準備なんかできてないけども。それでもやっぱり破壊力が高すぎる。

幼い声で、寝起きの掠れた甘い響きで、頼るように名前を呼ばれるとか、限界オタクの心臓には荷が重すぎる。

私はどうにか表情筋を総動員して、平静を装って微笑んだ。

「おはようございます、レオン様。起こしてしまいましたか?」

「……いなく、なってない」

「はい。絶対にいなくならないと、約束しましたから」

そうはっきりと告げると、彼はじっと私を見つめたあと、ほんの少しだけ強張っていた表情を和らげた。

本当に、ほんの少し。

けれど昨夜の、あの世界のすべてを諦めきったような暗い瞳とは違う。

たったそれだけの変化が、胸が痛くなるほど嬉しかった。

私はしゃがみ込み、彼の視線に合わせる。

「まずはここを出ましょう。朝になれば見回りの目も増えますし、こんな寒い場所にこれ以上いてはいけません」

「……部屋に戻ったら、また、ひとり」

「大丈夫です」

不安に揺れるレオン様の言葉を、私はやわらかく、けれど力強く遮った。

「これからは、私が一緒にいます」

彼は、すぐには頷かなかった。

八歳の子どもにとって、“大丈夫”なんて言葉は、たぶんこれまで何の意味も持ってこなかったのだろう。

信じたって裏切られる。期待したって叶わない。その絶望の法則を、幼いのにもう骨の髄まで知ってしまっている。

それでも私は、彼を安心させるようにもう一度微笑む。

「朝ごはんも、厨房からこっそり持っていきますね。温かいスープと、やわらかいパンと……あと、甘いミルクも」

「……甘い、ミルク」

「はい。蜂蜜を少し入れると、すっごくおいしいんですよ」

「……飲んだこと、ない」

「じゃあ、その『初めて』を一緒に楽しみましょう」

レオン様は少し考えるように長い睫毛を伏せ、それから。

おそるおそる、私へ小さな手を差し出した。

私は、ひゅっと息を呑む。

えっ、手。

手を。

握っても、よろしいと? 私のようなモブメイドが、公爵令息にして未来の最強騎士様と、お手をつないでもよろしいと!?

脳内の限界オタクが盛大にバック転してひっくり返る。

だがここで「ひええええ」と挙動不審になるわけにはいかない。落ち着け、私。今の私は頼れるメイド兼保護者ポジ。保護者ポジなのだ。ここで尊さに敗北して奇声を上げている場合ではない。

私はできるだけ自然な動作を装って、その小さな手を両手でふわりと包み込んだ。

冷たい。

折れそうなくらい、細い。

でも昨夜より、ほんの少しだけ確かな力がこもっている。

「行きましょう、レオン様」

「……うん」

そのたどたどしい返事が、かすかでも確かに私へ向けられた『信頼』の証のようで。

胸の奥が、じんわりと熱くなった。

◇ ◇ ◇

レオン様に与えられている自室は、本館の端、日当たりの悪い北棟のさらに奥まった場所にあった。

ゲームでも“公爵家の令息の部屋とは思えないほど荒れている”というテキストがあったけれど、実際に目の当たりにした私の感想は、そんな生易しいものではなかった。

いや、ちょっと待って。

「……は?」

思わず、ドスの効いた声が漏れた。

扉を開けた瞬間、むわっと淀んだ湿った空気が押し寄せてきた。

鼻をつく酷いカビ臭さ。古びたカーテンには得体の知れない黒ずみが広がり、部屋の隅には見て見ぬふりをしたくなる緑っぽい謎の生命体(たぶんカビの親玉)まで鎮座している。

床には雪のように埃が積もり、ベッドの天蓋布も嫌な湿気を吸って重たげに垂れ下がっている。

そして何より、空間の空気そのものが妙に重い。

肌にねっとりとまとわりつくような、ぞわりとする悪意に満ちた不快感。

私はぴたりと足を止めた。

これは、ひどい。

ひどいなんてもんじゃない。

居住空間の体をなしていない。貴族の子どもの部屋どころか、これ完全に『Sランクの呪われた廃墟ダンジョン』の入り口じゃないか。

いや待って、本当に何これ? ゲームの背景スチルだと、演出上「ちょっと薄暗くて散らかってる」程度だったじゃないですか。実物、想像の三百倍は劣悪なんですけど!?

制作陣、表現をマイルドにしてたの? CEROの壁に配慮したの? こんなの完全に一発アウトな児童虐待でしょうが!!

