軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話 逃亡失敗、そして溺愛監禁の始まり

人は、人生の決定的な節目で、残酷な真理を悟ることがある。

たとえば、

「あ、これ私、完全にやらかしたな」とか。

あるいは、

「今この人、私の想像の五百倍くらいブチギレてるな」とか。

そして、ごくごく稀に。

「推しが空から降臨してきて、モブの夜逃げ現場を物理的に押さえることって、現実世界で本当にあるんだ……」みたいな。

できれば一生学ばずに、平和なオタクのまま済ませたかった真理へ到達することもある。

いや、ない。

普通はない。絶対にない。

ないのだが、少なくとも限界オタクである私は今、まさにその逃げ場のない神話的修羅場のど真ん中にいた。

夜明け前の薄青い冷たい空気。

町へ向かうはずだった荷馬車の影。

私の膝の上にぽつんと置かれた、逃亡用の小さなトランク。

そして、その数歩前に立ちはだかるレオン様。

白銀の髪を夜風が揺らし、漆黒の外套の裾が静かにはためいている。

氷のように冷たい蒼い瞳は、月光を映してひやりと無機質に光っていた。

綺麗だな、と。

こんな絶体絶命の状況でも呑気に思ってしまうあたり、私のオタクとしての精神構造はだいぶ手遅れである。

いやだって仕方ないだろう。

空から音もなく降臨してくる推し、絵面だけなら完全に神話のいちページなのだ。宗教画にして飾りたい。

ただし今この神話、私にとっては圧倒的に『生存の危機(修羅場)』寄りである。

「…………」

「…………」

沈黙が痛い。

ものすごく痛い。胃が痛い。

何か言い訳をせねばと焦るのに、喉が干からびて言葉が出てこない。

だって、見てほしい。

推しの目が、一ミリも笑っていない。

顔は整っている。いつものように息を呑むほど国宝級に整っている。

でも、その美しさの全部が今、静かな怒りと底知れぬ執着をまとって、逃亡犯であるこちらへ一直線に向いているのだ。

怖い。

ものすごく怖い。

なのに顔が良い。

誰か助けてほしい。オタクの情緒がどこを向けばいいのか完全に迷子である。

レオン様が、ゆっくりと、美しい唇を開いた。

「……降りてください」

低い声だった。

怒鳴ってはいない。

むしろ、ひどく静かだ。

それがいちばん怖かった。

私は荷台の上でカエルのようにこくこくと頷き、震える足で慎重に地面へ降りた。

逃げる?

無理である。

どう客観的に考えても無理だ。

今の人間離れしたチート級のレオン様を相手に、私が夜の平原を全力ダッシュしたところで、三歩で首根っこを捕まる未来しか見えない。

しかもたぶん、その場合はさらに彼の怒りゲージが跳ね上がり状況が悪化する。

だったら、ここは潔く誠実に話し合いの姿勢を見せたほうがよい。

うん。

たぶんそれが最善だ。

たぶん。

「その……」

情けないほど声がうわずる。

「起きていらしたんですね」

言ってから、自分で自分の頭をカチ割りたくなった。

なにその雑な第一声。

“夜逃げを見つかった時に言うべきことランキング”の最下位寄りでは?

