軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17.恋は錯覚

アリエスはかすかにイラっとして、ジークを睨みつけた。

それでもすぐにガイウスに向き直り続ける。

「先ほど、メイド長さんのお部屋を覗きましたけど、テーブルには飲みかけのワインが置いてあり、カップが二つありました。メイド長さんと彼女がワインを一緒に飲んだとも思えませんし、彼女が部屋から退出した後で誰かがメイド長さんの部屋を訪ねたのではないでしょうか?」

アリエスは誰とは言っていないが、ワインを一緒に飲んだと聞いて、皆がヤコテを見た。

その視線を受けて、ヤコテはいきなりアリエスに殴りかかった。

「このアマ! でたらめを言いやがって!」

ヤコテからアリエスを庇ったのは、すぐ傍にいたガイウスではなくジークだった。

ジークはヤコテの腕を掴んでひねり上げ、痛みに呻くヤコテを地に伏せさせてその体を踏みつける。

なかなか容赦ないジークをアリエスはほんの少し見直した。

だがそれを口にも表情にも出さず、アリエスはちょいちょいとジークを手招きした。

ジークは不思議そうにしながらも、仲間の衛兵にヤコテを見張るように手ぶりで示してから近寄る。

「俺はやってねえ! この女が勝手に言ってるだけだ!」

「私はあなたがやったとは一言も申しておりませんが?」

冷ややかに答えて、アリエスはジークに自分の前で屈んでくれるように頼んだ。

素直にジークが従うと、いきなりその首を絞める。

「なっ!? くっ……?」

驚いたのはジークよりも周囲だったが、当然ジークは抵抗した。

アリエスはすぐに力を緩めたので、ジークもまた抵抗をやめたが意味がわからないとでもいうように振り返り見上げる。

「普通、首を絞められると今のように抵抗するものです。苦しみから逃れようと、自分の首を絞める紐や手を離そうともがく。すると、こうして傷ができたりすることもあるようです」

アリエスはそう言って、ジークが一瞬つけたひっかき傷をガイウスに見せた。

ジークは急ぎ立ち上がると、傷ついたアリエスの腕を掴んだ。

「大丈夫です。咄嗟に抵抗しただけで、あなたは私が力を緩める前に抵抗をやめたでしょう?」

「無茶をするなよ。焦って剣を抜いたかもしれないんだぞ?」

「あなたはそんなに簡単に剣を抜いたりしないわ」

アリエスはジークから腕を振りほどくと、もう一度屈んでドロタの腕を掴んだ。

わずかしか持ち上げられなかったが、皆が目にするには十分だっただろう。

「メイド長さんは、職業のわりにずいぶんと爪を伸ばしていたようですね。しかも剥がれたり折れたりしているところを見ると、かなり抵抗したようです。相手の腕や手には多くの傷が残っているのではないでしょうか?」

疑問形のようでいて、確信を持った強い言葉をアリエスは口にした。

それからまっすぐにヤコテの腕に視線を向けると、皆も再びヤコテを見た。――今度は顔ではなく、その腕を。

ヤコテの右手には真新しい引っかき傷があった。

その手を慌てて隠した左腕にも傷が見える。

「こ、これは違う! 酔っぱらっていつの間にかできた傷なんだ!」

皆がヤコテの言葉を信じてはいなかったが、衛兵に摑まれたままのフロリスの腕に視線を移した。

衛兵は自分が未だにフロリスの腕を摑んだままなことに今さら思い出したのか、はっとしてその細い腕を持ち上げた。

「いっ!」

歪な体勢で腕を持ち上げられたせいか、フロリスの口からうめき声が漏れる。

フロリスの手は生傷だらけではあったが、人に引っかかれたような傷はなかった。

「……ヤコテ、ちょっと詳しく話を聞こうか」

「違う! 俺は悪くねえ! 悪いのはドロタだ! 金を出し渋りやがって、ついにはもう二度と顔を見せるなって言いやがったんだ! 亭主を何だと思ってるんだ! だからちょっとばかし、お仕置きしてやったのさ! それの何が悪い! 亭主は女房を好きにしていいんだよ!」

衛兵二人に取り押さえられ、連行されるヤコテは喚き始めた。

その内容が自分が犯人だと認めていることには気付いていないのか、アリエスを睨みつけてさらに言い募る。

「お前のせいだ! お前が現れなかったらうまくいってたんだ! 女のくせに生意気なんだよ!」

「生意気なのは認めますが、それは私が女だからではなく、私という人間だからです」

「何わけわからねえこと言ってやがんだ! あんなガキを庇いやがって! これだから女は使えねえんだ!」

「庇ったわけではなく、事実を述べただけです。それでは、私は失礼します。皆さんもお仕事を始められるべきでは?」

ヤコテの変貌ぶりに呆気に取られていた者たちは、アリエスの言葉にはっとしてその場から散るように去っていった。

皆、ぼうっとしていられる立場ではないのだ。

ただ、それほどの遅刻という時間でもなく、この事件を直接見ていたと話せば主人にも仲間にもきっと許されるだろう。

噂好きの貴婦人たちには逆に喜ばれるかもしれない。

皆の足取りが心なし軽いように見えるのは、このことを早く話したいからだ。

アリエスは女官長の部屋へ行くことを諦めて、資料室に向かうことにした。

「あれ? 使用人棟の四階に用があったんじゃないのか?」

「労働時間です。あなたも働きましょう」

「俺は――」

「お仕事ですよね。どうぞお戻りください」

「いやいや、仕事場までご一緒しますよ」

アリエスは再びジークを疑わしげに見た。

ジークは無邪気な笑顔を浮かべたが、それがまた怪しい。

アリエスは深くため息を吐いて、資料室に向かった。

「あいつも馬鹿だよなあ」

「そうですね。疾しいことがある人ほどペラペラ喋るとは、本当のようですね」

「あいつが怪しいと思ったのは、メイド長が突き落とされたって言ってたからか?」

「そうですね。あの方がメイド長を絞殺したのだとわかったのは、その発言からです」

「じゃあ、メイド長の遺体を見る前から絞殺されたことはわかっていたのか?」

「室内が少し臭いましたから」

「臭った?」

「ええ、尿の臭いがしました。首を絞められて失禁したのではないかと思ったのです。まあ、他の殺害方法も考えられましたが、毒ではなさそうでしたし、単純に絞殺かな、と。遺体を近くで見ると、首にそれらしい痕も見えましたから。全て書物で得た知識ですので、確かではありませんでしたがどうでしょう?」

「ああ、そうだな。首を絞められて失禁するやつはいるな。しかも失禁だけならまだいいほうだ」

ジークは経験上知っているのではないかと問いかけたのだが、予想通りあっさりと答えが返ってきた。

それ以上の言及はしないアリエスの気持ちを察してか、ジークは話題を変える。

「あんたの言った醜い場面ってのは、大嘘つき野郎のヤコテの下手な演技のことか」

「恋愛というのは脳が退屈しのぎに起こしている錯覚にすぎません。その錯覚に酔いしれている方に対しては気の毒だと思います。ですが、誰かを騙すためにその錯覚を利用する者については嫌悪しか感じません」

「……なあ、あんたは誰かを好きになったことはあるのか?」

「ありません」

はっきりと言い切ったアリエスは、資料室の扉を開けると自分だけ入り、振り返った。

その顔は無表情でいて、これ以上は踏み込ませないという強い意志が感じられる。

「それでは、これで失礼いたします」

ジークが答える間もなく、ぱたんと扉は閉められた。

その古びた扉を見つめ、ジークは軽く肩を竦めると本来の仕事に戻るためにのんびり歩き去った。