軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

《書籍化御礼閑話》気に入るつもりじゃなかった―宇航―

愚かな人間は嫌いだ。

弱い人間も、醜い人間も。

そうした、傲慢としか言いようのない価値観を、あどけない顔の裏に持ち合わせているのが、 宇航(うこう) という少年であった。

彼は「烏」頭領の従者として生まれついた。

物心つく前に刃物を握らされ、水の代わりに血を啜り、子守歌の代わりに悲鳴を聞いて育ったものだ。

自分より強い者にのみ従い、弱者のことは見下すようになったのも、当然と言えば当然だったのかもしれない。

そんな彼が、目下忠誠を誓うのは、 礼央(りおう) という名の青年である。

烏の次期頭領にふさわしく、磨き抜かれた黒曜石のような瞳と、艶やかな黒髪を持つ、鋭利な雰囲気をまとった男だ。

身体能力に優れ、頭脳も明晰、性格も果断に富み、幼少時から「史上最高の『烏』」と期待されていた。

どうせ尽くすなら、強い主人がいい。

その点で言えば、礼央は文句なしの男だ。

万人に対して生意気な態度を崩さぬ宇航も、礼央には従順であった――もちろん、時折ちょっとした悪戯くらいはするけれども、ご愛敬である。

さて、そんなわけで、礼央が今代頭領に放逐され、寒村の貧民窟へと渡ったときも、当然宇航は彼に付き従った。

便利で快適な都暮らしが恋しいが、まあ、組織内での序列だとか、しがらみだとかに囚われず、好き勝手に暴れ回る日々というのも、それなりに楽しい。

玄岸州の寒さには閉口するが、特攻の役割を持つ宇航はたいてい走り回っているので、戦闘行為をこなしている間はあまり気にならなかった。

それはつまり、気になる日はほぼないということである。

尊敬できる主人に、やりがいのある仕事。

食べ物も、住む場所も、都には大いに劣るが、べつに困っているわけでもない。

となれば、この貧民窟での暮らしにおいて、宇航の不満はたった一つだけであった。

「ちょっとー! 宇航! あんたね、あんたね! また私のこと騙したわね!?」

やたらと威勢のいい声で、ぎゃんぎゃんと喚き立てる、この女。

宇航がちょっと貧民窟を離れていた間に、しれっと礼央の隣に収まってみせた豚女――珠珠である。

「あんた、大人しくて狩りやすい猪は東の森にいるって言ったくせに、実際いるのは西の森で、東は蛇だらけの魔境だって話じゃないの! この大嘘つき!」

顔を真っ赤にして怒っている――のだろうが、その肌色は見えない。

礼央に命じられたとかで、彼女は異教徒のように、顔のほとんどを黒布で覆ってしまっているためだ。

よほど寒さが苦手なのか、指先や首元まで含めて、露出している肌はほぼない。

ただ、もこもことした輪郭は、まるで豚のように丸々としていて、それを見た時点で、宇航はなんとなく腹がいっぱいになるような気がするものだった。

醜い人間は、嫌いだ。

「えー? 僕、言ったかな、そんなこと。最近忙しくて、覚えてないなあ」

「言ったわよ! っていうかあんた、半月もどこに消えてたわけ!? まだ十五のくせに、周りに報告連絡相談することもなしに、ふらっとどこかに消えて。心配しない礼央も礼央だわ!」

どうやら彼女は、宇航が突然姿を消したことを、心配していたようである。

宇航からすれば理解不能なのだが、彼女は、周りの人間が今日も元気か、食事をしたか、などということが、心底気になるらしい。

かつ、三つ年下の宇航のことを、弟とでも思い定めているのか、求めてもいないのにしきりと世話を焼いてくる。

ここで「礼央に命じられて王都で『狩り』をしてきただけだよ。たくさん殺したしたくさん略奪したから、いま懐はとても温かいよ」とでも答えようものなら、卒倒しそうな感じがするので、もちろん宇航も、事実を告げるつもりはさらさらなかった。

