軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

76.決断

ジークは堅苦しい衣装を脱ぎ捨て、シャツの釦をいくつか外すと大きく息を吐いてソファに座り込んだ。

ついでにブーツも脱いで放る。

今は誰も入らないように言いつけているが、そのうち脱ぎ捨てた服もブーツも片付けられるだろう。

気の利いた従僕がすでにサイドテーブルに用意してあるボトルに手を伸ばし、グラスに琥珀色の液体を注いだ。

それから中をのぞき込み、においに注意しながら一口含んで、いつもと変わらない酒だと判断してから飲み下す。

そのまましばらくソファに背を預けて目を閉じた。

口に入れるものすべてに警戒するのは子どもの頃からの習慣で、どんなに疲れていてもやってしまう。

決まったものしか口には入れず、味やにおいが違えばさり気なく食べないようにしていた。

それがあの〝ポルドロフの秘薬〟など使われたら気付かないままだったろう。

今まで生きていたのは運がよかったとしか言いようがない。

アリエスが言うには解毒薬はなく、耐性をつけるしかないということだった。

それでもある一定量を長期間飲み続けると、危険らしい。

(にしても、あれのどこが覗き見だ。堂々と会場内を動き回っていて……)

ジークにとって久しぶりのパーティーであったが、まず一番に死角になりやすいところを確認する癖は抜けていなかった。

そこでアリエスと目が合ったときには、頬を緩めないでいることに苦労したのだ。

彼女に視線を向けることはそれからなかったが、だいたいどこにいるかは気配で追っていた。

しかし、それがなかなか難しい。

訓練もされていない普通の伯爵令嬢だった彼女がこれほど上手く気配を消せるようになるなど、いったいどんな結婚生活を送っていたのだと問いたくなる。

噂だけでなく、実際に現地で調査も行わせた。

それで出てきた結果は『夫に従順なおとなしい女性』だったと。

つい噴き出してしまったのは仕方ないだろう。

だが、その報告の中で留意したのは、領館近くの村にはよく慰問に出かけていたという点だった。

その村の外れには薬師の老婆が住んでおり、そこで薬草などの扱い方を教わっていた、と。

そしてもう一点……。

ジークは体に異常がないことを確信して、一気にグラスを傾けた。

夕方のことはガイウスから報告を受けている。

パーティー会場でも噂を耳にした。

ほとんどの者がアリエスに同情していたが、中には母親に恥をかかせる必要はなかったのではないかと、非情だと言う者もいた。

あんなもの、アリエスが六年間受けてきた仕打ちに比べれば、恥でも何でもないだろう。

ジークも幼い頃から愛情に恵まれていたとは言い難いが、味方はそれなりにおり、身分という強い力があった。

どちらが不幸だったかなどという無駄な比較はしないが、お互いこれから改善することはできる。

ジークはグラスにもう一杯酒を注いだものの、飲むことはせずに揺れる液体を見つめたまま、アリエスの三つ目の願いについて思い出していた。

『――戦争となれば、自分たちの土地が侵略者に荒らされれば許しはしないだろう。しかも血が流されれば余計に』

ジークの言葉にアリエスは微笑んだが、嫌悪の気持ちが強く、今度は心が動かなかった。

戦が起これば傷つくのは民だ。

それを理解しているはずでありながら、それでもポルドロフ王国を欲するほどにアリエスの恨みは大きいのかと、ジークは落胆した。

勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になる自分が悪い。

それなのにアリエスはジークに怯むどころか、さらに微笑んで続けた。

『男性の悪い癖ですね。すぐに剣を振り回して解決しようとするのですから』

『国を手に入れるというのは、そういうことじゃないのか?』

『……今、この国の民は平和を享受しております。皆、暮らしの良し悪しは違っても、他国から侵略されているなど露ほども思っておりません。ですが実際、この国は――王家も政務官たちも、ポルドロフ王国に侵略されようとしております』

