軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第26話 外套

神殿の鐘が臨時に鳴るのは、神殿長の交代か、神託の奏上か、あるいは──偽りの神の声を響かせるときだ。

三回目ともなると、もう驚かない。

驚かないけれど、ため息は出る。

朝、書記局の執務机に着いたとき、宮廷省からの通達が届いていた。

封を切った。公印。制度管理課の署名。

『神殿代理神殿長ミュラーが新たな神託を奏上。内容:「監査の力は神の御意志に反する。監査局の権限は縮小されるべし」。関係各署に通達する。──宮廷省制度管理課』

帳面を開いた。ペンを取って、書いた。

「また来た」。

四文字。秋にカタリナ嬢の神託が来たときも帳面に記録した。あのときは認定要件三項目のうち二項目が空欄で、神託としての効力がなかった。

今回は──どうだろう。

ベルントが除名され、議会での制度案妨害が失敗した。次の手として神託を使ってきた。秋と同じパターン。神の声を借りて、制度を潰す。

(……人間が考えることは、結局どの世界でも同じだ。論理が通らなくなると、権威にすがる)

前の世界にも、「上の意向」「慣例」「空気」という名前の神託はあった。条文と数字で崩されると、最後に出てくるのは「でも昔からそうだったから」という一言。あれと同じだ。

ため息を飲み込んで、立ち上がった。

「局長。神殿に行ってきます」

フリッツ局長が顔を上げた。

「認定書類の確認か」

「はい。秋と同じ手順で」

「気をつけろよ。三回目だからといって手を抜くな」

「抜きません」

冬の渡り廊下を抜けて、神殿に向かった。

神殿文書閲覧室は、石壁の冷気と蝋燭の匂いが漂う小さな部屋だった。秋にカタリナ嬢の神託を確認したときと、同じ場所。同じ椅子。同じ机。

記録官に認定書類一式の閲覧を申請した。書記官長補佐の閲覧権限で。

三枚の書類が手元に並んだ。神託本文。認定チェックリスト。魔力炉照合記録。

一枚目。神託本文。ミュラーの署名入り。日付は──五日前。

二枚目。認定チェックリスト。三要件。

神殿長の署名。──あり。ミュラー代理神殿長。

秋のときは空欄だった。今回は埋まっている。

神官二名の証言。──あり。二名の署名と日付。

秋のときは空欄だった。今回は埋まっている。

魔力炉照合。──あり。照合済みの印。日付は──。

指が止まった。

日付。

魔力炉照合の日付。七日前。

神託本文の日付。五日前。

照合が──先。神託が──後。

(……待って)

魔力炉照合は、神託の内容が神の声と一致するかどうかを確認するために行う。つまり、神託の内容が存在して初めて、それを炉に照合できる。

内容が存在する前に、照合はできない。

神託本文が五日前。魔力炉照合が七日前。照合の方が二日早い。

時系列が、逆転している。

三枚目の魔力炉照合記録を、もう一度見た。日付は明瞭だった。七日前。インクの色も筆跡も統一されていて、後から書き加えた形跡はない。

記録官を呼んだ。

「一つ確認させてください。魔力炉の記録は、書き換えられますか」

記録官──初老の男性が、少し驚いた顔をした。

「書き換えは不可能です。炉に焼き付けられる記録ですので、物理的に改変はできません」

「焼き付け。つまり、記録の日付は炉が自動的に刻印する」

「はい。人の手で日付を操作することはできません」

炉の日付は正しい。七日前に、何らかの照合が行われた。

でもそのとき、今回の神託はまだ存在していなかった。五日前に書かれたのだから。

ということは──七日前に照合されたのは、今回の神託ではない別の何か。あるいは、七日前に行われた照合の記録を、今回の神託の認定書類に流用した。

どちらにしても、偽造だ。

秋の神託は要件が空欄だった。今回は要件を全部埋めてきた。学習したつもりだろう。でも──要件を埋めるために使った照合記録の日付が合っていない。形式を整えることに気を取られて、日付の整合性を見落とした。

(……帳簿と同じだ。数字を合わせようとして、日付を合わせ忘れる)

帳面を開いた。日付。「神託認定書類の魔力炉照合日(七日前)と神託本文日付(五日前)の時系列逆転を確認。炉の記録は物理的に改変不可。偽造の確定的証拠」。署名。

書類を閲覧室の机に戻して、記録官に礼を言った。

「ありがとうございます。照会回答を宮廷省に提出いたします」

「お役に立てたなら」

記録官の老人は穏やかだった。秋に来たときも同じ穏やかさだった。この人は神殿の政治に巻き込まれたくないのだろう。神の声を人間が偽る場所で、記録だけを正確に守っている人。書記官と、少し似ている。