案の定、レオン様はわずかに、ひやりと目を細めた。

「起きていた、というより」

静かに、でも確実に殺人的な圧を含んだ声。

「俺の視界に、あなたがいないと気づきました」

「……は、はい」

「部屋にもいない」

一歩、近づく。

「北棟の結界の気配も薄い」

さらに一歩。

「裏庭の門が不自然に開いている」

そして、視線が私の抱えるトランクへ落ちる。

「……荷馬車に、荷物まで積んである」

逃げ道ゼロの、完璧な事実確認だった。

私は思わず背筋をピン! と正した。

親に怒られている子どもみたいだな、と場違いなことを思う。

いや実際、やっていることはだいぶ怒られても仕方ないのだ。

いきなり退職願の紙ペラ一枚を置いて、ファンを卒業して夜逃げしようとしていたのだから。

「……申し開きもありません」

観念してそう白状すると、レオン様は小さく、深く息を吐いた。

「でしょうね」

「はい……」

「ですが」

彼は私を見下ろした。

深く。

静かに。

逃がさないように。

「説明はしてもらいます」

その一言に、胸の奥がきゅっと痛く縮んだ。

ああ。

そうだよね。

そりゃ、そうだ。

私はちゃんと話さなかった。

彼が「行かないで」と言ってくれたのに。一方的に決めて、一方的に置き手紙を残して、一方的に去ろうとした。

それがどれだけ失礼で、どれだけ彼を傷つける残酷な行為か、わかっていないわけじゃなかった。

でも、わかっていても、行くしかないと思っていたのだ。

「……レオン様」

「はい」

「怒って、いらっしゃいますよね」

「ええ」

一秒の迷いもない即答だった。

ひいっ。

ですよね。

ですよねえ……。

「かなり」

さらに低く付け足される。

私は思わず、ひっ、と一歩引いた。

「で、でも、その」

「クロエ」

ぴたり、と氷のような声で止められる。

「これ以上ここで、不毛な立ち話を続けるつもりはありません」

そのまま彼は、荷馬車の御者へちらりと冷酷な視線をやった。

御者のおじさんがものすごい勢いで青ざめ、ぶんぶんと首を振る。

「お、おれは何も見てませんので! この小娘が勝手に荷台に乗ってきただけでさぁ!」

「ええ、そうでしょうね」

レオン様の声は静かだった。

でも、おじさんは半泣きで馬車を出していった。

わかる。

私も半泣きである。連れてって。

次の瞬間。

「きゃっ!?」

私の身体が、ふわりと空中に浮いた。

えっ。

えっ、何が――と思う間もなく。私はレオン様の腕の中にすっぽりと収まっていた。

完全なる『お姫様抱っこ』である。

「…………は?」

限界オタクの口から、完全に間抜けな声が出た。

いや待ってほしい。

状況の進み方が早すぎる。

逃亡失敗→事情聴取かと思いきや→即お姫様抱っこ(強制連行)は、だいぶ予想外なんですが!?

「れ、れれれレオン様!?」

「歩かせると、また逃げるでしょう」

「に、逃げません! たぶん!」

「信用できません」

「即答!?」

ひどい。

でもまったく否定しきれないのがつらい。

なにせついさっきまで、本気で夜逃げを実行していたので。

私は慌てて身じろぎした。

だが、彼の腕は鉄板のようにびくともしない。

うそでしょ。

細身に見えるのに、安定感がえぐい。

いや知ってる。知ってはいた。毎日鍛えてるし、剣聖の修練も積んでるし、もはや外見以上にバキバキに強いことは知っている。

でも実際にこうして軽々と抱え上げられると、破壊力が桁違いだ。

近い。顔が良い。腕が強い。いい匂いがする。逃げられない。

情報量が多い!!

