軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第32話 差額

差額が出た。

書記局の、自分の部署の帳簿から。

朝、執務机に着いて最初にやったのは、前日に書けなかった帳面の続きだった。

日付を書いた。ペンは動いた。二日前の夜、書斎で凍りついた指先が嘘みたいに、今朝は普通に動く。ブレーメンの報告書のことは──まだ胸の底に重い。でも帳面は開けた。記録を止めたら、書記官じゃなくなる。

帳面を閉じて、月次帳簿の束に手を伸ばした。

先日、各部署の初月報告は全部検査した。経理課の銀貨三枚を差し戻して、他は正常。今日は──書記局自身の帳簿を検査する。

自分の部署の帳簿。私が条文を書いた制度で、私が所属する部署を検査する。

表紙を開いた。「二重記帳制度準拠」の印。三列。配分額。支出額。残額。

加えて──宮廷省の年間予算通達との照合列。これは新書式にだけある。旧書式にはなかった。各部署に配分された予算額が、宮廷省の通達と一致しているかどうかを突き合わせるための列。私が条文に書き足した仕組みだ。

指で行を辿った。

一行目。人件費。配分額──宮廷省通達と一致。支出額。残額。差額なし。

二行目。消耗品費。一致。差額なし。

三行目。通信費。一致。差額なし。

四行目。施設維持費。

配分額。

指が、止まった。

宮廷省の通達額は年間十二金貨。帳簿の配分額は──十五金貨。

三金貨の差額。

通達額と帳簿の配分額が合わない。宮廷省は十二金貨を配分したと言っている。帳簿には十五金貨と書いてある。三金貨分、帳簿の方が多い。

支出額と残額を確認した。支出は十五金貨の配分額に対して正しく計上されている。残額も合っている。つまり──支出と残額だけを見れば、何の問題もない。数字は全部合う。

(……旧書式なら、見えなかった)

旧書式には宮廷省通達との照合列がなかった。配分額そのものを操作されたら、支出と残額がそれに合わせて正しく計上される限り、差額は浮かばない。

新書式の照合列が──配分額の操作を、浮かび上がらせた。

帳面を開いた。日付。「書記局月次帳簿、施設維持費に金貨三枚の差額。宮廷省通達額12金貨に対し帳簿配分額15金貨。照合列にて検出」。

書きながら、ペンを持つ手が重かった。経理課の銀貨三枚は計算ミスだった。でもこれは──配分額の段階での操作だ。計算ミスでこうはならない。

帳簿の配分額を操作できるのは、予算配分の決裁権を持つ人間だけだ。

決裁印を確認した。

施設維持費の配分額欄の横に、承認印がある。印影を見た。

フリッツ局長の局長印。

ペンが、止まった。

フリッツ局長の執務室の扉を叩いた。

「局長。帳簿検査の報告があります」

「入れ」

入った。帳簿を開いて、局長の机に置いた。指で、施設維持費の行を示した。

「宮廷省の通達額は十二金貨です。帳簿の配分額は十五金貨。三金貨の差額が出ています」

フリッツ局長が帳簿を覗き込んだ。眼鏡越しに数字を追う目が、一行ずつゆっくりと動いた。

「決裁印は──局長印です」

言わなければならなかった。言いたくなかった。この人は、ブルーメ元局長に名前を奪われた五年間を知っている人だ。正規登用を推してくれた人だ。制度の上申書に署名してくれた人だ。

でも──帳簿は嘘をつかない。差額は出ている。決裁印は局長印。報告しないという選択肢は、書記官にはない。

「……そうか」

局長の声は低かった。でも取り乱してはいない。怒ってもいない。眉の角度も変わらなかった。五ミリ上がりも、下がりもしない。

局長が椅子から立ち上がった。

執務室の奥の棚──鍵のかかった書棚。出張記録や決裁履歴が綴じてある棚。局長以外は触れない棚。

ポケットから鍵を出した。棚を開けた。綴じ台帳を一冊取り出した。

私の前に戻ってきて──台帳を、机の上に置いた。

その横に、棚の鍵を置いた。

何も言わなかった。「調査しろ」とも、「信じてくれ」とも、「説明させてくれ」とも。

棚の鍵と出張記録の台帳。それだけだ。

(……この人は、言葉では言わない)

春の公聴会のとき、二百四十七件の改善案に私の名前を載せてくれたのも、書面の一筆だった。制度の上申書に署名してくれたときも、「頑張れ」とは言わなかった。「書け」とだけ言った。

この人のやり方は、いつも同じだ。言葉ではなく、鍵を渡す。棚を開ける権限を手渡す。あとは記録が証明する。

「……承知しました」

台帳と鍵を受け取った。

執務室を出るとき、一度だけ振り返った。局長は椅子に座り直して、帳簿を見ていた。眉は動いていない。でも──手元の帳簿のページを、いつもより長く見つめていた。

午後。執務机に出張記録の台帳を広げた。

まだ開かない。先に、差額の全体像を把握する。

書記局の帳簿を最初の月まで遡った。二重記帳制度が施行されたのは春の初め。それ以前の帳簿は旧書式で、照合列がない。だから──施行前の差額は、旧書式の帳簿からは見えない。

