軽量なろうリーダー

義妹を毒殺しようとした悪女だと断罪されましたが、本当に毒を盛られていたのは王太子殿下でした——私を嵌めた義妹は、不思議な馬車で自分の罪の証拠を集めていました

作者: Vou

本文

銀の杯が、床に落ちた。

赤いワインが絨毯に広がるのと同時に、伯爵令嬢アメリア・ベルフォードの目の前で、義妹のミレーユが崩れ落ちた。

「ミレーユ!」

アメリアは咄嗟に駆け寄った。

つい先ほど、給仕から受け取ったワインをミレーユに手渡したのは自分だ。何が起きたのか、確かめなければならない。

だが、アメリアの指がミレーユの肩に触れるより早く、ミレーユは悲鳴のような声を上げた。

「触らないで!」

夜会場が静まり返る。

ミレーユは床に座り込んだまま、怯えきった目でアメリアを見上げた。

「お姉様が……私のワインに、毒を盛ったのでしょう?」

アメリアの思考が、一瞬で白くなった。

「毒……?」

そのとき、人垣を割って一人の青年が進み出た。

この国の王太子であり、アメリアの婚約者でもあるユリウスだった。

「どういうことだ、ミレーユ」

ユリウスはミレーユの肩を支え、庇うように抱き寄せた。

その仕草を見た瞬間、アメリアは小さな違和感を覚えた。

毒だと言うのなら、まず医師を呼ぶべきではないのか。

なぜ殿下は、事情を確かめるより先に、ミレーユを庇うのか。

「殿下……私、お姉様から手渡されたワインを飲んだ途端、急に苦しくなって……」

ミレーユの目から大粒の涙がこぼれた。

「お姉様は、ずっと私のことを嫌っていました。私が殿下と少しお話しするだけで、怖い顔をなさって……。私、ずっと怖かったのです」

「違います」

アメリアは即座に否定した。

「私は給仕から受け取った杯を、そのままミレーユに渡しただけです。殿下、どうか杯を運んだ者をお調べください」

「見苦しいぞ、アメリア」

ユリウスの声が、アメリアの言葉を切り捨てた。

「妹を毒殺しようとしておいて、今度は給仕に罪を着せるつもりか」

「違います。私は何も——」

そのとき、アメリアに杯を手渡した給仕が、震えながら前に出た。

「わ、私、見ました……。アメリア様が、ミレーユ様の杯に何かを入れるところを……」

アメリアは息を呑んだ。

「そんなこと、していません」

「怖くて言えませんでした。でも、ミレーユ様が倒れられて……私のせいにされそうで……!」

夜会場の空気が、決定的に変わった。

「あの令嬢は義妹を妬んでいたのか」

「王太子殿下の寵愛を奪われるとでも思ったのだろう」

「毒まで使うとは……」

誰も、アメリアの言葉を聞こうとしなかった。

呼ばれた宮廷医師が杯とミレーユの口元を調べ、険しい顔で告げる。

「毒です。処置が遅れていれば、命に関わった可能性があります」

ユリウスの目が冷たく細められた。

「殺人未遂か」

「違います。私は——」

「アメリア・ベルフォード」

ユリウスは夜会場に響く声で言った。

「おまえとの婚約は、この場で破棄する」

会場がどよめいた。

ミレーユがユリウスの胸元に顔を寄せる。

「殿下……私のせいで……」

「君のせいではない」

ユリウスは優しくそう言ってから、アメリアを睨んだ。

「妹を毒殺しようとした女を、未来の王太子妃にはできない。明朝、正式に断罪台で裁きを受けさせる」

「殿下、どうか私の話を——」

「連れ出せ」

近衛兵がアメリアに近づいた。

アメリアは抵抗しなかった。

抵抗すれば、本当に毒を盛った悪女のように見えてしまう気がしたのだ。

ただ一度だけ、ミレーユを見た。

体を震わせ、涙に濡れた顔で、ユリウスに縋っている。

その姿は、どこから見ても哀れな被害者だった。

けれど、アメリアにはどうしても分からなかった。

なぜミレーユは、倒れた直後に、あれほどはっきり毒だと言えたのだろう。

なぜユリウスは、アメリアの言葉を一つも聞こうとしなかったのだろう。

夜会が終わり、ミレーユが王宮を出ると、ベルフォード伯爵家の馬車はすでになかった。

アメリアを乗せて、先に屋敷へ戻ってしまったのだ。

「最後まで役に立たない姉ね」

小さく吐き捨てたが、すぐに機嫌は戻った。

姉は終わった。

王太子殿下は自分を信じた。

給仕にも、言うべきことは言わせた。

明日の裁判でアメリアが罪人になれば、ミレーユは悲劇の被害者として王太子の隣に立てる。

だが、胸の奥に小さな棘が残っていた。

アメリアはいつも正しい。