書記局に戻って、照会回答を起案した。

宮廷省宛。「神託認定書類における魔力炉照合日と神託本文日付の時系列不整合について。炉の記録は物理的に改変不可能であるため、本照合記録は当該神託の認定に有効な証拠とは認められない。──書記官長補佐マリエッタ・ホルン」

フリッツ局長が承認印を押した。午後便で提出。

それから──もう一通。監査局のハルトマン鑑定官宛。

「代理神殿長ミュラーの署名の魔力痕跡鑑定を依頼します。秋の神託と同様、署名の真正性の確認が目的です」

局間便の棚に入れた。

机に戻って、ペンを置いた。窓の外は曇っていて、冬の午後はもう薄暗い。

秋にカタリナ嬢の神託を調べたとき、認定要件の空欄を見つけるのに半日かかった。今回は──朝に通達を受けて、昼過ぎには照会回答を出した。

(速くなっている。私が、というより──相手が雑になっている)

ベルントが除名され、議会での抵抗が失敗した。焦って神託を使った。焦った分、詰めが甘い。日付の不整合は、秋の空欄よりも致命的だ。空欄なら「まだ手続き中です」と言い逃れる余地があるが、日付の逆転は物理法則に反している。言い逃れようがない。

退勤の鐘が六つ鳴った。

官舎に帰ると、居間の灯りがついていた。ヴェインが先に帰っている。

居間に入った。ヴェインが椅子に座って──咳をしていた。

小さい咳。抑えようとしている。でも抑えきれずに、もう一つ。

「……風邪ですか」

「大したことはない」

大したことはない、と言いながら、顔色が白い。いつもの無表情が、今日は無表情の下に疲労が透けている。灰色の瞳が少しだけ潤んでいるのは、熱があるせいだろう。

冬だ。冷え込む渡り廊下を毎日通って、復職したばかりの体に負荷がかかっている。停職中の五週間は官舎で過ごしていたから、急に冬の宮廷を歩き回る生活に戻って──。

(……この人、自分の体調に鈍い)

帳簿の数字の一桁の差は見逃さないくせに、自分の顔色の変化には気づかない。他者に与える影響に鈍いこの人をずっと見てきて思う。焼き栗の大きさは気にするのに、自分の咳は気にしない。

鞄を置いた。外套を脱いだ。

ヴェインの肩に──自分の外套をかけた。

ヴェインが顔を上げた。灰色の瞳が、私の顔と、肩にかかった外套を交互に見た。

「……何を」

「今度は私の番です」

秋の帰り道、帳簿照合の夜に、この人が私の肩に上着をかけてくれた。灰色がかった紺の、監査官服の上着。あのとき私は何も言えなかった。書斎に戻って、上着の温度を肩に感じながら帳面を書いた。

今日は──私がかける側だ。

ヴェインが、黙った。

この人が黙るのはいつものことだ。でも今日の黙り方は、言葉を選んでいるのとは違う。言葉が──出てこないのだ。

秋の夜に上着をかけてくれたとき、私がそうだったように。

「……」

五秒くらい。長い五秒。

それからヴェインが、外套の襟を片手で引き寄せた。肩にかかった外套を、落ちないように。

それだけだった。ありがとうも、すまないも、言わなかった。ただ襟を引き寄せて、外套を受け入れた。

(……受け取り方が下手だな、この人も)

お互い様だ。受け取り方が下手な二人が、順番に上着をかけ合っている。前の世界で誰かの上着を借りたこともなければ、誰かに貸したこともなかった。こういうことは、教科書に載っていない。

「紅茶、淹れます。温かいの」

「……ああ」

声がかすれていた。風邪のせいだ。でもかすれた声のヴェインは、いつもの低い声とは違う質感があって──なんだか、少し困る。

(いや。困るとかじゃなくて。温かいものを飲ませるのが先)

台所で湯を沸かした。

茶葉を取り出して──手が止まった。

棚の奥に、蜂蜜の小瓶がある。ハンナが「冬場は喉にいいから」と置いていったもの。

(前の世界では──蜂蜜とレモンが定番だった)