でも、宮廷省の通達記録は残っている。過去三ヶ月分の通達額と、帳簿の配分額を突き合わせた。

帳面を開いた。日付を書いた。

一件目。施行月。施設維持費。差額三金貨。

二件目。施行前一ヶ月。通信費。差額二金貨。

三件目。施行前二ヶ月。施設維持費。差額三金貨。

四件目。施行前三ヶ月。消耗品費。差額二金貨。

三ヶ月分で、四件。合計十金貨。

費目がばらばらだ。同じ費目が続かない。施設維持費が二回、通信費が一回、消耗品費が一回。目立たないように分散させている。

(……慣れている。この手口に、慣れている人間の仕事だ)

前の世界で、経理不正の報道を何度も読んだ。小さな額を複数の費目に散らす。一件あたりの金額を閾値以下に抑える。監査の目をすり抜ける古典的な手法。

この世界でも──同じことをやっている人間がいる。

四件の日付を帳面に並べて書いた。

日付。日付。日付。日付。

四つの数字が縦に並んでいる。

(……何か、法則があるかもしれない)

棚の鍵が、ポケットの中で冷たい。出張記録の台帳は、まだ開いていない。

今日はここまでだ。日付を書き出しただけで、退勤の鐘まであと三十分。照合は明日にする。急いで間違えるわけにはいかない。恩人の名誉がかかっている。

帳面を閉じた。日付の四つの数字を、目に焼きつけた。

新居の書斎に入って、灯りをつけた。

机の上に──紙片が置いてあった。

灰色インク。角ばった筆跡。見慣れた字。

『インクの補充、書棚の二段目。──V』

紙片の横に、目を移した。帳面用のインク壺が──新しい瓶に替わっている。前の瓶は底が見えかけていた。いつ替えたのだろう。今朝、出勤する前にはまだ古い瓶だった。

(……ヴェインは私より先に帰っている。書斎に入って、インクの残量を見て、書棚の予備と交換して、メモを書いて──台所に戻った)

インクの残量を確認する人間。帳面用のインクが切れかけていることに、持ち主より先に気づく人間。紅茶の当番を自分の日に多く設定する人間と、同じ人間だ。

同居を始めた秋の終わりにも、灰色インクのメモがあった。あの頃は「別邸の登記情報、添付済み。──V」だった。仕事の情報を共有するメモだった。

今日のメモは、仕事ではない。インクの補充。帳面用の、黒インクの。

(……仕事じゃないメモの方が、この人らしいのかもしれない)

紙片の余白に、ペンを取った。新しいインクの瓶を開けた。蓋を回す指先に、ガラスの冷たさが伝わる。黒インクの匂い。鉄と松脂の、かすかな苦さ。

一行、書いた。

『ありがとう。──M』

書いてから、顔が熱くなった。

一文字の署名。Vの真似だ。同居を始めてから半年、いつの間にかこの人の書き方を真似している。帳面の記録は五年間で一度も書式を変えなかったのに、メモの署名だけは──変わった。

(……いつから「M」って書くようになったんだろう)

覚えていない。最初に「M」と書いたのがいつだったか、帳面に記録していないから。記録していないことは、忘れる。当たり前のことだ。でも──Vのメモは一枚も捨てていない。書斎の引き出しの奥に、秋からの灰色インクのメモが全部入っている。捨てなかったことは記録していなくても覚えている。

紙片をメモの横に置いた。灰色の「V」と黒の「M」が、机の上に並んでいる。

色が違う。筆圧が違う。字の癖も違う。でも同じ机の上にあって、同じ灯りに照らされている。

帳面を開いた。

今日の記録。書記局帳簿の差額。三ヶ月四件。合計十金貨。費目の分散。決裁印──局長印。出張記録の台帳、受領済み。鍵、受領済み。照合は明日。

最後に、一行だけ別のことを書いた。

「インク補充。書棚の二段目。灰色インクのメモ、受領」

書き終えて、ペンを胡桃材のペン立てに差した。

壁の向こうから、頁をめくる音が聞こえる。ヴェインだ。居間で何かを読んでいる。監査局の報告書か、あるいは──鑑定の教本か。何を読んでいるかは聞かない。聞かないのが、この書斎と居間の壁一枚の距離だ。

ポケットの中の鍵が、手のひらの体温でほんの少しだけ温まっている。

明日、この鍵で棚を開ける。出張記録の日付と、帳面に書き出した四つの日付を並べる。

一致するかもしれない。しないかもしれない。

でも──一致したら。

差額が出た日に局長がいなかったら。局長印が使われた日に、局長が宮廷にいなかったら。

(……それは、局長じゃない誰かが局長印を使ったということだ)

頁をめくる音が、止まった。

台所の方から、湯を沸かす音が聞こえてきた。今日は水曜日。当番表の「V」の日。

紅茶の匂いが、壁越しに届くことはない。でも──湯が沸く音だけで、あの「ちょうどいい」の味を思い出せるようになっていた。