軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2.伯爵夫人

「まあ、なんてみすぼらしい娘かしら。本当に伯爵家の人間なの?」

「はい、奥様。間違いございません。旦那様がお望みの通りの方でございます」

「ふん、挨拶もろくにできない娘じゃない」

そこまで言われて、アリエスははっとした。

慌ててスカートを軽く摘み、膝を曲げてお辞儀する。

「マーデン王国クローヤル伯爵の娘、アリエス・クローヤルと申します」

「聞いたことないわね。まあ、いいわ。式は明日だそうよ」

「伯爵様はどちらに?」

「またあの女のところらしいわ。どうせすぐに飽きるんでしょうけど」

アリエスはきつい眼差しの熟年女性が去っていく様を呆然として見ていた。

代理人が奥様と呼んでいたので伯爵の母親――ハリストフ伯爵未亡人なのだろう。

「失礼いたします。私はこのお屋敷の執事を務めておりますヤーコフと申します。それでは、お部屋までご案内いたします」

「え、ええ。ありがとう、ヤーコフ」

混乱するアリエスに突然声がかかり、びくりとして振り返った。

驚きのあまり出迎えていた執事のことをすっかり忘れていたのだ。

代理人は執事に軽く頷くと屋敷から出ていき、アリエスは不安を押し隠して執事のあとについていった。

部屋はどうやら主寝室の隣――女主人の部屋のようだ。

大した荷物もないので荷解きするための使用人たちはすぐに出ていき、アリエスは運ばれたお茶を一口飲んでほうっと息を吐き出した。

(……あの女ってどういうこと?)

疲れてぼんやりした頭の中で、伯爵未亡人の言葉がよみがえる。

旅の途中で何度か代理人に、なぜ自分なのかと質問すると「旦那様のお望みの方だからです」としか答えてもらえなかった。

それも夢見るならおとぎ話のようではあるが、あいにくアリエスは現実主義である。

しかも代理人が答えを口にするときの嘲笑するような顔を思い出す限り、やはり甘いものではないのだろう。

おそらく伯爵には愛人がいるのだ。

しかも伯爵の母親の言葉から、彼がかなりの放蕩を尽くしていることが窺えた。

(今度もまた貧乏くじね……)

生まれたときから貧乏くじを引かされている気がする。

アリエスはお茶を飲み終わると寝室に入り、行儀悪くも靴だけ脱いでベッドに横になった。

体は本当に疲れていた。

祖国であるマーデン王国を出発してから二日馬車に揺られて国境を越え、隣国のベルランド公国に入り、また何日も馬車に揺られてポルドロフ王国に入国したのだ。

そしてこの王都まで四日間の旅をしたので、もう十日も旅していたことになる。

目を閉じると未だに馬車に揺られているようで、少々気分が悪かった。

家事と子育てを手伝っていたこともあり、体力があるおかげでこの旅も乗り切れたのだ。

「――失礼します」

女性の声にはっと目を開けると、若いメイドが立っていた。

急ぎ体を起こすと外はすっかり暗くなっており、メイドが明かりを持ってきたのだと気付く。

「ありがとう、ええっと……」

「エルスと申します、若奥様。私は奥様付きのメイドになりましたので、これからよろしくお願いいたします」

「ええ、よろしくね」

「お食事の前に湯浴みをされますか?」

「……そうね。用意をお願いできるかしら?」

「かしこまりました」

エルスと名乗ったメイドは淡々と話し、頭を下げて寝室から出ていった。

今まで風呂の用意は自分でしていたため、これからはしなくていいことに少しだけ心躍った。

細かな家事ももうしなくていいのだ。

(明日はいよいよ旦那様に会える……)

湯あみ後に部屋まで運んでくれた夕食をとり夜衣に着替えたアリエスは、ベッドに再び横になってから明日を楽しみにしていることに気付いた。

しかし、その夢は翌日になって砕け散った。

簡素な式に現れた花婿――ボレック・ハリストフ伯爵はひどい二日酔いのようで機嫌が悪く、お酒の臭いをさせながら舌打ちをした。

「おいおい、今度はずいぶん貧相な花嫁だな。あいつは驢馬のように丈夫だって言ってたが、本当か?」

ボレックの言葉は少ない参列者に聞こえたらしく、笑い声が式場に広がった。

アリエスは花婿の言葉に傷つき、笑い声を抑えることさえしない参列者に驚き、何よりボレックの言葉に戸惑っていた。

今度は、とはいったいどういうことなのだろう。

ボレックの結婚歴のことなど聞いていない。

驢馬のように丈夫だというのは、あの代理人の言っていた「伯爵のお望みの方」ということだろうか。

アリエスは屈辱に顔を赤くしたが、そんな屈辱はただの始まりに過ぎなかった。

式と同じように簡素な披露宴でも、その後の初夜でも、さらには社交界に出るころには〝驢馬のようなハリストフ伯爵夫人〟はすっかり広まっていたのだ。

またボレックの結婚歴のことも噂で聞かされた。

過去に二回もボレックは結婚しており、それぞれ病死と事故死ということになっているらしい。

だがその頃のアリエスにはわかっていた。

過去の伯爵夫人は暴行によって死亡したのか、耐えきれずに自ら命を絶ったのだろう、と。

昼間のボレックはアリエスに無関心だが――正確には夜もだが――稀に気が向くと、深夜に酔ったままアリエスの寝室に訪れて暴行を繰り返した。

「旦那様! おやめください!」

「誰がやめるかよ! お前のような女を望んだのは、この気晴らしのためなんだからな!」

ボレックの拳がアリエスを殴打し、大きな足が細い体を押さえつける。

アリエスはただ時が過ぎるのを待つだけで為すすべもなかった。

またボレックが狡猾なのは、顔や腕などの人目につく箇所に暴行を加えることはなかったことだ。

そのため、母親である伯爵未亡人も知っているだろうに見て見ぬふりをする。

しかも、子供ができないことを詰るのだ。

もし自分が身ごもってしまったら、と思うとアリエスは怖かった。

妊娠中の自分がどうなるのか、生まれた子がどうなるのか。

アリエスは恐怖を紛らわすように、社交がないときには豊富な伯爵家の蔵書を読み漁り、結婚して一年が経つ頃には使用人に頼んで村の薬師からある薬を手に入れてもらっていた。

結婚という枷があるために、この屋敷から逃れられない。

ただ使用人たちだけがアリエスに同情してくれていたのだった。