怒りで震えそうになるのをこらえ、私は隣にいるレオン様を見た。

彼はそのひどい部屋を見ても、特に嫌そうな顔を一つしなかった。

――慣れてしまっているのだ。

その残酷な事実が、たまらなく悲しかった。

「……レオン様」

「……なに」

「いつも、ここでお休みなんですか?」

「そうだけど」

「ずっと?」

「……うん」

胸の奥が、ぐしゃっと雑巾みたいに絞り上げられるように痛む。

この子は、これを自分の“普通”だと思わされている。

寒くて、汚くて、息苦しくて、誰からも大事にされていないこの呪われた掃き溜めを、自分にふさわしい場所だと受け入れかけている。

そんなの、絶対に、一秒たりとも許さない。

「……よし」

私は静かに、けれど固く拳を握った。

「クロエ?」

「大丈夫です。今からこのお部屋、ぴっかぴかにしますから」

私が力強く宣言すると、レオン様はぱちりと目を瞬かせた。

「ぴっかぴか」

「はい。ふかふかで、きれいで、あったかくて、レオン様が心から安心して眠れる最高のお部屋にします」

「……できるの?」

「できますとも」

むしろ、やらせてください案件である。

推しの生活環境改善イベント、ここに堂々開幕。モブメイド、持てる力のすべてを出動させます。

とはいえ、問題がひとつだけあった。

実を言うと、私はまだ自分に備わっている“魔法”について、完全に把握しきれていないのだ。

昨夜、地下室へ向かう途中で、ふとランプの煤汚れに触れた時。指先からじんわりと温かな光が広がって、一瞬で汚れが『消滅』したのだ。

あれはどう考えても普通ではない。クロエの記憶を探ると、どうやら私は昔から、ちょっとした掃除や洗濯や料理が妙に上手くいく子として認識されていたらしい。

いわゆる“生活魔法”。

この世界では誰でも少しは使える、ごく地味で平和な補助魔法。

……の、はずなのだが。

昨夜のランプの煤、消え方が明らかにおかしかったんだよなぁ。

めちゃくちゃ爽快だったというか、汚れを落としたというより、存在ごと『浄化』したみたいな異常なスッキリ感だったし。

いやでも気のせいかもしれない。極限状態だったし。うん。たぶんちょっと便利で効率がいいだけ。そう、たぶん。

私はパンッと両頬を叩き、気合いを入れて腕まくりをした。

「では、始めますね」

「……何をするの?」

「お掃除です」

「……掃除で、どうにかなる?」

「なります。お掃除は、わりと世界を救うポテンシャルを秘めていますから」

私が真顔で言い切ると、レオン様はまた瞬きをした。

その反応がいちいち幼くて愛らしくて、危うく顔がでれでれにゆるみそうになる。だめだめ、今はミッション中。推しを快適空間へ導くまでは真剣勝負である。

私は部屋の中央へ進み出ると、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

不思議と、やり方は感覚でわかる気がした。

両手を前にかざして、意識を集中するだけでいい。

“汚れを取り除く”

“不快なものをすべて消し去る”

ただそれだけを、強く、強く思い描く。

「……ちょっと念入りに、お掃除しますね」

そう口にして、魔力を解放した瞬間。

ぶわり、と。

足元から、眩いほどの純白の光が巻き上がった。

「えっ」

思わず素っ頓狂な声が出た。

いや、えっ。待って。待って待って待って。

ちょっと待ってください???

私を中心に、淡い金色の魔力光が巨大な渦を描く。

それはそよ風なんて生易しいものではない。部屋中の空気を激しく巻き込みながら、まるで天を貫く『光の竜巻』みたいに一気に広がっていく。

古びたカーテンが大きくはためき、シーツが宙に舞い、床の埃がふわりと浮き上がった――と思った次の瞬間。

それらは、一片の塵も残さず消滅した。

消えた?

いや、消えた。

完全に。

頑固なカビも、こびりついた汚れも、湿気の嫌な臭いも、壁に染みついた黒ずみも。何なら、部屋を覆っていた重苦しい呪いのような空気そのものまで。

ごうっ! と最後に一際強く光が弾け飛び、その後――部屋はしんと静まり返った。

「…………」

私は両手を挙げたまま、呆然と立ち尽くした。

窓から差し込む朝の光が、まっさらでピカピカになったフローリングの床を反射して照らしている。

くすんでいた壁は見違えるほど純白になり、天蓋布は高級ホテルのスイートみたいに白く輝いている。空気は澄みきって、春先の森の朝みたいに清らかだ。

どこからともなく、ふわりと聖花のような甘くて神聖な香りまで漂っている。

いやいやいやいや。

「……お掃除?」

「……そうですね、お掃除……ですね……?」

自信がない。

ものすごく自信がない。

これ、お掃除の範疇ですか?