(ああ、鬱陶しい)

だいたい、礼央もどうしてこんな女を傍に置いておくのか。

珠珠と名乗る鈍重な女がやってきたのは、つい半年ほど前のことだった。

例によって宇航が王都に遊びに行っていた間に、花街から流れてきたとかで、気付けば礼央の隣に居場所を築いていたのである。

礼央はあれで女にもてるし、戦闘行為を働けば気も昂るものなので、それなりの遊びもこなしている。

いくらこの寒村といえど、女は選び放題のはずなのに、よりによってなぜこんな雪だるまのような外見の、押しつけがましく、頭も弱そうな女を気に入っているのか、理解しがたかった。

黒布をかぶせているのは、その顔が見るに堪えないからだろう。

そうまでして他人を傍に置いておく趣味というのは、宇航にはない。

「っていうか、そこどいてくれる? 僕、長旅で疲れてて、ゆっくりあんたとおしゃべりしたい気分ではまるでないんだけど。さらに言えば、あんたと話したい気分の時なんてないんだけど」

きゃんきゃんと騒ぎ立てる珠珠にげんなりしながら、宇航はするりとその横を通り抜けた。

ここは寒村の入口。

町から繋がる唯一の道があるものの、 邑(むら) の中心からは程離れた、寂しい場所だ。

のんびり帰ろうと思っていたのに、まさかこの騒がしい女に捕まるとは思わなかった。

「待ちなさいよ、あんたにはなくても、私には話したい用があるのよ!」

「猪のこと? うるさいなあ、西と東を言い間違えただけでしょ。一日狩りが空振りしたくらいで、そんなねちねち怒らないでよ、鬱陶しい」

狩り、という単語を口にするだけで、全身がまるで戦闘を思い出したようにぞわりとする。

今回の敵は手ごわく、いまだ、気が立っていた。

ともすれば口調が荒々しくなりそうだし、手当たり次第に殴りつけたい衝動にも駆られる。

けれど、そんな感情的な、素の自分を、この女には見せたくもない。

が、珠珠はまるでお構いなしだった。

「はあ? 影響はそんな小さなものじゃないわよ。あんたが東にいるっていうからそれを信じて森に踏み入ったら、なんか道を間違えて結果的に西の森に行っちゃって、ばっちり猪に出会ったのはいいんだけど、子どもを狩ってたら興奮した母猪に追いかけられて、逃げ回ってたら足を踏み外して崖から落ちて、そしたらそこが敵のシマが密かに栽培してた毒草畑で、縄張りを荒らされたと思った敵にうっかり攫われて、偶然近くにいた礼央に助けてもらったはいいんだけど、結局貧民窟の住人を総出で巻き込んじゃって、その後めちゃくちゃ怒られたんだからね!? 全部あんたのせいよ!」

「禍福を 糾(あざな) う趣味でもあるの? そんな複雑な因果、ぜんぶ責任を負わされても困るよ」

予想をはるかに超えて大事になっていた事態に、宇航は顔を引き攣らせた。

というか、きちんと西の森に向かっていた時点で、宇航はなんら悪くない。

(なんなの、こいつ)

宇航は、今回もまた、入力が奇妙な形で出力されてゆく不思議に、げんなりとした。

そう。

この珠珠という女はよほど複雑怪奇な天運でも持っているのか、少しでも嫌がらせを仕掛けようものなら、巡り巡って大事にしまくった末、必ず仕掛け人にとばっちりを返してくるのである。

たとえば、豚女のくせに、宇航よりも上等な食事を礼央から与えられているのを不満に思い、皿に下剤を混ぜてやったときには、その日に限って珠麗が周囲におすそ分けをし、宇航を含めた多くの者が腹痛に苦しむ羽目になった。

