軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話

王都から見て南に位置する白楡離宮は、遠目にはひどく美しかった。

白い壁は陽を受けてやわらかく光り、庭には季節の花々が飾られていた。

春なら淡い花色が風に揺れ、夏なら緑陰が涼しげに落ちる。

王家の離宮と聞いて誰もが思い浮かべるような、上品な佇まいだった。

けれど、中で働く者にとっては違う。

ここはもう、誰かに仕えるための場所ではない。

古株たちが縄張りのように居座り、王妃筋の顔色だけを見て回している場所だ。

主のいない離宮では、正しさより、誰に逆らわないかのほうが大事になる。

わたしも、それを知って久しい。

最初は違った。

ちゃんと働こうと思っていたし、言いつけられた以上のことまで覚えようともした。

けれど、この離宮では、そういう者ほど嫌われる。

目をつけられ、持ち場から外され、失敗まで押しつけられる。

だから今では、余計なことは言わないし、しない。

言われたことにだけ「はい」と答えて過ごす。

そうしていれば、少なくともひどい目には遭いにくかった。

(……まただ)

廊下の先に目をやると、古株の侍女がひとりの娘へ次々と仕事を押しつけているのが見えた。

つい最近入ったばかりの侍女だった。

王都で働いていたことがある、というだけで、ここではもう十分に目障りらしい。

案の定、その日のうちに始まった。

必要な持ち場を教えられず、呼び出しの時間だけがずらされ、足りない備品まで本人の不手際にされた。

古株たちはわざとらしくため息をつき、若い者たちは顔を見合わせて笑う。

「王都の侍女は大変ねえ」

そんな声が、廊下の端でひそやかに転がっていた。

わたしは黙って、手の中の布を絞った。

(お気の毒に……)

ここでは、ちゃんとしている者ほど生きづらい。

(それにしても……)

もう一度、そっと視線を向ける。

押しつけられた仕事を抱えながら、その侍女はなぜか口元にうっすら笑みを浮かべていた。

嫌味を言われても、重い荷物をあてつけのように渡されても、顔をしかめるどころか、どこか嬉しそうにさえ見える。

布を絞る手に、思わず力がこもった。

(なんで、あんなに嬉しそうなんだ……)

夕食の席でも、その娘はすぐに浮いた。

本来なら下働きの侍女たちは、仕事の切れ目を見てまとめて簡単な食事を取る。

けれどその日は、あの娘の分だけ盆がなかなか回ってこなかった。

「ごめんなさいねえ、忘れていたわ」

そう言った古株の声には、ちっとも悪びれたところがない。

ようやく渡された皿の煮込みは、すっかり冷めて、表面に薄く脂が浮いていた。

「王都では、こんなもの召し上がらないでしょう?」

「お口に合わなかったら、残してもよろしくてよ」

くすくすと笑いが広がる。

わたしは黙って匙を動かした。

顔を上げれば、次は自分に向くとわかっていたからだ。

けれど当の本人は、皿を受け取ると、にやりと口元をゆがめた。

「ありがとうございます。冷めているほうが、あとで思い出しやすいので」

そう言って、冷めた煮込みを気にした様子もなく口に運ぶ。

古株の侍女が、眉をひそめる。

若い侍女たちも、笑い損ねたような顔で互いを見た。

(……変な人だ……)

わたしはそれ以上そちらを見ないように、手元の皿へ視線を落とした。

変な侍女は、仕事が早かった。

しかも、早いだけではない。

古株たちが嫌がらせ半分に押しつけた部屋の掃除も、文句ひとつ言わず、誰より手際よく片づけていく。

窓枠の埃も、飾り棚の隅も、見落としやすい箇所まできっちり拭き上げていた。

あれだけ押しつけられているのに、どうして平気な顔をしていられるのか。

見ているこちらのほうが、落ち着かなかった。

その日も廊下の先で鉢合わせた時、わたしは思わず声をかけていた。

「……あなた」

その侍女が、すぐに振り向く。

にこり、と笑う。

「はい?」

「……なんで、平気なの」

その侍女は、ほんの少しだけ目を丸くしたあと、すぐに口元をゆるめた。

「主のためですから♡」

「……主?」

この離宮でその言葉が指すものなど、ひとつしかない。

(……王妃様のこと?)

そう思った矢先だった。

廊下の向こうが、にわかにざわつき始めた。

足音が増える。

誰かが息を切らせたまま走り、別の誰かが声を荒げる。

「どうしたの?」

近くを通りかかった侍女が、顔色を変えて言った。

「第二王子殿下が戻られたそうよ!」

その場の空気が、一瞬で変わる。

「えっ」

「どうして急に」

「戻られるなんて聞いてないわ」

ざわめきが広がる中、さらに別の声が重なった。

「しかも、ご婚約者様もご一緒ですって!」

その言葉に、古株たちの顔色まで変わった。

侍女たちは互いの顔を見合い、慌ただしく動き出す。

誰かが客間の支度を叫び、誰かが寝室を確認しに走る。

あれほど静かだった離宮が、ひっくり返したような騒ぎになった。

わたしも反射的に足を動かしかけた、その時だった。

隣の侍女が、小さく笑った。

その横顔を見て、ぞくりとした。

「急がなければなりませんわ♡」

弾んだ声でそう言って、その侍女は誰より先に駆け出した。

その背を見送りながら、わたしは立ち尽くした。

廊下の奥から足音が近づく。

ざわついていた侍女たちの気配が、すうっと張りつめた。

まず姿を現したのは、第二王子殿下――ルシアン殿下だった。

思わず、息を呑む。

この離宮で語られる殿下は、もっと冴えない方だった。

背を丸め、覇気もなく、王妃宮に押されるまま静かに置かれているだけの王子――そんなふうに。

けれど、目の前に現れたその人は違った。

背筋はまっすぐ伸び、歩みに迷いがない。

不思議と目を引き、静かな目には澄んだ光があった。

ただ廊下を歩いてくるだけで、空気が変わるのがわかった。

古株たちの顔が、目に見えてこわばった。

若い侍女の中には、思わず見惚れたように頬を染める者までいる。

そして、その隣には令嬢がいた。

艶やかな黒髪に、ひと目で忘れがたい真紅の瞳。

赤を基調とした古典柄のドレスをまとっている。

蔓草と花葉を絡めた意匠が裾から胸元へ流れ、ともすれば重たくなりそうな柄ゆきなのに、その人がまとうと少しも負けて見えなかった。

あれが――ご婚約者様。

侍女たちが一斉に頭を下げる。

その時だった。

「クラリス様ー♡」

弾んだ声が、廊下に響いた。

ぎょっとして顔を上げる。

あの変な侍女が、嬉しそうに駆け寄っていく。

ご婚約者様――クラリス様は、ほんの少しだけ口元をやわらげた。

「ご苦労様、マリア」

――マリア。

あの方の侍女だったの?

古株たちの顔色が、さっと引いた。

マリアはにこにこと笑ったまま、胸元から小さな手帳を取り出した。

「場所は控えてまーす♡」

その一言で、何人かの侍女の肩がびくりと揺れた。

わたしも息を呑む。

そしてクラリス様は、騒ぐこともなく静かに周囲を見渡した。

「……誰も動かないでちょうだい」

やわらかな声だった。

けれど、その場にいた誰ひとり、逆らえる空気ではなかった。