私の知ってるお掃除って、もっとこう、雑巾を絞ったり箒でちまちま掃いたりする、地道で家庭的な感じなんですけど。

今の、完全に神殿の最奥で行われる国宝級の浄化儀式とか、伝説の聖女が起こす奇跡とか、そういうヤバいスケール感では?

生活魔法ってもっと慎ましく日陰で生きるタイプの魔法ではなかったの? どうして光の竜巻が発生したの? どうして部屋ごと聖域みたいに発光してるの?

ひゅう、と。背後で小さな息を呑む音がして、私ははっと振り向いた。

レオン様が、信じられないものを見るように目を見開いていた。

浄化の光の残滓を映した蒼い瞳が、まるで奇跡そのものを目の当たりにしたみたいに、大きく揺れている。

「クロエ……」

「は、はい」

「今の、なに」

「ええと……ちょっと念入りなお掃除、でしょうか」

「掃除って、ああなるの?」

「私もちょっと今世では初見でして」

正直に答えると、レオン様はポカンとしたまましばらく黙り込んだ。

無理もない。私だって黙りたい。脳が状況をまったく処理しきれていない。

けれど次の瞬間、彼はおそるおそる部屋の中へ一歩踏み出した。

空気を確かめるみたいに、小さく息を吸い込む。

そして、ぽつりと呟いた。

「……くさくない」

「はい」

「息が、しやすい」

「はい」

「寒く、ない」

その声があまりにも静かで、でも確かに感動に震えていて、胸がぎゅっと締め付けられた。

私は慌てて、安心させるような笑顔を作る。

「これでもう大丈夫です。カビも汚れも嫌な匂いも全部なくなりましたし、たぶん……ええと……ちょっと、すごく清潔になりました」

「……ちょっと?」

「かなり?」

「……すごい」

「えへへ」

褒められた。

推しに、真っ直ぐな瞳で褒められた。

それだけで今すぐ廊下に出て三転倒立しながら全力疾走したい気持ちになるが、落ち着け私。まだ早い。オタクの奇行は心の中のハードディスクにだけしまっておこう。

私はピカピカになったベッドへ近づき、シーツに手を触れた。

さらりとして、ふかふかに乾いていて、しかもなんだかお日様にあてたみたいにふわっと温かい。

「あれ」

もう一度触る。

うん。やっぱり温かい。自発的に発熱してる。

「……なんで?」

「クロエ?」

「いえ、ちょっとベッドが理想の快眠温度に自動調整されておりまして」

「理想の、温度」

「はい。冬の朝に、二度寝するために布団へ潜り込んだ時みたいな至高の感じです」

「……よくわからない」

ですよね。

私も自分の魔法の原理がよくわからないです。

でも、少なくともレオン様にとって悪いことではない。たぶん。おそらく。きっと。

私は気を取り直して、換気のために窓を開けた。

さっと朝の冷たい空気が入ってくる。けれど不思議なことに、肌を刺すような冷えはまったく感じなかった。むしろ部屋全体が、見えないやわらかな膜に守られているような、そんな奇妙な安心感がある。

……いや待って。

これ、もしかして。

私はそっと窓辺の空間に手を伸ばし、意識を集中した。

すると、指先に『透明な分厚い壁』のような、明らかな魔力の反発が返ってくる。

「うそでしょ」

思わず声に出して呟いた。

「クロエ?」

「……すみません、ちょっと確認なんですが」

「うん」

「今のお掃除、たぶん汚れを取っただけじゃなくて、お部屋全体を守る『結界』みたいなものまで標準装備で張ってる気がします」

「けっかい?」

「はい。外から悪いものや冷たい風が入りにくくなる、絶対防御バリアみたいな」

「……そんなこともできるの?」

できるの、私?