下町言葉に慣れていないのに付け込み、「チンカス野郎って、ここでは『格好いいですね』って意味だよ」と教え込んでやったら、よりによって敵の賊徒長に向かってそれを言い放ち、危うい均衡を保っていた貧民窟が一瞬で騒乱状態に陥った。

ほかにも、彼女が引き起こした事件は枚挙にいとまがない。

ちなみに、結果だけを見れば、一斉に下痢を起こした中で、症状を見せなかった者がいたことから、裏切り者の存在が割り出せたし、戦闘を起こさせ、礼央が敵を制圧してみせたことでかえって邑は平和になったのだが。

そんなところまで含めて、空恐ろしさを持つ女である。

「あーあ。帰ったら、また礼央に僕がどやされるやつじゃん、それ」

確実にやって来るだろう未来を思い、つい溜息が漏れる。

まったく、こんなに疲れているところに、ごめんこうむりたかった。

(本当に、はた迷惑な、豚)

疲れは苛立ちを呼ぶ。

一気に不快な気持ちが押し寄せ、宇航は軽やかな口調を維持するのに苦労した。

こんな時でも飄々とした態度を崩したくないと思ってしまうのは、もはや習性だ。

線が細く、年も十五にしかならない宇航のことを、舐めてかかる者は多い。

そのぶん敵に隙が生まれやすくなるから便利でもあるが、礼央第一の従者の座を疑われるのは、矜持が許さなかった。

命を懸けた特攻も、無茶な任務も、軽々とこなす自分でありたいのだ。

「とりあえず、さっさと帰って着替えたいから、そこをどいてよ、豚塊肉」

「ざけんじゃないわよ」

「あ、熊肉だった?」

通り抜けようとするたびに、両手を突っ張って通せんぼをしてくる珠珠に、そろそろ殺意が湧きはじめる。

だが、主人の「お気に入り」に手を出すのは、いくらなんでもご法度だ。

宇航は、敵意をそのぶん、あどけない笑みに変換してみせた。

「なーんてね。嘘だよ。僕、好きな相手のことは、ついからかいすぎちゃうみたい。怒らせちゃったら、ごめんね、珠珠」

白々しい発言だ。

ところが、このぱっちりとした大きな瞳や、小柄な体と組み合わさると、これがなかなか、よく効くのである。

礼央のように「危険で魅力的な男」といった方向性で女をときめかせることはできないが、上目遣いで微笑みの一つも浮かべれば、心を和ませない女はいなかった。

しかも相手は、赤子よりも騙されやすいと評判の珠珠なのだから、造作もない。

「ま、珠珠は信じてくれないかもしれないけど……さ」

ちょっと寂しそうに付け足してみせる。

案の定、珠珠が押し黙ったので、その単純さに、宇航は内心で呆れた。

「珠珠にだから正直に言うけど、長旅で、僕、ちょっと臭いが気になってるんだ。珠珠に臭いって思われたら、結構悲しいっていうか……。だから、珠珠は先に戻っててくれない? 僕はのんびり行くから」

