軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

87.香り

「それは、プロポーズと受け取ってよろしいですか?」

「ああ、今度は本気だ。結婚してくれ、アリエス」

冷静に受け止めたアリエスは、確認のために問いかけた。

すると、ジークは茶化すことなく真剣に頷く。

以前一度、冗談まじりに言われたときは簡単に流したが、今回は本気だとわかってはいた。

今、ジークと結婚すれば、間違いなく命を狙われるだろう。

アリエスは毒について強くても、物理的にはどうしようもない。

しかし、裏を返せば物理的に守られれば、かなり生存確率が高くなる。

「確かに……現状、陛下の結婚相手として、私はかなり優良ですものね。毒に強く、実家の干渉を気にしなくていいのですから」

しかも、この結婚の目的は第一にこの国の将来を――リクハルドを守るためのものなのだから、子どもを生む必要はない。

ただし、それをポルドロフ側に知られるわけにはいかないが、秘密は守られるだろう。

「受けてくれるか?」

「さすがにすぐにはお返事できません。命をかけるだけの価値があるのか、考えさせてください」

ジークが手に入れる情報すべてというのは、やはり魅力的である。

情報を細かく精査すれば、見過ごしているものも見えてくるかもしれない。

「ま、そうだよな。簡単には答えられねえよな。命を狙われるんだから」

「こういう場合は、『俺が必ず守る』くらいは言うものだと思いますが」

「言うだけなら、言うぞ」

アリエスがすぐには答えられないと言うと、ジークも納得してすぐに引いた。

自覚はなかったが、アリエスは緊張していたらしい。

ほっとしたアリエスの皮肉に、ジークは笑いながら答えた。

守れもしない約束を簡単に口にするのも、守るつもりのない約束を姑息に使うのも、アリエスは嫌いだった。

その点、ジークは信用できる。

「嘘はいらないので遠慮します。それに、あなたのために死ぬつもりはまったくありませんが、先ほどの言葉は意外と気に入ったので、前向きに検討します」

「ありがとう、アリエス」

「お礼もいりません」

きっぱり言い切ったアリエスは、修繕を終えた本を置いて立ち上がった。

ジークと話をしている間、アリエスはほとんど手を止めることはなかったのだ。

その一貫した態度が好ましく、ジークはにこにこしていた。

アリエスはそんなジークを訝しげに見てから、資料室を先に出ていったのだった。

その翌日。

リクハルドを寝かしつけ、アリエスがほっと一息ついたところで、再びジークが現れた。

手には酒瓶を持っている。

アリエスが酒瓶を見ていることに気づいて、ジークはにやりと笑った。

「今夜は少し強い酒が飲みたいんだ」

「この部屋で飲む必要がありますか?」

「話し相手がほしいんだよ」

「酒場にでも行かれたらどうです?」

昨日、プロポーズされた相手に対して、アリエスの態度はかなり冷たい。

普通の男性なら諦めただろうが、ジークはめげなかった。

「夕方、カスペル侯爵領から早馬が戻ってきた」

「今度はどなたが亡くなったのですか?」

まだ早馬が戻ってきたとしか言っていなくても、アリエスには何の報せかわかったらしい。

すぐに態度を翻し、いつもの席に腰を下ろして聞く態勢に入る。

ジークは戸棚からグラスを取り出すと、テーブルに置いてアリエスの向かいに座った。

以前はジークの部屋だったため、室内の勝手はよく知っているのだ。

それも、アリエスがリクハルド付きになるまでこの寝室はいっさい手が入れられてなかったからだろう。

今はベッド周りと戸棚の下部にぬいぐるみや絵本などを置いている。

「カスペル前侯爵夫人の侍女が調理場からナイフを持ち出し、夫人のベッドの上で自分の腹を刺して死んでいたらしい」

「ずいぶん回りくどいですね」

ジークはアリエスと自分のグラスに酒を注ぎながら答えた。

二人ともグラスを傾けると、酒をしばらく口に含んでから飲み下す。

しばらく沈黙が落ちたのは、酒が喉から腹へと流れこむのを待っているからだ。

どうやら思っていた以上に度数が強かったらしく、アリエスはかすかに眉を寄せた。