嫌になるほど、余計なところに気づく。

今回も、何かに気づかれるかもしれない。

——駄目よ。

今夜のうちに、不安の芽はすべて摘み取る。

ミレーユは王宮の使用人に頼み、辻馬車を呼ばせた。

ほどなくして、王宮の門前に一台の古びた馬車が止まる。

御者台から降りてきた青年が、静かに馬車の扉を開けた。

「どうぞ。お乗りください」

ミレーユは馬車に乗り込んだ。

扉が閉められ、御者の青年が御者台に戻った。

小窓の向こうから、御者が尋ねた。

「どちらまで参りましょう」

「気分がいいから、少し王都を走ってちょうだい。行き先は特に決めなくていいわ」

御者は少しだけ沈黙した。

「お客様。 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) をご存じですか」

「何、それ」

「この馬車には、行き先のないお客様の探しものを見つける力があるのです」

「探しもの?」

「はい。お客様が本当に必要としている場所へお連れします」

ミレーユは窓に映る自分の顔を見た。

未来の王太子妃。

そのはずの顔は、ほんの少し強張っていた。

「それはいいわね。では、私が確実に王太子妃になるために必要な場所へ連れていって」

ミレーユは微笑んだ。

「私の邪魔になるものを、今夜のうちに消したいの」

王都の夜に消え入るような小さな声でミレーユは言った。

「かしこまりました」

御者が手綱を軽く鳴らした。

辻馬車は、夜の王都を走り出した。

最初に馬車が止まったのは、王宮裏手の洗濯所だった。

「ここが、私が王太子妃になるために必要な場所?」

「馬車は、そう判断したようです」

「ふざけているの?」

「私は行き先を決めておりません」

ミレーユは舌打ちを堪え、馬車を降りた。

洗濯所では、中年の女が夜会で使われた衣服を仕分けていた。

洗濯係のマーサ・グレインだ。

「あら、ミレーユ様。このような時間に、どうなさいました?」

「少し探しものをしているだけよ」

そう言った直後、ミレーユの視線が一着の上着に止まった。

王太子ユリウスの上着。

袖口に、薄い茶色の染みがある。

ミレーユの背筋が冷たくなった。

——白蛇根草の薬だ。

昨晩、ユリウスが薬を飲むとき、少しこぼしたと言っていた。

気持ちを落ち着かせる薬。

そう言って飲ませていたもの。

だが、白蛇根草はただの鎮静薬ではない。

少量なら気分を落ち着かせる。けれど飲ませ続ければ、判断力を鈍らせる。

ユリウスがアメリアの言葉を聞かず、ミレーユの言うことだけを信じるようになったのは、偶然ではなかった。

「その染みは落ちないの?」

「はい……どうしても落ちなくて、困っております」

ミレーユは咄嗟に上着を掴んだ。

「これ、私が預かるわ」

「え? ですが、それは殿下から洗濯を命じられたもので……」

「染みが消えないのでしょう? 私が落として差し上げると言っているの」

「いえ、しかし……」

「私に逆らうの?」

ミレーユが睨むと、マーサは怯えたように口をつぐんだ。

ミレーユは上着を抱え、足早に洗濯所を出た。

馬車へ戻ると、御者の青年が扉を開ける。

「探しものは見つかりましたか」

「ええ。でも、まだ足りないわ」

アメリアなら気づく。

あの姉は、こういう染みに気づく女だ。

全部消さなければ。

「次へ行って」

「かしこまりました」

次に馬車が止まったのは、王都の片隅にある小さな薬房だった。

ラザール薬房。

白蛇根草を扱う、王都で唯一の薬房だ。

ミレーユは顔をしかめた。

「……そう。ここに来る必要があるということね」

夜更けにもかかわらず扉を叩くと、薬師ラザールが不機嫌そうに顔を出した。

「どなたですか……ミレーユ様?」

「この染みを消したいの」

ミレーユは上着の袖口を突き出した。

「白蛇根草を煎じた薬の染みよ。どうすれば落ちる?」

ラザールの表情が変わった。

「白蛇根草……?」

「早く教えて」

「その上着は、どなたのものですか」

「王太子殿下のものよ」

ラザールの顔色が、さらに険しくなる。

「ミレーユ様。以前お売りしたとき、私は申し上げたはずです。白蛇根草は扱いを誤れば危険な薬草です」

「知っているわよ」

言ってから、ミレーユは唇を噛んだ。

しかしもう遅い。

ラザールは疑わしげにミレーユを見ていた。

「なぜ、その染みを消す必要があるのですか」

