軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

蒼天の旅立ち

赤子が生まれて三カ月、ようやく乳母が見つかった。シルフィアはひっそりと旅支度を整え、ベビーベッドで眠る我が子を眺める。

――甘いやつだ、とシルフィアは思う。服も荷物も金銭も、取り上げてしまえばいいのに。『姉の私物だから』と手入れして、私室にきちんと揃えてくれた。ああ、なんて甘く優しい弟だろうか、と。

(名を付けることまで許してくれた)

当然のように、「それで、名は何にするんです」と言ったエルンストの顔を思い出し、シルフィアは泣き出しそうな顔つきで微笑んだ。ここに産み捨てていく自分にそんな権利などあるはずがないのに。

「…………アルベルティナ」

亡くなった父の名からもらって、『アルベルティナ』と名付けた。まさか両親が亡くなっていると思わず、そんなところまで、ああ、自分はなんて薄情な人間かとシルフィアは奥歯を噛み締める。それでもどうか『光あれ』と願うことを許して欲しいと、シルフィアはすやすやと眠る娘にそっと手を伸ばした。

「――何一つ案じることはないぞ、アルベルティナ。私はここ以上に温かく幸せな家を知らない。お前はきっと幸せになる」

確かな信頼と共に、シルフィアはそっとささやく。母乳を蓄えた胸が、『この子に乳を与えたい』と訴えるようにじくじくと痛んだ。それでも、自分はこの家に混乱と騒動と迷惑しか与えられないと痛感している。アルベルティナを連れて行こうにも、こんなにも小さくか弱い命が今からやろうとしていることに耐えられるわけがないと理解している。

「だからどうか、こんな薄情な女のことは記憶に残さないでおくれ」

産んだらすぐに出て行こうと決めていた。母だと認識される前に姿を消さなければ、と。乳母が見つからず想定以上に身を寄せてしまったが、手厚い世話のおかげもあって身体はひとまず癒えた。衰えた体力はこれから取り戻していこう。シルフィアはそう考えながら、そっとそっと優しくアルベルティナの髪に触れる。

「どうか、お前に幸多からんことを」

最後にそうつぶやいて、シルフィアは踵を返す。部屋を出て、ずんずんと進む足取りに迷いはない。――勝手知ったる実家だ。抜け出すなど造作もない。シルフィアはその大きな体躯からは想像できないほど静かに、誰にも悟られることなく屋敷から姿を消した。

「おお、いかんいかん。私はいつも考えが足らんのだ」

ラウテル家の敷地を抜け出した直後、シルフィアはふと気づいて立ち止まる。両親はすでに亡く、エルンストはまだ独身だった。行き道は何も考えつかずに訪ねてしまったが、もしかしたら、妊娠した女が屋敷に入っていったとなればエルンストの縁談に差し支えるのではないだろうか!

妙な女はきちんと出ていったのだと示してやらなければ。シルフィアはひとりうんうんと頷き、わざと目立つように堂々と道を歩き始めた。人の視線を感じる。シルフィアは大変満足しながら貴族街をずんずん歩く。

王都を出れば、野駆け、山駆け、それから国境越えだ。不法出国かつ密入国で。体を鍛え直しながら進まねばならんな、とシルフィアは肩を回す。

「双方知らんとはいえ、あれはアルベルティナの父だからな。死なせてしまっては寝覚めが悪い」

妙なことに足を突っ込んでしまったものだが、これも縁というものなのだろう。いっそどっぷりと浸かってみようか、とシルフィアは獰猛な笑みを浮かべた。

「さあて、やってやるか」

貴族街を抜け、下町を経て、街の外に。シルフィアは一路、陰謀渦めく隣国へ向かう――

§

「あの……ッたわけがァ……ッ!!」

エルンストの呪詛を吐くような声が執務室に響く。シルフィアが 忽然(こつぜん) と姿を消したことにより、ラウテル家は更なる混乱に見舞われた。なんと、『生まれた赤子を取り上げ平民の女性を追い出した』という噂のおまけ付きで。

いや、シルフィアが出ていくこと自体は想定していたのだ。だからエルンストは三ヶ月間、口を酸っぱくして『ラウテル家で養育するにしても、それで良しとせずに十年を目処に一度は必ず顔を出すように』とシルフィアに言い続けたのだから。ただまさか事前の相談なくいきなり出ていくとは思っていなかっただけで。ついでにまさか堂々と貴族街を歩き、噂を悪化させていくとは思っていなかっただけで。

とにかく、アルベルティナを引き受けたことによりエルンストは『追々……』などと言っておられず、急ぎ結婚を決めなければならなくなった。悪化した噂はもういっそ泥を被るついでだ。元々姪をどこか都合のつく夫婦の子供と偽るつもりもない。しかし実子として育てると、エルンストに万が一のことがあった場合アルベルティナが後継者と見なされてしまう。

死んだと偽った姉が産んだ、父親のわからぬ娘だ。どこでどう火を吹くかわからない事情を抱えた者にラウテル家を継がせられるわけがない。家としての決定権を託せる配偶者が必要だった。実子を授かる可能性も。

……いや、別にエルンストは女性を毛嫌いしているわけではない。ただ女性が何か話そうとしたときに身構え、「よし、来い」と覚悟を固める習慣が身に染み付いているせいで、親しい間柄の女性を作れずにいただけで。更にはその習慣のせいで『女嫌い』とまことしやかにささやかれ、一層女性と縁遠くなってしまっただけで。

エルンストは火急、妻の選定に乗り出した。条件はとにかく噂好きでなく口がかたい女性。そしてできるだけラウテル家から利益を提供できる人。多少浪費癖があってもいいから、とにかく欲をかいてアルベルティナを虐げたりしないこと。

条件に該当しそうな女性数名の身辺調査書から一枚取り上げ、エルンストは青ざめた顔をシモンに向ける。

「……この方はどうだろうか。『集合住宅で飼われている猫をかわいがっている』と記載されている。か弱い赤子をむざむざと虐げたりしないのではないだろうか」

「かしこまりました……」

まさかこんなきっかけで主人が結婚を決めるとは……と形容しがたい気持ちを抱え、シモンは差し出された調査書を受け取る。

そこには、『セシリア・デ・フェール』と記されていた。