この世界にレモンはない。代わりに、乾燥させた黄柑の皮。薬草学の教本に載っていた。書記補佐が読む本ではないが、記録局の棚にあったから読んだ。読

んだものは全部覚えている。前世からの癖だ。

蜂蜜を匙一杯、カップに落とした。

黄柑の皮をひとかけら。

湯を注いだ。

蜂蜜湯を持って居間に戻った。

「先にこれを飲んで。喉にいいから」

ヴェインの手にカップを渡した。指が触れた。

──熱い。

いつも冷たいこの人の指が、今日は熱い。雨の日に傘を差し出されたとき、あの時もこの人の手は冷たかった。冷たいのがこの人の平熱で、熱いのは異常だ。

ヴェインが一口飲んだ。

「……甘い」

「蜂蜜ですから」

「なぜ黄柑を入れた」

「喉にいいと、本で読みました」

嘘ではない。本で読んだ。前世の本か、この世界の本かは言わないだけ。

もう一口。今度は止まらなかった。カップを両手で包むようにして、膝の上に置いた。外套の下で、肩の力が少しだけ抜けた。

「……受け取り方が下手な人間が、二人いる」

そうだ。蜂蜜湯一杯でこんなに黙る。外套一枚で五秒固まる。お互い様だ。

三回目の咳は、来なかった。

空になったカップを受け取って、台所に戻った。今度は紅茶を淹れる番だ。茶葉を多めにして、蓋をして、しっかり蒸らした。いつも私が淹れるときの手順。

ヴェインはまだ「ちょうどいい」に到達していないけれど、私の方はもう手順が定まっている。

カップを持って居間に戻ったとき、玄関で局間便の配達音がした。

封書。赤い速達印。差出人──ハルトマン鑑定官。

午後便で出した鑑定依頼に対して、もう速達が来ている。速い。ハルトマンは秋の鑑定のときも仕事が速かったけれど、今回はさらに。

封を切った。

『鑑定結果(速報):代理神殿長ミュラーの署名に残存する魔力痕跡を分析中。本報は中間報告として以下を通知する。──ミュラーの署名の下層に、ミュラー本人とは異なる別の魔力痕跡が検出された。現在、痕跡の特定作業を進めている。確定次第、正式報告書を送付する。──ハルトマン鑑定官』

下層に、別の痕跡。

ミュラーが署名した。その下に、別の誰かの魔力が残っている。ミュラーの前に、別の誰かがこの書類に触れたということだ。

──誰が。

秋の公聴会で、帳簿の魔力痕跡がヴァイスと一致した。告発書の魔力痕跡もヴァイスと一致した。魔力痕跡は嘘をつかない。触れた手の記録は消せない。

今回の下層の痕跡は、誰のものか。

封書をテーブルに置いた。ヴェインが私の外套を肩にかけたまま、封書に目を向けた。

「ハルトマンから?」

「はい。ミュラーの署名の下に、別の魔力痕跡があるそうです。特定中」

「……下層か」

ヴェインの灰色の瞳が、わずかに細くなった。監査官の目だ。風邪で顔色が悪くても、魔力痕跡の話になると目の奥に光が灯る。

「特定されれば、神託の指示者がわかる」

「ええ」

「明日──」

「明日でいいです。今日は休んで」

紅茶のカップをヴェインの手に渡した。長い指がカップを受け取った。いつも冷たい指が、今日は少し熱い。

「これは明日。今日は紅茶を飲んで、寝てください」

ヴェインが私を見た。一拍。それから──カップに口をつけた。

「……濃いな」

「私が淹れたんですから。ちょうどいいでしょう」

「ああ。ちょうどいい」

風邪のかすれ声で「ちょうどいい」と言われると、なんだか──ずるい。

書斎に入って、帳面を開いた。今日の記録。偽神託の到来。魔力炉照合日の時系列逆転。照会回答の提出。ハルトマンの速報。外套。

最後の一行を書こうとして、止めた。書かなかった。

書かなかったのは──ヴェインが外套の襟を引き寄せた仕草のことだ。あれは記録ではなく、ただの──手の動き。

でも、秋の夜に上着をかけてもらったときの温度を、肩がまだ覚えているように。今日、外套をかけたときのヴェインの目を、たぶん私は忘れない。

窓の外で、冬の風が鳴っている。明日、ハルトマンから正式報告が届く。下層の痕跡が、誰のものか──それがわかれば、神託の裏にいる人間が見える。

居間から、かすかに咳の音がした。それから、カップを置く音。

外套は、まだ返ってきていない。