「薬師ごときが、私に尋問するつもり?」

「その上着をお見せいただけますか?」

「触らないで」

ミレーユは上着を抱え直し、薬房を出た。

馬車へ戻ると、御者は何も言わずに扉を開けた。

「まだあるのでしょう?」

「馬車に聞きましょう」

「なら、早く行って」

最後に馬車が止まったのは、王宮の研究棟だった。

宮廷薬学士たちが、毒物や薬草の鑑定を行う場所である。

ミレーユは一瞬ためらった。

ここに来るのは危険ではないか。

だが、これは王太子妃になるために必要な場所へ導く馬車だ。

きっと、染みを消せる者がいるに違いない。

そう信じて、ミレーユは研究棟へ入った。

夜勤の宮廷薬学士ゼヴラン・オルヴェは、突然現れたミレーユを見て目を丸くした。

「ミレーユ様? どうなさいました」

「この染みを消してほしいの」

ミレーユは上着を差し出した。

「王太子殿下の上着よ。白蛇根草の薬がついてしまったの。誰にも知られないように、今すぐ消して」

ゼヴランの表情が、わずかに固まった。

「王太子殿下の上着に、白蛇根草の染みがあって、それを誰にも知られないように消したい。そういうことですね」

「そうよ。何度も言わせないで」

「承知しました。奥で確認いたします」

ゼヴランは上着を受け取った。

ミレーユは大きく安堵の息を吐いた。

これで証拠は消える。

だが、ゼヴランは戻ってこなかった。

彼は奥の鑑定室で上着を厳重に保管すると、その場で夜勤の近衛隊に緊急報告していた。

——王太子殿下に対する毒物使用の疑い。

それは、夜明けを待ってよい案件ではなかった。

しばらくして現れたのは、ゼヴランではなく、二人の近衛兵だった。

「ミレーユ・ベルフォード様。司法卿がお呼びです」

「……え?」

「今すぐ、ご同行ください」

ミレーユはそこでようやく気づいた。

この馬車は、自分を助けていたのではない。

自分が王太子妃になるために消さなければならないものを、順番に見せていたにすぎなかったのだ。

そして自分は、そのすべてに触れた。

証人を増やしながら。

翌朝。

アメリアは王城前広場の断罪台へ連れて来られた。

だが、広場の様子は想像と違っていた。

そこには司法卿ベルンハルト・ケイルがいた。

他にも、洗濯係のマーサ、薬師ラザール、宮廷薬学士ゼヴラン。

そして、昨夜アメリアを告発した給仕までいる。

王太子ユリウスは青ざめた顔で立っていた。

ミレーユとは、明らかに距離を取っている。

そして司法卿が前に進み出る。

「これより、アメリア・ベルフォード嬢にかけられた毒殺未遂の嫌疑、ならびに王太子殿下に対する毒物使用の疑いについて審理する」

広場が騒然とした。

アメリアは、司法卿の言葉に首を傾げる。

王太子殿下に対する毒物使用——昨夜まで、誰も口にしていなかった疑いだった。

司法卿は、一着の上着を掲げた。

「宮廷薬学士ゼヴラン。この染みの成分は?」

「白蛇根草を煎じた薬です。鑑定済みです」

「白蛇根草の効能は?」

薬師ラザールが前に出た。

「適切に用いれば鎮静薬になります。しかし継続して服用すれば、判断力が鈍る恐れがあります。私はミレーユ様に販売した際、その危険性を説明しております」

「販売記録は?」

「ございます」

「アメリア嬢に販売した記録は?」

「ございません。白蛇根草を扱っているのは、王都では当薬房だけです」

司法卿はマーサへ視線を向けた。

「洗濯係マーサ。昨夜、この上着を誰が持ち去りましたか」

「ミレーユ様です。袖の染みに気づくと、ご自身が落とすと仰って、無理やりお持ちになりました」

次に、ラザールが証言した。

「ミレーユ様は昨夜、私の薬房を訪れました。王太子殿下の上着についた白蛇根草の染みを消す方法を教えろ、と」

最後に、ゼヴランが頭を下げた。

「その後、ミレーユ様は私のもとへ来られました。王太子殿下の上着についた白蛇根草の染みを、誰にも知られないように消してほしい、と依頼されました」

広場のざわめきは、もはや抑えきれないほど大きくなっていた。

司法卿はユリウスへ向き直る。

「王太子殿下。この上着は殿下のものですね」

「……ああ」

「白蛇根草の薬に心当たりは?」

「ある」

ユリウスは苦しげに答えた。

「ミレーユから渡されていた。心労を鎮める薬だと聞いていた。最初は確かに楽になった。だが、次第に……頭が朦朧とするようになり、彼女の言葉だけが正しく聞こえるようになっていた」