「お、おろしてください……っ!」

「嫌です」

「嫌ですって」

「嫌です」

「そんな子どもみたいな駄々を」

「俺を子ども扱いできる立場ですか。逃げ出したのはどちらでしょうね」

ぐっ、と言葉に詰まる。

だめだ。

一切言い返せない。

今の私は、完全に現行犯で確保された不審者ポジションである。

◇ ◇ ◇

屋敷へ戻るまでの道のり、私はほぼずっと頭が混乱していた。

まず、寒い。

いや正確には、夜明け前の外気は寒いのに、彼に密着して抱えられているせいで変にそこだけあたたかい。

これが非常に困る。

気まずさと恥ずかしさと、オタクとしての致命的な萌えと、微妙な安心感がぐちゃぐちゃに混線する。

次に、近い。

とにかく距離が近い。

国宝級の顔が。

規則正しい息づかいが。

高い体温が。

こんな距離、普段ですら持て余して動悸が止まらないのに、今はお姫様抱っこで完全密着である。

心臓に悪い。致死量だ。

でも抵抗すると、本気で腕の筋力が強くてびっくりする。

どうしろと。

そして何より、黙ったままのレオン様が一番怖い。

怒鳴られたほうが、まだましだったかもしれない。

だが彼は、怒鳴らない。

ただ氷のように前を向いて、私を抱えたまま黙々と歩いている。

その静けさが、かえっていちばん痛かった。

私はおそるおそる、震える口を開いた。

「……あの」

「何です」

「私、重く、ないですか」

「夜逃げを図った人間の第一声がそれですか」

「すみません」

「重くありません」

「そうですか……」

「むしろ」

ほんのわずかに、蒼い視線が下りる。

「これくらい物理的に拘束してしか、あなたを捕まえておけないのかと思うと……腹が立ちます」

息が止まりそうになった。

重い。

いやもう、本当に重い。

でも、その激重な感情の全部が、怒りと恐れと、私への強烈な執着からできているのがわかってしまう。

この人はたぶん、本気で怖かったのだ。

私がいなくなることが。

私はきゅっと唇を噛んだ。

「……ごめんなさい」

その謝罪は、やっと本当の意味で口から出た。

レオン様はしばらく何も言わなかった。

冷たい夜風だけが、二人のあいだを通り抜ける。

やがて、低い声が落ちる。

「……それは、あとでたっぷりと聞きます」

「……はい」

「今はただ、俺から逃がしたくない」

胸の奥がじわりと熱くなって、同時に少し痛んだ。

ああ。

やっぱり。

この人の中で私は、もう“いなくなっても仕方ないモブ”ではないのだ。

それが嬉しくて、でも、やっぱり怖くもある。

だって、こんなふうに強烈に必要とされて、簡単に離れられるオタクがいるだろうか。

◇ ◇ ◇

北棟へ着いた時には、私はもうだいぶ観念していた。

逃げられない。

物理的にも、精神的にも。

結界の張られた見慣れた廊下を抜け、レオン様はそのまま自室(主寝室)へ入る。

いや、待って。

私のメイド部屋ではなく?

当然のようにそっちですか?

「レオン様、あの、私の部屋に」

「行かせません」

「即答が早いんです!」

「今夜、あなたをひとりにするつもりは一秒もありません」

「そ、それは」

「何か問題でも?」

ものすごく問題がある。

いや、彼の気持ちの問題ではなく、私のオタクとしての理性の問題として大問題である。

だが、本人は本気でそう思っているのだろう。

重厚な扉が閉まり、あろうことか『鍵の音』までした。

かちり。

私は硬直した。

……えっ。

今、鍵?

鍵、かけました?

