軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 国王承認の空欄

手続きに穴がある。それは、私の仕事だ。

同居三週間目の朝。書斎の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。

婚姻令。

三週間前の秋の夕暮れに受け取って、翌朝までに署名した、あの羊皮紙。封筒に入れたまま、書斎の引き出しの奥にしまっていた。確認すべきことが一つ、残っている。ずっと保留にしていた。

羊皮紙を広げた。

発令者欄、日付、文書番号、対象者欄、根拠法令。すべて確認済み。問題はその先にある。

署名欄。宮廷省次官の署名と印。ある。

承認欄。国王レオポルド陛下の承認印。

空欄。

三週間前と同じだ。空欄のまま。代わりに、欄外の余白に走り書き。『王族代理承認 第二王子オスカー・ガリスティア』。私印。

あの夜、私はこう考えた。王族代理承認は、国王不在時にのみ有効。ただし発令日に陛下が在宮だったかどうかは未確認──だから判断を保留する、と。

三週間が経った。百二十金貨の横領を確定し、ヴァイス副次長の魔力痕跡を押さえ、オスカー殿下の側近が監査局の周辺にいたという報告を聞いた。

点と点が、一つの方向を向いている。

保留を解くときが来た。

書記局に出勤して、最初に向かったのは出入記録簿の棚だった。

宮廷正門の出入記録。すべての入退を門衛が記帳し、書記局が管理する。国王陛下の入退も例外ではない──記帳は門衛長が直接行い、記録は書記局長級のみが閲覧できるが、私は正規書記官だ。閲覧権限がある。

該当日の頁を開いた。婚姻令の発令日。

午前の入門記録。国王レオポルド陛下、午前八時入門。退門記録──なし。つまり、終日在宮。

在宮。

国王陛下は、婚姻令が発令されたその日、宮廷にいらした。

王国法の条文が頭の中に浮かぶ。ガリスティア王国婚姻管理規則第三条但書。『王族による代理承認は、国王が不在、疾病、またはその他の事由により承認行為が不能である場合に限り有効とする』。

国王陛下は在宮だった。疾病の記録もない。承認不能の事由は存在しない。

つまり──オスカー殿下の「王族代理承認」は、代理承認の要件を満たしていない。

無効。

婚姻令には国王承認が欠落している。承認欄は空欄のまま、欄外の走り書きには法的根拠がない。この婚姻令は、発令の時点で手続き要件を満たしていなかった。

(……三週間、遅くなった)

同居初日に気づいていたのに。あの夜、在宮記録を確認していれば、翌日には結論が出ていた。

でも、あの時点では百二十金貨も、匿名告発の瑕疵も、神託の署名欄の空白も、まだ見つかっていなかった。一つずつ証拠を積み上げてきた今だからこそ、この穴を突く意味がある。

帳面を開き、確認事項を記録した。日付。出入記録簿の該当頁番号。在宮の事実。婚姻管理規則第三条但書の条文。代理承認が無効である論理。

照会書の草案を起案した。宛先は宮廷省。

『照会事項:宮廷省令第四十七号に基づく特別婚姻令(対象者:マリエッタ・ホルン、ヴェイン・アーレンス)の国王承認について。

回答:当該婚姻令の承認欄に国王レオポルド陛下の承認印は認められない。欄外に記載された「王族代理承認」(第二王子オスカー・ガリスティア殿下署名)について検証したところ、婚姻令発令日の宮廷門出入記録により、国王陛下が終日在宮であったことを確認した。ガリスティア王国婚姻管理規則第三条但書に照らし、国王在宮中の王族代理承認は有効要件を欠く。

したがって、当該婚姻令は国王承認を欠いており、現時点において法的効力を有しないものと判断する。

以上、書記局正規書記官マリエッタ・ホルンの職責に基づき照会する。』

署名。日付。

フリッツ局長のもとへ持参した。

「宮廷省への照会です。婚姻令の手続き瑕疵に関する報告と確認の要請です」

フリッツ局長が照会書を読んだ。読み終えて、眉が上がった。

「……これは、あなた自身の婚姻令だ」

「はい」

「自分の婚姻を無効にする照会を、自分で出すのか」

「手続きに瑕疵があるなら、それを記録するのが書記官の仕事です」

フリッツ局長はしばらく私の顔を見て、それから局長印を押した。

「宮廷省への提出は午後便で間に合う。……ホルン書記官、覚悟はいいんだな」

「覚悟という程のものではありません。事実を確認するだけです」

局長室を出た。廊下の窓から秋の光が差している。空気が冷たくなってきた。季節が進んでいる。

午後便で照会書を提出した。

回答は──驚くほど早かった。

退勤の鐘が鳴る一時間前に、宮廷省からの回答書が局間便で届いた。即日回答。通常、宮廷省の照会回答には三日から一週間かかる。

(……珍しく早い)

回答書を開いた。宮廷省の公印。担当官の署名。

『貴照会について精査の結果、以下の通り回答する。

宮廷省令第四十七号に基づく特別婚姻令(対象者:マリエッタ・ホルン、ヴェイン・アーレンス)について、国王承認欄が空欄であること、および欄外の「王族代理承認」が婚姻管理規則第三条但書の要件を満たさないことを確認した。

当該婚姻令は、発令時点において法的効力の成立要件を欠いており、現時点で有効な婚姻関係は成立していないものと判断する。

なお、第二王子オスカー・ガリスティア殿下による「王族代理承認」の署名については、国王在宮中における越権行為に該当する可能性があるため、宮廷省として別途調査を行う。』