しおらしく、下手に出てみせる。

相手はじっとこちらを見つめ、小さな声で答えた。

「……わかった」

「そ? ありがと」

にこやかに礼を述べつつ、内心ではせせら笑う。

だが、続く珠珠の言葉に、彼は思わず硬直した。

「今わかった。あんた、嘘をつくとき、やたら人の名前を呼ぶのね」

「……なんだって?」

予想だにしなかった反応だ。

だが、相手は「ふふん」と笑うと、宇航に向かって指を突きつけた。

「図星を突かれると、ちょっと声が低くなる。人を騙すときには、とびきり可愛い笑顔を浮かべるわ。それから」

いや、指を突きつけるだけではなく、突然両手を開いて、宇航のことを突き飛ばした。

「うわ!」

「体調が悪いと、すごく攻撃的になる」

「この……っ」

無様に尻もちをついてしまった宇航は、咄嗟にぎろりと相手を睨みつけたが、罵り言葉を発するよりも早く、珠麗が鋭い怒声を上げた。

「この大馬鹿者! そんな青白い顔して、歩いて帰ろうとするんじゃない!」

「は……?」

「血の匂いがする。右足、微妙に引きずってるわよ。さっさと着替えたいのは、それを隠すため?」

続いて、打って変わって静かな声で問われ、宇航は息を呑んだ。

まさかこの女に見抜かれるとは、思わなかったのだ。

珠珠はひとつ溜息をつくと、くるりと背を向けた。

そしてなぜなのだか、その場に屈みこんだ。

「ほら、乗りなさい」

「はあ!?」

「おんぶよ、おんぶ」

宇航が絶句していると、珠珠は怪訝そうな顔で振り返った。

「まさか、抱っこのほうがいいの?」

「んなわけねえだろ!」

思わず口調が乱れる。咄嗟に口を押さえたが、珠珠は「それ見たことか」と言わんばかりに眉を引き上げた。

「いろいろ自制が利かなくなるくらい、しんどいんでしょ。いいからさっさと乗んなさいよ。さもなきゃ、『宇航くんがあんよイタくて泣いてまちゅう!大変でちゅう!』って邑中に触れ回りながら帰ってやるわよ」

「そろそろ殴るよ?」

どすの利いた声で呟いたが、珠珠はどこ吹く風だ。

「ためらう意味がわかんない。せいぜい嫌いな女に重い思いをさせてやればいいじゃない。私が自発的にやったことなんだし、そのほうが、変な嘘を吹き込むよりも、よっぽど礼央も怒らないと思うけど」

「…………」

宇航が苦虫を嚙み潰したような顔になる。

さすがにこちらの敵意に気付かれているとは思ったが、それを受け入れられてしまうと、どうしていいのかわからないのだ。

「……変な女」

「ほら、乗った乗った」

「間違えた、変な豚」

「はいはい。馬役だってこなす、頼れる豚でございますわよ」

それでも地面に座ったままでいると、しびれを切らしたらしい珠珠は、とうとう強引におんぶを始めてしまった。

「うわ、重! あんた、見かけは華奢なのに、やっぱ男の子ねえ」

「……だったら下ろせばいいでしょ」

「わあ、右足膨らんでる。よくこれで歩いてたわね。ねえねえ、ここ、こうやってつんつんすると痛い? 超痛い?」

「痛いよ! やめろよ!」

にやにやしながら悪戯してくる珠珠に、思わず宇航は絶叫した。

実際、邑の中央までたどり着くのに半日かかるかなと見込んでいた程度には、負傷しているのだから。

「宇航はさあ」

えっほ、えっほ、と拍を刻みながら歩く珠珠が、ふと、呼吸の合間に切り出した。

「男の子よねえ。やんちゃだし、しょっちゅう怪我してくるし、でも、それを見せたがらないし。なんか、思春期。ちょっと眩しいかも」

「それ以上言ったらこの場で刺し殺すよ」

「ぶはは! こわーい!」

いったいなにがそんなにツボにはまったのか、珠珠は「かわいい」と肩を震わせている。

なにを言っても笑われそうな気配に、宇航は閉口した。

「弟がいたら、こんな感じなのかな。……ちょっと、気持ちがわかるかも」

「は? 誰の気持ち?」

「ううん、べつに。っていうか、暑いわね」

やはり女の身で、年下とはいえ男の体を背負うのは無理があったのか、すでに息が上がりはじめている。

(でも、服に汗は滲んでない)