ユリウスはアメリアを見た。

「昨夜も、君の言葉を聞くべきだった。だが俺は、ミレーユの言葉だけを信じてしまった」

アメリアは何も言わなかった。

——薬のせいだった。

そう言われても、自分の胸に残った痛みは消えなかった。

司法卿が続ける。

「昨夜、ミレーユ様が口にした毒物も白蛇根草でした。杯の残留成分と一致しています」

そして、昨日アメリアを告発した給仕が前へ出された。

顔を真っ青にしていた。

「給仕リオネル。あなたは昨夜、アメリア嬢が杯に何かを入れたと証言しましたね」

「……はい」

「それは事実ですか」

リオネルは震えながら膝をついた。

「嘘です……。私は何も見ておりません」

広場にどよめきが走る。

「なぜ偽証したのですか」

「ミレーユ様に命じられました。そう言えば金貨をくださると。断れば、私が毒を盛ったことにすると脅されて……」

「嘘よ!」

ミレーユが叫んだ。

「そんなもの、知らないわ!」

司法卿は冷たく言った。

「では、これで証言は揃いました」

ミレーユの顔から、すっと色が消えた。

「ミレーユ・ベルフォード。あなたは白蛇根草を用いて王太子殿下の判断力を鈍らせ、さらに自ら同じ毒を少量口にすることで、姉であるアメリア嬢に毒殺未遂の冤罪を着せようとした」

「違う! 私はただ、殿下を心配して——」

「あなたが危険性を明確に知っていたことは、ラザール薬師が証言しています」

そのとき、アメリアが顔を上げた。

「司法卿。私からも一つ、よろしいでしょうか」

「許可します」

アメリアはミレーユを見た。

「ミレーユ。昨夜、あなたは倒れた直後に、私が毒を盛ったと言ったわね」

「それが何よ……」

「なぜ、毒だと分かったの?」

ミレーユの表情が固まった。

「医師はまだ来ていなかった。杯の鑑定もされていなかった。誰も毒だと断定していなかった。それなのに、あなたは倒れた直後にはっきり毒だと言った」

「そ、それは、苦しかったから……」

「苦しかっただけなのに、なぜ私が毒を入れたなんてすぐに分かったの?」

広場が静まり返った。

アメリアは続けた。

「あなたは毒を盛られた被害者にしては、あまりに早く犯人を知っていた。最初から、そう言うつもりだったからでしょう?」

ミレーユは何も答えられなかった。

その沈黙だけで、十分だった。

「全部、お姉様のせいよ……」

ミレーユは震える声で呟いた。

「お姉様が伯爵家の馬車で先に帰ったから……私があの馬車に乗ることになったのよ……!」

アメリアは眉を寄せた。

「あの馬車?」

「 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) よ! あの馬車が、私を洗濯所なんかに連れていったから……! あんな上着を見つけなければ、私は……!」