いや、知らん。わからない。わからないけど、現にガッツリ張られてる。

えっ、何この魔法。便利を通り越して国家機密レベルで物騒なくらい万能なんだけど。家事のついでに国宝級の防御結界までオートで構築されるとか、サービス精神がバグりすぎてませんか。

だが、レオン様を悪意から守れるなら好都合だ。

むしろ大歓迎である。

「……たぶん、今日は特別念入りでしたので。ホコリと一緒に悪意もシャットアウトです」

「掃除で?」

「掃除で」

「……クロエは、すごいんだね」

「いえいえ、そんな大したことは」

謙遜しようとして、私は言葉に詰まった。

レオン様が、まっすぐ私を見上げていた。

まるで眩しすぎる太陽を見るみたいな、信じられない奇跡に触れたみたいな瞳で。

昨夜の、怯えきった暗い瞳ではない。

そこにあったのは、明らかな憧憬と――泥水の中から救い上げられた人間が、初めて絶対的な『光』を見つけた時みたいな、痛いほど純粋で重い感情だった。

「……神様みたい」

その一言に、私は盛大にむせた。

「げほっ、ごほっ!」

「クロエ!?」

「だ、大丈夫です、すみません、今のはちょっと予想外の角度からの被弾で心の準備が」

神様。

いやいやいや、違う違う違う。

私はただのオタクです。

推しに心身ともに健康で幸せになってほしいだけの、情緒がうるさいだけのモブメイドです。神様とか恐れ多すぎる。むしろ日々推しの尊さを崇めてお布施をする側です。こっちは信徒です。祭壇を組むなら任せてください。

しかし、レオン様は至って真剣だった。

「だって、クロエは暗闇に来てくれた」

「……」

「僕を、助け出してくれた」

「……」

「部屋も、魔法みたいにきれいにしてくれた。あったかくしてくれた」

「レオン様」

「だから、クロエは僕の神様だ」

泣く。

そんなこと、そんな無垢な顔で真顔で言われたら、泣くに決まってる。

私は思わず片手で顔を覆った。

まずい。表情筋が完全に崩壊している。嬉しいとか尊いとか切ないとか、いろんな巨大な感情が一気に押し寄せてきて、胸の中がぐちゃぐちゃにかき回される。

私は神様なんかじゃない。

でも、あなたの絶対的な味方でいたい。

あなたの世界が少しでも優しくなるなら、私はいくらでもこのチート魔法を使って手を伸ばしたい。

その思いだけは、揺るぎなく確かだった。

私はゆっくり手を下ろし、できるだけ穏やかに、優しく笑った。

「神様ではありませんよ」

「……ちがうの?」

「はい。ただのメイドです」

「でも」

「でも、誰よりもあなたの味方です」

その言葉に、レオン様は小さく息を呑んだ。

そして、昨夜と同じように、けれど昨夜よりも少しだけ自然な仕草で、私のエプロンの裾をきゅっと掴んだ。

「……じゃあ」

「はい」

「ずっと、僕のそばにいてくれる?」

心臓が大きく跳ねた。

それは、幼く切実な願いだった。

誰にも頼れず、愛されなかった子どもが、ようやく見つけた温かい拠り所へ差し出す、震えるような祈り。

私はしゃがみ込み、彼の蒼い瞳をまっすぐ見つめ返した。

「います」

「……ほんとに?」

「本当に」

「嘘じゃない?」

「天地がひっくり返っても、嘘じゃありません」

するとレオン様は、ほっとしたように目元を緩めた。

笑った、というほどはっきりしたものではない。

でも確かに、こわばっていた表情がやわらいだ。

そのささやかな変化が、世界を救うどんな奇跡よりも尊い祝福みたいに思えた。

◇ ◇ ◇

その後、私は朝食を確保するために厨房へ走った。

本来ならレオン様付きの専属使用人がやるべき仕事だが、あいつらに期待してはいけない。あの連中、わざと冷めきったスープを持ってきたり、育ち盛りの子どもの量を露骨に減らしたりするからな! 知ってるぞ!

ゲーム知識と昨夜の現実確認で、こちらの敵対心と警戒レベルはすでにMAXなんだからな!