『相変わらず痛いところを突いてくるな』

『ポルドロフ側がマーデン王家乗っ取りを仕掛けてきたのは、先代国王陛下がお亡くなりになってからだと思います。おそらく、新国王一人ならどうとでもなると思われたのでしょう』

『さらにとどめを刺すな。その新国王ってのは、今お前の目の前にいるからな』

『ですが、ポルドロフ側の思惑とは違い、新国王は簡単に御せる人ではなかったのでしょう』

『そりゃ、どうも』

いつの間にか緊迫した空気は消え、いつものやり取りに戻っている。

アリエスが初めての事件を――イヤオルが殺された事件を解決したときから感じていたが、彼女は自分のペースに話を持っていくのが上手い。

政務官となれば存分にその力を発揮できるのにと、何度思ったことか。

『以前にも申しましたが、私はやられたらそれ以上にやり返す主義なんです』

あのときの言葉を思い出し、ジークは一人笑った。

アリエスが受けた仕打ちを思えば、『それ以上』とは言い難いが、実の母親にもしっかりやり返したようだ。

要するに、アリエスの望み「ポルドロフ王国が欲しい」とは、ポルドロフ王家の権力を掌握したいということなのだ。

今現在、マーデン王国の中枢部は徐々にポルドロフ王国の者たちに蝕まれている。

どうやって『それ以上にやり返す』のか、あのときは時間もなく聞いていないために、答えを保留にしたままだ。

(さすがに、今夜はもう遅いな)

アリエスが途中で会場から消えたことにも気付いてはいた。

いったいどんな秘密をまた知ったのか教えてくれるだろうかと考え、しばらくは今夜の後処理で忙しくなることを思い、ジークは大きくため息を吐いた。

当分はお預けだろう。

明後日にはアリーチェとロレンゾのことを正式に文書で通達する予定なのだ。

それ以外にも、今夜の来賓たち――ポルドロフの公爵やベルランドの大使との会談も控えている。

それぞれの国の思惑は知らないが、この二人がお互いに通じていることは何となく察することができた。

どうやらイレーンも噛んでいるようだ。

(裏切者ばかりだ……)

いつからこんなに人を信じられなくなったのだろうとジークは考え、物心ついた頃からだと気付いた。

そもそも〝信じる〟という概念がなかったのだ。

ただ家庭教師がしきりに「人を簡単に信用してはいけません」と口にしていて、ジークはわざわざ辞書で『信用』という言葉を調べたほどたった。

リクハルドはきっとそんな手間をかけなくても、『信用』という言葉をすでに学んでいる。

だが今のまま成長してはいけないのだ。

それはアリエスも理解しているのだろう。

わざわざジークの信用している人物について質問してきたのだから。

「対価は、俺とリクハルドの心の安寧か……」

改めて確認するように、ジークはあのときのアリエスの言葉を声に出して繰り返した。

自分は今さらもうかまわない。

だが確かに、リクハルドにはここまでの重荷を負わせたくはない。

心から笑い、信頼できる人たちに囲まれていてほしかった。

そして、そのときにはアリエスも一緒にいてほしい。

自分の感情を今度こそはっきり自覚して、ジークは自嘲した。

この気持ちをアリエスに告白しても、また鼻で笑われるだけだろう。

もし、アリエスがハリストフ伯爵と結婚する前に出会っていたなら……。

そんな不毛なことを考えて、一気に現実に引き戻された。

そんなことがあったとしても、当時のジークはアリエスを気にも留めなかっただろう。

たとえ気の迷いで結婚していたとしても、アリエスはすぐに殺されるか、心を病むかしたはずだ。

(いや、心を病むことはなかったか……)

ハリストフ伯爵家であれほどの屈辱に耐えていたのだから、意外と生き延びたかもしれない。

とはいえ、今のアリエスではない。

(やはり「もし」だなんて不毛なだけだな……)

今のジークと今のアリエスが出会ったことに意味があるのだ。

そして今のジークは、今のアリエスを心から笑わせたいと思っている。

それならば結論は出た。

ジークはそれを伝える時間をできるだけ早く作れるよう、グラスを空にして立ち上がった。