ミレーユはそこまで言って、自分の口を押さえた。

だが、もう遅い。

広場の誰もが、彼女の言葉を聞いていた。

司法卿が静かに告げる。

「自白と判断します」

「違う! 違うの!」

「ミレーユ・ベルフォード。王太子殿下への毒物使用、ならびにアメリア・ベルフォード嬢への冤罪工作。そして王家への害意、すべて重罪です」

「嫌……。嫌よ……!」

「貴族特権を剥奪の上、無期投獄とする」

ミレーユの泣き叫ぶ声が、王城前広場に響いた。

だが、誰も彼女を庇おうと考える者はいなかった。

裁判が終わり、ユリウスがアメリアに近づいた。

昨夜とは違い、彼はひどく疲れた顔をしていた。

「アメリア」

アメリアは静かに彼を見る。

「すまなかった」

ユリウスは、広場に残る人々の前で頭を下げた。

「俺は君を信じなかった。君の言葉を遮り、君の名誉を傷つけた。薬のせいだとはいえ、王太子として、婚約者として、許されることではない」

アメリアは答えなかった。

ユリウスは続ける。

「婚約破棄は撤回する。君が望むなら、もう一度——」

「殿下」

アメリアは静かに遮った。

「私を信じてくださらなかった方の隣に、もう一度立つことはできません」

ユリウスの眉が動いた。

「薬の影響を受けていたことは理解しています。けれど、それでも私は深く傷つきました」

「そうか……」

「私は、もう王宮には戻りたくありません」

ユリウスはそれ以上、何も言えなかった。

その後、王太子ユリウスは半年間の政務停止を命じられた。

さらに、王位継承権についても再審査が決定された。

毒物の影響があったとはいえ、公衆の前で無実の婚約者を断罪し、正式な調査を待たずに、婚約破棄を宣言した責任は重かった。

国王は言った。

民の前で一人の令嬢を裁きながら、その言葉に耳を貸さなかった者を、王座に相応しい者とすることは難しい、と。

アメリアの名誉は回復された。

王家からは正式な謝罪と慰謝料が支払われた。

けれど、失ったものが戻るわけではなかった。

守ってきた義妹は、もういない。

婚約者だと思っていた人も、もう隣にはいない。

アメリアの胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。

その夜、アメリアは一台の辻馬車に乗っていた。

前夜、ミレーユを乗せたという馬車だった。

「あなたが、アルト・ヴェルナーさん?」

御者の青年は穏やかに頷いた。

「はい」

「あなたが私を助けてくださったのね」

「私は何もしておりません。ただ、ミレーユ様をお乗せしただけです」

「でも、洗濯所へ、薬房へ、研究棟へ、あの子を連れていったのでしょう?」

「私ではなく、この馬車が連れていったのです」

「馬車が?」

「この馬車は、お客様の探しものを見つける不思議な力があります」

アメリアは窓の外を見た。

王都の灯りが、ゆっくりと流れていく。

「ミレーユは、何を探していたの? まさか自分の罪を告発する証人を探そうとしたわけではないのでしょう?」

「王太子妃になるために必要な場所を、と仰っていました」

「ああ……それで、馬車は証人のいる場所へ向かったのね」

「おそらく」

「皮肉ね」

アメリアは寂しげに笑った。

「王太子妃になるためには、まず自分の罪を隠さなければならなかった。だから馬車は、証人となりうる人たちのいる場所に、あの子を連れていったのね」

「馬車は、必要な場所へ連れていくだけです。そこで何をするかは、お客様次第です」

「ミレーユは、全部間違えたのね」

アメリアは目を伏せた。

——憎い。

そう思えたら楽だったかもしれない。

けれど胸に残っているのは、怒りだけではなかった。

自分が守ろうとした相手が、自分を陥れようとしていた。

その事実が、ただ悲しかった。

「今夜はどちらまで参りましょうか?」

アルトが尋ねた。

「どこにも行く場所はないわ。あなたにお礼を言いたくて、この馬車を呼んだだけですもの」

「そうですか」

「でも……」

アメリアは窓に映る自分の顔を見た。

そこには少し頼りない女の顔があった。

「これから私が進むべき道を、この馬車に探してもらえないかしら」

「進むべき道、ですか」

「ええ。もう王宮には戻りたくない。誰かの顔色をうかがって、正しい令嬢でいようとするのも疲れてしまったわ」

アメリアはそっと胸に手を当てた。

「でも、貴族としての知識も、礼儀作法も、人を支えるために覚えたつもりだったの。その全部が無駄だったとは思いたくない」

アルトは頷いた。

「では、馬車が答えをくれるでしょう」

手綱が軽く鳴った。

辻馬車は王都の中心を離れ、静かな道を進んでいく。

やがて馬車が止まったのは、王都の外れにある小さな救護院の前だった。

窓の向こうには、夜更けにもかかわらず灯りがともっている。

温かい食事の匂い。

人の気配。

誰かを助けようとする声。

アメリアはそっと馬車の扉に手をかけた。

「ここが、私の探しもの……?」

「馬車は、そう判断したようです」

アメリアはしばらく救護院を見つめていた。

「人を支えられる場所、ということね」

そして、小さく息を吸う。

「ありがとう、アルトさん」

「私は何も」

「いいえ。あなたとこの馬車は、私に道を示してくれたわ」

アメリアは扉を自ら開け、馬車を降りた。

振り返ると、アルトが穏やかに微笑んでいる。

「また迷ったときは、この馬車を呼んでもいいかしら」

「もちろんです」

アメリアは頷き、救護院の扉へ向かった。

昨日、すべてを失ったと思った。

けれど、失った場所の外にも、道はあった。

救護院で、アメリアは自分を疑わない人々に囲まれて笑う。

辻馬車は今夜も、王都の夜を駆けていく。

誰かの探しものを見つけるために。

そして、ときには。

自分の罪から逃げようとする者に、その罪そのものを見つけさせるために。