幸い、朝の厨房は戦場のように慌ただしく、下っ端メイドの私がちょこまか動いていてもそこまで怪しまれなかった。

私は焼きたてのふかふかのパンと、具だくさんの温かいスープ、それから新鮮な牛乳をこっそりトレイに確保し、戸棚の高級蜂蜜までちゃっかり少し拝借する。

あとで絶対に埋め合わせはする。たぶん私の有能お掃除ムーブで帳消しにする。気合いで。

部屋へ戻ると、レオン様はピカピカになったテーブルの前の椅子に、きちんとおとなしく座って待っていた。

けれど、その背筋を伸ばした姿勢にはまだ遠慮と緊張がにじんでいる。温かい食事を前にしても、すぐに手をつけようとしない。

「どうしました?」

「……これ、僕が食べていいの?」

「もちろんです」

「全部?」

「ええ、残さず全部です」

「……お母様に、怒られない?」

「怒られたら私が倍返しで怒ります」

「またそれ」

「またです。何度でも言います」

私はふんす、と胸を張った。

「私はしつこいんです。レオン様のこととなると特に」

「……ふふっ」

あっ。

今、笑った。

ほんのかすかに。

でも確かに、レオン様の口元がゆるんで、小さな笑い声がこぼれた。

その事実に、私は危うくトレイを持ったままテーブルへ突っ伏しかけた。

だめ、待って、尊い。朝の清らかな光の中で、推しが初めて見せた微笑みとか、世界遺産ですか? 国宝指定案件ですか? スチル化希望です運営さん! 脳内アルバムの最重要フォルダに永久保存しました!

けれど、外には出さず、私は必死に平然を装って蜂蜜入りのホットミルクを差し出す。

「はい、どうぞ。とびっきり甘いミルクです」

「……ほんとに甘い?」

「保証します」

「クロエが?」

「ええ、クロエが」

レオン様はカップを両手で大事そうに持ち、ふーふーと息を吹きかけてから、そっとひとくち飲んだ。

その途端、蒼い瞳が驚いたように少しだけ大きくなる。

「……おいしい」

「よかったです!」

ああもう、本当によかった。

おいしいって、ちゃんと感じられるんだ。

安心して、味わって、甘くて温かいって思えるんだ。

私はその様子を親鳥のような気持ちで見守りながら、胸の中でそっとガッツポーズをした。

第一段階、クリア。

地下室イベントのトラウマ軽減、成功。

劣悪部屋の浄化(物理&結界)、成功。

推しの初笑顔、尊死寸前ながらも拝観大成功。

だが、これは長い戦いの始まりに過ぎない。

あの陰湿な継母も、傲慢な異母弟も、この先いくらでも牙を剥いてくるだろう。

レオン様の周囲には、まだまだ理不尽なイベントフラグが地雷のように山ほど転がっている。

それでも私は、もう決めているのだ。

この子の人生から、悲劇のフラグを物理と魔法でひとつずつへし折って取り除く。

傷つくたびに全力でバフをかけて支えて、奪われる前に結界で守って、最後には絶対に最強のハッピーエンドに導いてみせる。

だって私は、彼の限界オタクだから。

最推しの不幸を見過ごせるほど、できた人間ではないのである。

「クロエ」

「はい?」

「明日も、来てくれる?」

私は迷わず、深く頷いた。

「もちろんです」

「あさっても?」

「はい」

「その次も?」

「ええ、ずっと」

レオン様は温かいカップを抱えたまま、じっと私を見つめた。

その瞳の奥に灯った小さな光は、昨夜よりも確かに力強く、あたたかい。

そして彼は、まるで世界で一番大切な宝物を確かめるみたいに、小さく呟く。

「……そっか」

そのたった一言が、私の胸の一番奥底に、深く深く沁み込んだ。

たぶん彼はまだ、完全には私を信じきれていないのだろう。

また急に失うかもしれないと怯えている。

期待しすぎたら後で苦しくなると、本能で身構えている。

でも、それでいい。

今はそれでいいのだ。

失った信頼なんて、きっと時間をかけて積み重ねるしかない。

大丈夫だと、私は絶対にここにいると、何度でも行動で伝え続けるしかない。

私はスープの皿を彼の前に置きながら、心の中で静かに誓った。

レオン様。

あなたが“ここは安心していい場所なんだ”と思えるものを、私はこれからいくつでも、際限なく増やしていきます。

きれいで温かい部屋も、おいしい食事も、優しい言葉も、ぬくもりも。

ひとつずつ、ひとつずつ。

だからどうか、もう少しだけ待っていてください。

あなたの絶望に染まった世界を、私が全部、光あふれる景色に塗り替えてみせるから。

――そしてそのとき私は、まだ知らなかった。

この“ちょっと念入りなお掃除”で爆誕した結界が、ただ空気を清め、すきま風を防ぐだけの代物ではなく。

暗い悪意も、呪いも、高位の暗殺者が放つ害意ある魔力すら一切寄せつけない、“絶対聖域”と呼ぶべき規格外の防御壁になっていることを。

その異常さに最初に気づき、恐怖に震えるのが、継母側の使用人たちになることも。

そして幼いレオン様が、この朝の出来事をきっかけに、本気で私を“自分を救うために降臨した唯一の神(光)”だと思い込み、重すぎる執着を抱き始めることも――

まだ、呑気なオタクであるこのときの私は、知る由もなかったのだ。