ゆっくり振り返ると、レオン様が静かにこちらを見ていた。

「何です」

「い、今」

「はい。鍵をかけました」

「なぜ」

「あなたが窓からでも逃げそうなので」

「そこまで信用ないんですか!?」

「今夜のあなたに限っては、まったく。一ミリも」

うう。

何も言い返せない。

何しろ夜逃げを実行した直後の現行犯なので。

私は広すぎる部屋の中央で立ち尽くした。

豪華な寝室。

落ち着いたあたたかな灯り。

整えられた天蓋付きのベッド。

昔、幼い彼が地下室で怯えていた頃とは比べものにならない、穏やかで安全な空間。

でも今の私は、別の意味でだいぶ落ち着かなかった。

「……座ってください」

レオン様が、高級なソファを指す。

私はおとなしく従った。

今のこの人に逆らっても、たぶん状況は一ミリもよくならない。

ならば、ここはちゃんと話すべきだ。

逃げるのではなく。

大人として、正面から。

そう決めたのに、向かいの席ではなく『隣』へぴったりと腰を下ろされた瞬間、またしても理性が激しく揺らいだ。

近い。

近いんですよね。

どうしてこう、この人は私との距離感だけ独自ルールでバグっているのか。

「クロエ」

静かな声が落ちる。

「はい……」

「なぜ、逃げたんです」

直球だった。

逃げ道のない問いに、私はぎゅっとエプロンを握った。

「……逃げた、というか。ファンとしての卒業を」

「夜中に置き手紙を残して荷馬車へ乗り込むのを、一般的には逃亡と呼びます」

「ですよね……」

ぐうの音も出ない。

でも、言わなければ。

私は深く息を吸った。

「レオン様が、もう大丈夫だと思ったんです」

「……」

「強くなられて、公爵家での立場も固まって、家の中の悪意も片づいて」

「……」

「もう、私なんかいなくても、最高のハッピーエンドになれるって」

言葉にするたび、胸が痛む。

それでも続けた。

「だから、ここで身を引くのが一番いいと、美しいと思いました」

「……誰にとって?」

「え」

「俺にとって?」

その問いに、私は言葉を失った。

ずるい。

そんなふうに聞かれたら、答えられない。

レオン様は、淡々と、静かに続ける。

「俺は、一度も“もういらない”なんて言っていません」

「……」

「むしろ逆です」

「……」

「俺のそばから離れないでほしいと、何度も伝えたはずですが」

痛いほど、ぐさぐさと刺さる正論だった。

私は俯いた。

その通りだ。

彼はちゃんと言ってくれていた。

私はそれを聞いて、うれしくなって、それでも勝手に“モブは身を引くべきだ”と決めた。

「……ごめんなさい」

また謝るしかできない。

だがレオン様は、すぐには答えなかった。

沈黙が落ちる。

長く、静かで、重い沈黙。

やがて彼は、ひどく穏やかで、冷たい声で言った。

「本当に、わからないんですね」

「……何が、でしょう」

「あなたが、俺にとって何なのか」

その一言で、部屋の空気が変わる。

私は顔を上げた。

レオン様はまっすぐ私を見ていた。

逃がさない目だ。

でも、怒りだけではない。

もっと深くて、もっと熱くて、もっと危うい『執着の炎』がそこにあった。

「クロエ」

低い声。

やわらかいのに、抗えない引力。

「あなたは、俺の人生のすべてを変えた」

「……」

「暗闇の底へ来て、手を引いて、光をくれた」

「……」

「食事も、居場所も、剣も、未来も」

「……」

「全部、あなたが俺にくれた」

私は息もできずに、その言葉を聞いていた。

「なのに」

彼は少しだけ目を伏せる。

「あなたは、それだけ与えておいて、俺を依存させておいて。自分だけ“役目は終わったので帰ります”で済むと思ったんですか」

かすれた声だった。

怒っている。

でも、それ以上に、私に捨てられることに深く傷ついているのがわかった。

胸が、苦しくてたまらなくなる。

「そんなつもりじゃ……」

「では、どんなつもりだったんです」

「わ、私は……」

言葉が続かない。

だって本当は、わかっていた。

彼にとって私が大きいことくらい。

それはずっとわかっていた。

でも、認めるのが怖かったのだ。

認めたらもう、絶対に簡単に離れられなくなるから。

すると、レオン様がそっと手を伸ばした。

ひやりとした長い指が、私の頬に触れる。

びくりと肩が揺れた。

「逃がしません」

静かな声。

それは脅しではなかった。

絶対の宣言だった。

「一生、俺の腕の中から逃がしません」

その言葉に、頭の中が真っ白になった。

えっ。

ちょっと待って。

いま、なんと?

一生?

腕の中?

逃がさない?

情報量が多い。

いや、一文としての意味はわかる。

わかるんだけど、それを本当に言うんですか!?

しかもこんな近距離で、こんな真剣な顔面国宝の顔で!?