「強すぎたか?」

「飲めないほどではありませんが、好んで飲もうとは思わないですね」

「それは気が利かなかったな」

「酔うわけではないのでかまいません。それで、ラリーは見つかったのですか?」

「マンベラスの仕業だとずいぶん確信があるんだな?」

「そうでなければ、わざわざ私に知らせないでしょう?」

お酒の話からさっさと話題を戻したアリエスに、ジークは疑わしげに言う。

アリエスは馬鹿らしいとばかりに鼻を鳴らした。

「ま、その通りなんだがな。一見して自殺に見えたそうだが、不自然な点が多かったらしい。いつもならそこまで気にせず後追い自殺として処理したところだが……。ああ、もちろん他の者――使用人たちには、自殺だと思わせたままだ。とはいえ、その侍女は前侯爵夫人にきつく当たられていたそうだから、怪しむ者もいるようだ」

「ああ……」

ジークの説明を聞いて、アリエスは前侯爵夫人がアリーチェに面会していたときのことを思い出した。

あのとき盗み聞いた中で侍女の愚痴を言っていたが、おそらく殺された侍女のことだろう。

「では、その侍女が毒を盛った実行犯なんでしょうね。おそらくラリーに誑かされ唆されて、結局は口封じに殺された。――にしても、その不自然な点というのは、きっとわざとね」

「俺もそう思うよ。アリエスから聞いたマンベラスの話から導き出せばだがな。そしてもちろん、マンベラスの姿はなかったそうだ。犯人を取り逃したことは、ロレンゾも悔しがっているらしい」

「あら、ロレンゾもラリーのことを疑っているのかしら?」

「追手をかけたときに、ロレンゾには事情を伝えたからな」

「そういうことね。それで、不自然な点というのは?」

好奇心を隠さないアリエスに、ジークは小声で笑った。

リクハルドが起きないように気を遣っているようだ。

「わざわざ調理場からナイフを持ち出すこと自体おかしいだろ? 死に方なんていくらでもある。首を吊るなり、飛び下りるなりな。それなのに、自分の腹を刺して死のうと思うか? 相当の覚悟がないとできないだろうに、致命傷となるほど深く腹を突き刺すには力もいる。しかも、ナイフの握り方がおかしかったらしい」

「確かに、女性の自死としては珍しいかもしれませんね。握り方に関してはよくわかりませんが、不自然だということですね」

「ああ」

アリエスは本から得た知識はあっても、刃物については嫁ぐ前に調理の手伝いで扱った程度しかない。

そのため、実際に剣を扱うジークたちの意見をそのまま受け入れた。

本音ではもっと詳しく知りたいが、今の本題はそれではないので後回しにする。

アリエスがある程度理解したのを見て、ジークは続けた。

「何より疑わしいのは、致命傷となるよう深く腹を刺した後にわざわざ切り上げているんだ。普通の侍女がそこまでするとは思えない」

「切り上げる?」

「こう、刺したナイフを動かして刃を腹の上方へ持ち上げるというか、要するに傷を抉るんだよ」

「それは……とても痛そうね」

「かなりな」

ジークがナイフを握ったふりをして身振りで説明すると、アリエスはわずかに顔をしかめた。

さすがに動じているのかとジークは思ったが、どうやら違ったらしい。

アリエスは何か考えるように黙り込み、次いで淡々と疑問を口にした。

「それほどの痛みなら、悲鳴を上げそうですが、聞いた者はいなかったのでしょうか? 口を塞がれていたとしたら、犯人は――ラリーは片手でナイフを刺した? それとも侍女を縛っていたのかしら? だとしたら、痕が残っていなかったか知りたいですね」

アリエスの疑問はもっともなことで、今まで思い至らなかった自分の愚かさをジークは痛感した。

昔、自分が運悪く腹を刺されたときは、声を出さないよう必死だったからだ。

だが普通は声が出せなくても、どうにかして助けを求めようとするだろう。

「本で読みましたが、お腹を刺されてもすぐには死ねないそうですね?」

「ああ、そうだな。手当をせずに放置すれば一日程度苦しみ死ぬか、運良く助かることもある。だが今回のように深い刺し傷だと出血が多くなり、それほどの時間もなく失神してそのまま死ぬ。もちろん一概には言えないがな」

