作品タイトル不明
第18話 王立学園
人は、愛してやまない推しの成長を静かに見守る生き物である。
いや、見守るというか。
もっとこう、祈りと莫大な情熱と、若干の狂気をもって、推しの人生イベントを全力で応援する熱い生き物である。
入学、進級、初舞台、初遠征、初陣。
尊い人生の節目が来たら、とりあえず心の中で紅白の紙吹雪を撒き散らしながら「おめでとうございますーーー!! 尊いーーー!!」と号泣して叫ぶのが、限界オタクの正しい礼儀だ。
だから、本来なら。
「王立学園へのご入学、誠におめでとうございます……!」
私は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、目をきらきらさせながら、屋敷から見送るポジションで平和に祝福しているだけでよかったのである。
本来なら。
なのに、どうして。
「はあぁ……ついに、学園編……」
私は自室で、半分うっとり、半分しょんぼりしながら、トランクへ荷物を詰めていた。
王立学園。
原作乙女ゲームの本編舞台。
攻略対象が勢ぞろいし、腹黒ヒロインが本格始動し、恋と陰謀と魅了と断罪フラグが乱れ飛ぶ、きらびやかでろくでもない魔境――もとい、名門学び舎である。
そこへ、ついに、私の最推し。
レオン様が入学なさるのだ。
ああ、推しの制服姿。
絶対に尊い。絶対に眩しい。絶対に心臓へ悪い。
想像しただけで限界オタクの情緒が危うい。たぶん実物を見たら数秒は呼吸を忘れる自信がある。
だって元から顔面国宝なのに、そこへ学園制服という概念上もっとも“育ちの良さと若さと気品”が詰まった衣装が乗るのである。強い。公式からの供給として強すぎる。
でも。
「……私とは、ここでお別れなんだわ……」
ぽつりと呟くと、途端に胸の奥がきゅうっと痛んだ。
そう。
それが問題なのだ。
王立学園は、当然ながら貴族の学び舎である。
高位貴族の子息子女、あるいはよほど特別な才能を認められた者しか入れない。
モブのメイドが「じゃあ私もお世話についていきます」と気軽に入り込めるほど、甘くて優しい世界ではない。
つまり、どれだけ今、絶賛“重度の分離不安症をこじらせているっぽい推し”のメンタルリハビリ中であったとしても。
そこはもう、仕方がない。
学園編が始まったら、私は屋敷でお留守番だ。
うう。
つらい。
かなりつらい。
寮生活で、ちゃんと眠れるだろうか。
学園の食堂の味付けが口に合わなかったらどうしよう。栄養バランスは?
いやその前に、バカ王太子とかアリアとか、原作本編の厄介人物がうろうろする修羅場へ、今の推しを単独投入するの、危険度が高くない?
いやでも、推しはもう立派で強くて冷酷公爵令息なので――
「クロエ?」
背後から降ってきた甘い声に、私はびくり! と肩を揺らした。
ひえ、と思わず変な息が漏れる。
この声はだめだ。
近頃の私は、この低くて甘くて、なのに油断するとそのまま鳥籠を閉じられそうな美声を聞くたびに、条件反射で背筋が伸びてしまう。
振り返れば、案の定、レオン様が音もなく立っていた。
光を弾く白銀の髪。
静かな氷のような蒼い瞳。
部屋の入り口に立っているだけで空気の密度を変える、完成されすぎた18歳の若き当主。
今日も今日とて顔が良い。
本当に良い。困るくらいに良い。
そんな最推しが、少しだけ目を細めて、私の足元に視線を落とす。
その視線の先には、私が広げたトランクと――そして、その中へ丁寧に詰められた『レオン様の荷物』。
数秒の沈黙のあと、彼はひどく静かな声で言った。
「……なぜ、俺の荷物“だけ”をまとめているんですか?」
うっ。
私は反射的に背筋をピンと伸ばした。
いや、だって。
そうだろう。
レオン様が学園へ持っていくであろう書籍、筆記具、夜着、予備の手袋、携帯用の浄化布、気圧や気温の変化に対応できる私が調合した薬草茶のパックまで、だいぶ抜かりなく詰めていたのだ。
我ながら完璧なパッキングである。さすが専属メイド。
だがそこへ“クロエ自身の荷物”は一切入っていない。
そりゃ気づかれる。
「え、ええと……」
私は咳払いした。
「だって、明日からレオン様は王立学園の学生寮に……」
「ええ、そうです」
「ですので、その、ご不便のないように、いろいろと……」
「ええ」
「……準備を」
「それで、あなたの荷物が一つもない理由は?」
詰んだ。
問い詰める口調ではない。淡々としている。
でもそれが逆に怖い。
この人が本気で何かを確認しようとする時の静けさ、ほんとうに心臓に悪いんですが?