私はぱくぱくと金魚のように口を開閉した。

だめだ。

語彙が死んだ。

限界オタク、推しの重すぎるヤンデレ的な告白めいた台詞の前で完全に機能停止である。

「れ、レオン様、それは」

「本気です」

「いえ、でも、その」

「あなたが俺から逃げるからでしょう」

「そ、それはそうなんですが!」

「なら、仕方ありません」

「仕方なくないです!」

思わず叫んでしまった。

だがレオン様は少しも動じない。

むしろ、そう言ってくれて少し落ち着いたみたいにすら見えた。

「クロエ」

「はい……」

「俺は、あなたを失うつもりがありません」

「……」

「だから、必要なら閉じ込めます」

「物騒!!」

「ええ。自覚しています」

「自覚があるならやめてください!」

「嫌です」

うわあ。

だめだ。

完全にだめなやつだ。

しかも隠す気がない。開き直っている。

でも、その“嫌です”の奥にあるのは、ただの独占欲だけじゃない。

どうしようもない不安と、恐れと、必死さだ。

あの地下室の夜からずっと、光を失うことに怯えてきた子どものままの部分が、今もちゃんと彼の根底に残っている。

だから、私は本気で怒れなかった。

私は震える息を吐いた。

「……私、そんなに信用ないですか」

「あります」

「あるんですか」

「あります。誰よりも」

「でも閉じ込める」

「あなたが夜逃げしたので」

「うう……」

正論が痛い。

レオン様は、ふっと少しだけ目を細めた。

その表情が、怒り一辺倒ではなくなっていることに、私はようやく気づく。

ああ。

この人も、怖かったんだ。

本当に。

私がいなくなることが。

そう思った瞬間、胸の奥の固結びになっていた何かが、静かにほどけた。

◇ ◇ ◇

「……ごめんなさい」

私はもう一度、そう言った。

今度はさっきより、ちゃんと相手の目を見て。

「勝手に決めて」

「……」

「勝手に、ファンを卒業して、いなくなろうとして」

「……」

「本当に、ごめんなさい」

レオン様は黙ったまま、私を見つめていた。

その視線を真正面から受け止めるのは、やっぱり少し怖い。

でも逸らしたくなかった。

「私」

言葉を探しながら、ゆっくり続ける。

「うれしかったんです。引き止めてもらえて」

「……」

「でも、そのうれしさに甘えて残っていいのか、わからなくて」

「……」

「だから、逃げました」

最後は情けないほど正直だった。

でも、それが本音だ。

レオン様は長く息を吐いた。

そして、少しだけ疲れたように言う。

「最初からそう言ってくれればよかったのに」

「……言ったら、絶対に引き止められるじゃないですか」

「当たり前です。物理的に縛ってでも止めます」

「でしょうね……」

思わず小さく笑ってしまう。

おかしい。

怒られているはずなのに。

でも、その激重な“当たり前”が、今は妙にうれしかった。

レオン様は少しだけ間を置いてから、静かに問う。

「まだ、行くつもりですか」

私は答えられなかった。

モブとして行くべきだ、という理性はまだ少し残っている。

でも、心はもう、さっきからずっとここへ強烈に引き戻されている。

少しの沈黙のあと、私は小さく首を振った。

「……今夜は、もう無理です」

「今夜“は”?」

「揚げ足を取らないでください……」

レオン様が、ふっ、と笑う。

本当に、ごく小さく。

よかった、と思った。

怒りだけじゃなくなった。

少しだけでも、いつもの彼の温度が戻ってきた。

すると彼は、そっと私の足元のトランクへ手を伸ばし、当然のように自分の側へ寄せた。

「では、没収します」

「えっ」

「また逃げられては困るので」

「いやいやいや、没収って」

「明日、改めて話します」

「……」

「ちゃんと」

その一言が、やけに優しかった。

私は反論できず、ただトランクを見つめるしかなかった。

ああ。

終わった。

私の夜逃げ計画、物理的にも完全終了である。

でも、不思議と絶望だけではなかった。

こうして空から止められて。

怒られて。

傷ついた声で“逃がさない”と言われて。

それでもなお、その全部がうれしいと思ってしまう自分がいた。

末期だ。

オタクとして、本当に末期である。

◇ ◇ ◇

その夜、私は結局、レオン様の部屋の長椅子ではなく、天蓋付きのふかふかな大きなベッドの端へ座らされていた。

いや、待ってください。

長椅子でいいんです。

私はそっちで十分なんです。

と何度も主張したのだが、すべて秒で却下された。

「あなたをひとりで寝かせると、朝にはいなくなっていそうなので」

という、ものすごくまっとうで、でもだいぶ重い理由で。

私はベッドの端にちんまり座り、膝の上で手を握りしめる。

落ち着かない。

落ち着かなさすぎる。

だってここ、推しの寝室で、推しのベッドで、しかもさっき“一生逃がさない”宣言まで受けた直後である。

心がどうにかなる。

一方のレオン様は、反対側で平然としていた。

いや、平然には見えるが、たぶん内側はそうでもないのだろう。

表情は静かでも、視線が何度もこちらを確認してくる。

その様子に、私はそっと息を吐いた。

「……本当に、心配させてしまったんですね」

「しました」

「はい」

「ものすごく」

「はい……」

しゅん、と肩が落ちる。

だが、レオン様は少しだけ間を置いて、それから静かに続けた。

「でも」

「……?」

「止められてよかった」

その声が、あまりにもまっすぐで。

私は胸がいっぱいになった。

「……私も」

ぽつりと、そう言っていた。

自分でも驚くくらい素直に。

「少し、そう思ってます」

「少し?」

「……かなり」

「そうですか」

その返事には、たしかな安堵があった。

しばらく、ふたりとも黙った。

結界の向こうで、夜風が小さく鳴っている。

昔の地下室とは違う。

ここは安全で、あたたかくて、息がしやすい。

そういう場所を、一緒に作ってきたのだ。

私たちは。

その事実が、今さらみたいに胸へ落ちてくる。

「クロエ」

「はい」

「もう、勝手にいなくならないでください」

「……はい」

「俺に、きちんと話してください」

「はい」

「逃げる前に」

「……善処します」

「そこは即答してください」

「は、はい」

少しだけ笑いが混じる。

よかった。

ほんとうによかった。

私はそっと毛布を握った。

ああ、だめだ。

もう今夜は、逃げるとか去るとか、そういう決意の形を保っていられない。

だって、こんなふうに必要とされてしまったら。

こんなふうに捕まえて、怒って、離したくないと言われてしまったら。

うれしいに決まっている。

困るくらい、うれしいに決まっている。

「……おやすみなさい」

小さく言うと、

「おやすみ、俺のクロエ」

と、すぐに返ってくる。

その声の近さに、また心臓が騒ぐ。

でももう、嫌ではなかった。

むしろ、少しだけ安心している自分がいた。

――そして、この夜を境に。

クロエの“卒業して身を引く”という計画は、いったん完全に頓挫する。

一方で、レオンの中では。

“必要なら閉じ込めてでもそばに置く”

というヤンデレ的な覚悟が、半ば冗談では済まない温度で定着していくことになる。

もちろん当の私はまだ、

「うちの推し、最近ほんとうに愛が重いな!?」

くらいの認識でいたわけだが。

残念ながら。

空から降ってきて夜逃げを阻止し、お姫様抱っこで強制回収し、鍵つきの寝室へ収容した時点で。

それはもう“重い”の一言で済ませていい段階ではなかったのだと思う。