「だとすれば、彼女は死ぬまで――意識を失うまでの間、何をしていたのでしょう? ただ横たわって死ぬのを待った?」

「抵抗すれば、それだけ衣服の乱れもあるだろうし、誰かが異変に気づいた可能性もある。だが、そのような報告は受けていない。本当に自殺ならば、静かに死を受け入れた可能性もあるが……」

そこまで答えて、ジークははっとした。

もしはじめから意識がなければ、騒ぎようがない。

だが寝ていたとして、腹部を刺されれば目を覚ますだろうし、多少は足掻くはずだ。

「芸がないわけではありませんでしたね。ラリーは新しい薬か毒を試したのかも……例えば催眠剤とか幻覚剤? 酷い痛みがあっても目を覚まさないほど強力なのかもしれません」

アリエスにとっては、実際にその現場を見ることができなかったことが残念だった。

どうにかしてアリーチェと一緒に侯爵領に向かえばよかったと考えたとき、リクハルドが寝返りを打った音で我に返る。

静かに立ち上がったアリエスは、リクハルドが蹴飛ばした上掛けをそっと戻しながら、自分の卑しさを後悔した。

好奇心に支配されては、いつか心身を滅ぼしてしまうだろう。

それはきっとラリーも同様なのだ。

席に戻ったアリエスは好奇心を抑えて切り出した。

「……室内でお香か何かを焚いた跡がないか、調べてもらってもよいでしょうか?」

「お香? 前侯爵夫人ならないこともないんじゃないか?」

「そうですね。一時期はかなり流行しましたし、今でも使用している女性はいるようですから」

二十年ほど前に東方から伝わってきたお香は、当時上流階級の間で大流行した。

ただ今ではすっかり下火になっている。

「お香は今でも薬師の間でよく使われているんです。いえ、正確には流行する前から使われていました」

「薬師がお香を何に使うんだ?」

「治療中の緊張を解すためや痛みの軽減……などですね」

「お香にそんな効果があるのか……」

「私はジークが知らなかったほうが驚きですね。お香には精神に作用するものもあるのですから、気をつけてください」

「精神って……。ひょっとして、今回の侍女はそのお香とやらで眠らされた可能性があるということか? そんなものがあればかなり広範囲の人間を眠らせられるってことじゃないか」

驚くジークに、アリエスは冷静に頷いて肯定した。

ジークはグラスを傾けて一気に飲む。

「本来なら、それほど心配はいりませんでした。いくらお香に薬を混ぜようと、その名の通り香りがありますから異変に気づきます。ですがもし……」

「マンベラスが新しい催眠剤を開発したのなら、大問題だな」

「そうですね。ですが、以前もお伝えしたように、ラリーは好奇心が大きすぎます。そして、顕示欲が強い。間諜としては失格です」

アリエスもまた残っていた酒を一気に飲み干し、グラスを置いた。

幽霊騒動の渦中にあったヘベノンは幻覚剤としても使われていたが、燃やせば当然臭いはする。

ラリーがヘベノンを扱いやすいように実験を繰り返していた可能性を考えて、アリエスは再び顔をしかめた。

「今回の情報には感謝します。ですが、今回は等価交換ですよね?」

「……そうだな。とにかく、これからは匂いにも気をつけるよ」

「そうしてください」

もう話は終わりだと暗に告げるアリエスに応えて、ジークは立ち上がった。

そして隠し扉へと向かいながら言う。

「返事は気長に待つよ。どちらにしろ、どうしようもないからな」

「そうですね」

背を向けたままのジークに、アリエスは静かに答えた。

アリエスがプロポーズを受けようと受けまいと、ジークが命を狙われることに違いはないのだ。

結婚すれば、標的が増えて力が分散されることと、動揺を誘うくらいだろう。

だがそれで敵が尻尾を出してくる可能性も高くなる。

ジークが去ってからもしばらくぼんやり立っていたアリエスは、テーブルに酒瓶が残されていることに気づいてわずかに口角を上げた。

酒はまだ半分以上残っている。

要するに、また酒を飲みに来るつもりだということだ。

いっそ捨ててしまおうかと思ったアリエスだったが、結局は秘密の小部屋に仕舞ったのだった。