その割に、背中が汗ばむようなこともないので、宇航は相手の疲労度を掴みかねた。

礼央や宇航は体力に優れすぎていて、どの程度の負荷で普通の女が倒れるのか、あまりよくわからないのだ。

「ちょっと、大丈夫?」

「ん……っ、まあ、ね」

「下ろして。至近距離であんたにハアハアされても、気色悪いだけだし」

「うる、さい、ガキねえ! 平気だって、言ってんじゃない。私から、気合いと根性を取り上げたら、なにが、残んのよ!」

どうやら珠珠は、一度決めたことに対しては、やたらと頑固になるらしい。

珍しく宇航が気を遣ったというのに、彼女は四半刻あまりもおんぶを続け、見知った邑の建物が見えてくると、ようやく「ちょ、ちょっと休憩……」と、彼を下ろした。

地面に倒れ込むように座ったその膝が、服越しにもそうとわかるほど震えているのを見て、宇航は思わず声を上げた。

「ちょっと! あんた、なにやってるわけ?」

「あ、あのさ、あっちの……あの、壁を赤く塗った、長屋があるじゃない? あそこに、私の部屋が、あるんだけどさ」

だが珠珠は、はあはあと息を荒らげたまま、震える腕を持ち上げて、遠くのぼろ家を指差した。

「中に……止血に効く、薬草を、煎じてるからさ。使っていいわよ。ほら、例の、敵のやつらが育ててた毒草畑。あそこに、薬草もたくさんあったから、礼央にもらったの。半分くらいは失敗しちゃったけど、残りは、めちゃくちゃ上手に煎じられたんだから」

手近な切り株に寄り掛かったまま、へらりと笑って、こちらを見上げる。

「カッコつけたい、お年頃でしょ」

「…………」

「あと、私のせいで、礼央に怒られたらごめん」

もしや、それを気にして、邑の入口で待っていたのか。

「…………」

宇航は溜息を落とすと、懐をさぐり、ぽいとそれを珠麗に投げてよこした。

「これ、お土産。都でしか手に入らない、疲労によく効く丸薬。豚に効くかはわかんないけど、あげる」

「へっ?」

咄嗟に受け止めてから、珠珠は困惑したように眉を寄せた。

「でも、これって、今のあんたにこそ必要なんじゃないの?」

「べつに」

ここまで移動してきたのだから、これ以上痛みをごまかす必要もない。

無理矢理珠珠に丸薬を握らせると、宇航は極力自然に見える足取りで、踵を返した。

「ここまで、ご苦労さま。せいぜいそこで休んでなよ。ああ。ここなら人もそう通らないし、そのむさ苦しい首布もいったん外せば?」

振り向きざま、そう付け足してしまったのは、ぜえぜえと肩で息をする珠珠のことを見ていられなかったからだ。

どれだけ醜い顔なのかは知らないが、つけっぱなしでは、呼吸ができず、時に倒れることだってある。

「失礼なやつね、そういうときは『ありがとう』でしょ?」

珠珠は相変わらず、ぷんぷんしながら言い返すが、やはり暑いことは暑かったらしい。

「あー、今日は風が強いのね。気持ちいい……」

すぐ傍に男がいることをまるで警戒していないのか、はたまた宇航を男として数えていないのか、ばさっと勢いよく外衣を脱ぎ捨てた。

「ちょ……――」

ちょっと、と制止しようとして、目を見開く。

なぜなら、脱いだはずの外衣の下に、またもや外衣が現れたからだ。

「……は?」

「暑い……三枚くらいは脱いじゃっていいかな。いいわよね、こういうのって、変に厚着すると、かえって風邪引くもんね。あ、礼央には言わないでよ? あいつ、妙に心配性だから」