私はおずおずと答えた。
「私、は……その」
「はい」
「屋敷でお留守番ですので」
「…………」
空気が止まった。
比喩ではなく、ぴたりと絶対零度に凍りついた気がした。
私の部屋の中だけ、一瞬で別世界みたいに静まり返る。
そして、その死の沈黙を破ったのは、実に穏やかな声だった。
「誰が、そんなことを決めたんです」
「え」
「あなたが?」
「え、ええ、まあ、世界観の一般常識的に……」
「一般常識」
彼は一歩、こちらへ近づいた。
「俺に?」
「そこを疑問形で返されると困るんですが!?」
思わず声が上ずる。
だって本当に困るだろう。
王立学園は貴族の学び舎であり、モブメイド同伴なんて前例があるはずがない。
それなのにこの人、“俺に一般常識は適用されませんが?”みたいな覇王の顔をするのだ。
怖い。たいへん怖い。
でも、そういうところまで含めて推しとして強いのがまた限界オタクとしては困る(好き)。
すると、レオン様は懐から一枚の上質な羊皮紙を取り出し、私の目の前へスッと差し出した。
「当然、あなたも俺と一緒に来るのですよ。手続きは終わっています」
「……はい?」
時が止まった。
私は受け取った書類に視線を落とし、数秒遅れてばちんっ! と理解が追いついた。
王立学園理事長印つき。
――公爵家の特例措置として、クロエの入学を許可する。
――対外的身分は、公爵令息レオン・ヴァン・エルグランの『婚約者待遇』とする。
「いやいやいやいや!!」
私はようやく人間らしい反応を取り戻して叫んだ。
「無理です! 何がどうなっても無理です! 学園は貴族の学び舎ですよ!? 平民のメイドが“ついていきます”で入れる場所じゃないでしょう!」
「ですから、婚約者待遇です」
「そこが一番おかしいんです!」
「学園内であなたを守るのに、最も合理的な肩書きです」
「合理性で婚約者という概念を雑に運用しないでください!」
私は書類を持ったままわなわなと震えた。
「だいたい、いつの間にこんな特例を!?」
「あなたが昨夜、夜食のジャムを苺にするか林檎にするかで真剣に悩んでいた頃です」
「そんな平和な隙に私の人生のレールを動かさないでください!」
ひどい。あまりにもひどい。
しかも、特例を認めさせるための交渉術が、さらに最悪だった。
「まさか、学園長を脅したりしてませんよね……?」
「交渉です」
「どんな!」
「『クロエがいないなら、学園ごと更地にして破壊する』とお伝えしました」
「脅迫!! それ完全なるテロリストの脅迫です!!」
「俺としては、かなり譲歩した言い方でした」
「譲歩の概念がこわい!!」
だめだ。
ほんとうにだめな方向で規格外だ。
しかも、本人がそれを冗談ではなく本気で言っているのが一番恐ろしい。
「レオン様……」
私はよろめきそうになりながら額を押さえた。
「どうしてそこまで……」
「クロエ」
レオン様はすっと立ち上がり、私の前まで歩いてくる。
その動きだけで、空気が甘く変わる。
「俺は、あなたを『誰のものでもない立場』に置く気はありません」
少しだけ声が落ちる。
ひどく静かに。
けれど、その静けさの奥に、とろりと濃い執着が混じる。
「少なくとも、俺の目の届く場所では、誰にも軽んじさせない。誰にも渡さない」
胸が跳ねた。
だめだ。ほんとうにだめだ。
それはもう、分離不安症とか、囲い込みとか、そういう単語だけでは処理しきれない熱量では?
いや、でも今の私は“推しの心のリハビリを担当する者”なので!
ここで動揺してはいけないのだ。
きっとこれは、新しい環境への不安が暴走しているのだ。
そう。そうに違いない。たぶん。
「……わかりました」
私はぎゅっと拳を握った。
「私、学園でも全力でサポートしますから!」
「そうですか」
「はい! 新しい環境ですし、不安も多いでしょうし、まずは安心できる生活基盤を整えることから始めましょう! メンタルケアはお任せください!」
言い切ると、レオン様は数秒、黙って私を見つめ……ひどく甘い微笑みを浮かべた。
「ええ」
その声は、溶けるみたいに柔らかい。
「期待していますよ。俺の、ただ一人の愛しい婚約者」
心臓が止まりかけた。
だめだ。最後にそれを足すな。
こちらが真面目に“リハビリ計画”を立てている最中に、そういう爆弾を静かに差し込むのはほんとうにずるい。
◇ ◇ ◇
それからほどなくして。
私は屋敷の大きな姿見の前で、完全に言葉を失っていた。
「……」
無理。
これは無理だ。
何が無理って、可愛すぎることである。
鏡に映っているのは、王立学園の女子制服を着た私だ。
深いネイビーを基調にした上着。胸元に飾られた細やかな白いリボン。
スカートの落ち感は美しく、全体のラインは清楚なのに、細部にはやわらかな可憐さがある。
そしてそこへ、ごく控えめに、でも確実に高位貴族らしい気品が上乗せされていた。
袖口には控えめな防御魔法の刺繍。裏地は淡い銀色。
「か、かわっ……可愛い!!」
我慢できずに悲鳴を上げた。
何これ。天才では?