別途調査。

オスカー殿下の越権行為が、宮廷省の公式記録に載った。

回答書を封筒に戻した。手は震えていなかった。三週間前の夜、「この命令には穴がある」と思った瞬間から、この結論に辿り着くまでの道筋は、全部繋がっていた。

婚姻令は無効。

法的には、私とヴェインは夫婦ではない。

同居の根拠も、白い結婚の義務も、存在しない。

退勤の鐘が六つ鳴った。今日は定時だ。鞄に回答書の写しを入れて、席を立った。

官舎の玄関を開けた。ヴェインの靴がある。

居間に入ると、ヴェインがテーブルの前に立っていた。白いシャツ姿。手元に何かを広げていたが、私が入ると手早く片付けた。

「……おかえり」

おかえり。

その言葉を、この人の口から聞くのは初めてだった。三週間の同居で、「おかえり」も「ただいま」もなかった。挨拶は全部、事務的な報告の形をしていた。

(……今日に限って、なぜ)

「ただいま戻りました」

事務的に返した。鞄からの回答書の写しを取り出して、テーブルに置いた。

「宮廷省から回答がありました。婚姻令は法的効力を有しません。国王承認が欠落していたためです」

ヴェインが回答書を手に取った。読んでいる。灰色の瞳が文面を追って、途中で一度止まり、また動いた。「越権行為」の箇所で止まったのだろう。

読み終えて、ヴェインは回答書をテーブルに戻した。

「……つまり、この婚姻は無効だ」

「はい」

「あなたは──自由だ」

声が低かった。いつもの半音低いどころか、もっと奥のほう。言葉を選んでいるのではなく、搾り出しているように聞こえた。

ヴェインの視線が逸れた。私ではなく、窓の外を見ている。秋の夕暮れが、薄い藍色に変わりかけている。

「これ以上、巻き込めない」

(──巻き込む?)

その言葉に、喉の奥で何かがつかえた。

巻き込まれた。私は白い結婚に巻き込まれたのか。停職命令に巻き込まれたのか。百二十金貨の横領に巻き込まれたのか。

違う。

「巻き込まれたのではありません」

声が出た。思ったより硬い声だった。

ヴェインが窓から視線を戻した。灰色の瞳が、正面から私を見ている。

「婚姻令に署名したのは、私の選択です。帳簿を照合したのも、規程を引いたのも、今日の照会を出したのも。全部、私が選びました」

言葉が止まらなかった。止める気もなかった。

「婚姻令が無効だから自由になる、という話ではないんです。私は最初から自由です。自由だから、選んでここにいます」

一拍。

「冤罪を晴らすまで、ここにいます。それは婚姻令があってもなくても変わりません」

ヴェインが動かなかった。瞬きもしなかった。灰色の瞳に、夕暮れの残光が映っている。

数秒の沈黙。居間の時計が五つ刻んだ。

「……あなたは」

何かを言いかけて、止めた。唇が薄く動いただけだった。この人がそうするとき、飲み込んだ言葉は大抵、本人にとって大事な言葉だ。

代わりに、ヴェインはテーブルの上を見た。

テーブルの上に、皿が二枚並んでいた。

パンと、チーズと、薄切りの燻製肉。二人分。向かい合わせに置かれている。

さっき私が入ったとき、手早く片付けたのは──これの準備だったのか。

(……夕食を、用意していた?)

三週間。別室で食べていた。顔を合わせるのは廊下と書庫だけだった。同じテーブルで食事をしたことは、一度もない。

「……座ってもいいですか」

「ああ」

椅子を引いた。ヴェインも座った。向かい合わせ。テーブルは狭い。膝と膝のあいだは拳二つ分くらいしかない。

パンを手に取った。焼きたてではないが、まだ柔らかい。ヴェインが買ってきたのだろう。停職中の外出は制限されていないから、市場には行ける。

「いただきます」

「……ああ」

食べた。チーズは少し塩気が強くて、燻製肉は薄く切りすぎていて、パンは昨日のものだった。料理が得意な人ではないのだとわかった。

(……でも、二人分を用意していた)

婚姻令が無効になると知る前から。今日、私が帰ってくることを前提にして。

食事の間、会話はほとんどなかった。チーズの産地を聞いたら「市場の三軒目」とだけ返ってきた。

(三軒目って、店の名前じゃなくて数え方なの)

可笑しかった。口元がゆるむのを、パンで隠した。

食べ終えて、皿を流しに持っていこうとしたら、ヴェインが先に立った。二人分の皿を重ねて、無言で流しに向かった。

背中を見送った。白いシャツの背中。袖をまくった腕。流しで皿を洗う音が、静かな官舎に響いている。

婚姻令は無効だ。法的には、私たちは他人に戻った。

なのに、あの人は夕食を用意していた。「おかえり」と言った。皿を洗っている。

三週間前の白い結婚より、今夜の方がずっと──

(──ずっと、何?)

その先は考えなかった。考えると、面倒なことになる気がした。

書斎に入って、灯りをつけた。今日の記録を帳面に書いた。婚姻令無効。宮廷省回答。オスカー殿下の越権。

帳面の最後に、一行だけ書き足した。

『夕食、二人分。チーズは塩辛い。パンは昨日のもの。』

書いてから、少しだけ笑った。公文書に載せる記録ではない。でも、帳面は私のものだ。何を書いてもいい。

窓の外が暗い。秋の夜。明日からこの官舎にいる法的根拠はない。

でも──ここにいると、選んだのは私だ。

流しの水音が止まった。廊下を歩く足音が、ヴェインの部屋の方へ遠ざかっていく。

扉が閉まる音。壁一枚の向こう。

法的には他人。でも今夜、初めて同じテーブルで食べた。

パンは昨日のもので、チーズは塩辛くて、それが妙に、喉の奥に残っている。