学園らしい清楚さがありつつ、ちゃんと“公爵家の婚約者待遇”らしい気品もある。私の焦げ茶の髪にも似合うよう完璧に調整されている。
「気に入りましたか」
背後から聞こえる、低い声。
振り向けば、レオン様が立っていた。制服姿の私を、まっすぐに見ている。
その視線の熱量に、私はぎくりとした。
頭のてっぺんからつま先まで、一つも見落とさないように、じっと見つめている。
「は、はい……!」
私はどうにか頷いた。
「めちゃくちゃ可愛いです! 私みたいなモブにここまで課金してくださるなんて……!」
「モブではありません」
さらりと否定される。
「俺の婚約者です。今は、ですが」
今は、って言った。
今は、って言いましたねこの人。
私が突っ込みかける前に、レオン様が私の背後へ回り込んだ。
すっぽりと包み込むように。
鏡越しに、彼の白銀の髪が私の肩口へ垂れる。
「っ……!」
距離が近い。近すぎる。
まるでそれが当然のように、私の肩へ顎が触れそうな近さで、鏡の中の私を見つめている。
「俺の瞳と同じ色の石を、ブローチに入れました」
「え?」
鏡を見ると、たしかに胸元へ留められたブローチに、アメジストに似た蒼紫の石が嵌め込まれている。
「これで、あなたが『誰のものか』」
「……」
「一目でわかるでしょう」
マーキング。
完全に物理的なマーキングである。
「レオン様」
「はい」
「言い方がちょっと」
「抑えましたよ。本当はこのまま部屋の奥へ隠して、一生誰の目にも触れさせたくないくらいですが」
ひえ。
出た。囲い込み(監禁)願望が出た。
でも、私はそれ以上に先に、別のことで感動してしまっていた。
だって、見てくださいよこの制服。かわいい。
推しが選んだ特注制服で、しかも推しの瞳の色のブローチつきとか、こんなの限界オタクとしては実質SSR確定演出である。供給が強い。強すぎる。
私は鏡の前で両手を胸元に当て、きらきらした目で言った。
「レオン様! さすが我が推し、解釈完全一致です! 学園生活がバラ色になるように、私、精一杯サポート頑張りますね!」
「……」
「新環境でも、メンタルケアも、食生活も、生活導線も、全部整えますから!」
「ふふ」
背後で、レオン様が静かに笑う。
その笑い方が、ひどく満たされていて、私はなぜか少しだけ不安になった。
けれど、次に聞こえた言葉はやっぱり甘かった。
「ええ。一生、ついてきてもらいますよ」
「はい!」
ああ。
そうか。
私はこれから、学園へ行くのだ。
推しと一緒に。
ダミー婚約者として。
推しと同じ舞台へ立てる。
推しの学園イベントを、特等席で拝める。
しかも、必要とされている。
こんなの、限界オタクとしてテンションが上がらないわけがない。
◇ ◇ ◇
その夜、私は新しい制服を丁寧に畳んでベッドの上へ置いた。
かわいい。何度見てもかわいい。
見れば見るほど、レオン様の趣味と執着と愛情と独占欲が、丁寧な刺繍と上質な布地に変換されている気がする。
いや最後の二つは気のせいであってほしいんですが、たぶん気のせいではない。
王立学園。
原作本編の舞台。
アリアも、バカ王太子も、攻略対象たちも、あそこにいる。
恋愛イベントの宝庫であり、破滅ルートの温床でもある場所。
でも、今の私は一人じゃない。
そして、レオン様ももう、昔の彼ではない。
「やってやろうじゃないの……!」
私は拳を握った。
学園生活。推しのメンタルケア継続。ダミー婚約者としての立ち回り。
やることは多い。でも、私は少しわくわくしていた。
――こうして。
“推しの 精神安定剤(リハビリ) ”という名目のもと。
私の新たな推し活――王立学園編は、幕を開けることになった。
もちろんこの時の私はまだ、
「婚約者待遇って、あくまでダミー設定だから」
「学園でも私は徹頭徹尾、専属メイド兼メンタルケア担当だから」
と、かなり本気で思っていたのだけれど。
残念ながら。
その認識が、学園の正門をくぐる頃には、わりと派手に崩れ始めることになるのである。