そうやって次々と脱いでいく衣の量に、絶句する。

雪玉のよう、と思っていた輪郭がみるみる細り、次第に、服越しでもなめらかな曲線がわかるようになってきた。

よく見れば、手袋を外した白い指先は、豚と呼ぶのに似つかわしくないほどほっそりとしている。

「首布……は、前に外したとき、怒られたもんなあ……」

黒い首布の端からぱたぱたと空気を送り込みながら、珠珠がぽつりと呟く。

が、ちょうどそのとき一際強い風が吹いて、その黒布を奪っていった。

「ああっ!?」

「……は!?」

そうして現れた女の顔に、宇航は思わず、大声を上げる羽目になった。

あまりに、美しかったからだ。

大きな黒い瞳は、まるで濡れているかのよう。

頬は白く滑らかで、そこに影を落とす睫毛は驚くほど長い。

運動のために頬は赤く色づき、汗を滲ませたこめかみに、艶やかな髪がひと筋張り付いていた。

上等の妓楼にも、いいや、美姫の集まる後宮でも、なかなかお目にかかれないだろうというほどの美女である。

「あんた……その顔……」

「ああっ! 見ないで! いや、見てもいいけど、なにも言わないで! 特に礼央に!」

珠珠はと言えば、風に吹き飛ばされた黒布を、大慌てで追いかけている。

「待って……! うわあ痛ァ! 足の筋肉、めっちゃ痛ァ! 宇航、じゃあね! ここで!」

足を引きずり、ひいひい言いながら走り出した彼女を、宇航はぽかんと見送った。

「なにそれ……」

愚かな人間は嫌いだ。弱い人間も、醜い人間も。

では――意外に愚かではなく、弱くもなく、とびきり美しい人間に対して、自分はなにを思うのだろうか。

宇航は足の痛みも忘れ、しばらくその場に立ち尽くした。

***

「ねえ、 兄(にい) はさあ」

清明節の門前市である。

装飾品店として怪しまれない程度に商品を並べた宇航は、時間を持て余し、頬杖を突いたままぶらぶらと 簪(かんざし) を揺らした。

「いいの? あの馬鹿を後宮の中にほったらかしにしといて」

問うた相手は、店の奥に置いた座椅子で足を組み、居眠りを決め込んでいる。

「なんかさあ。あの馬鹿ったら、ずいぶん新皇帝に惚れ込まれてるみたいじゃん。早晩、ぺろっと食われちゃうんじゃないの」

「……べつに」

いや、目を閉じているだけで、眠っているわけではないらしい。

それもそうだ。彼が真に気を抜いたところなど、宇航は見たことがなかった。

「最終的に手に入るなら、それでいい。人に触れられたことがあるからと言って、玉が価値を落とすことはあるまい?」

声は淡々としている。

「それに、珠珠の焼き印は、あの完璧主義の皇帝の唯一の弱点で、やつはけっして珠珠に逆らえない。珠珠が嫌がる限り、無理やりことに及ぶことはないだろう」

極めて冷静な、「烏」の跡取りらしい発言に、宇航は軽く肩を竦めた。

「それはもちろん、その通りだけど。でもさ、このまま皇帝が見極めを通過しつづければ、いずれ兄は彼に仕えるようになるんでしょ。忠義を尽くす『烏』ともあろう者が、主人から女を奪っていいわけ?」

まるで動揺していないのがなんとなく悔しくて、むきになって指摘すると、礼央はそこで初めて薄目を開けた。

「そんなの、従者に出し抜かれるほうが悪い。主人の器ではなかったということだ」

「…………」

ふと、簪を弄んでいた指が止まる。

「……ふうん」

宇航は、真珠の飾りがついた簪を丁寧に置き直してから、笑みを浮かべた。

「そっか。そうかも」

なぜだか、心のどこかがわくわくとする。

人を試す烏、そのずる賢い瞳さながらに目を輝かせはじめた弟分を見て、礼央はふと眉を寄せた。

「宇航。やけに、あいつのことを気にするな」

「そう?」

宇航は鼻歌混じりに商品を並べはじめる。

あどけない顔には、愛らしい笑みが浮かんでいた。

「べつに、そんなことないよ」

「そうか? だが、おまえにしては、だいぶ甲斐甲斐しく接する」

「顔がそこそこきれいだから、馬鹿にするのをやめただけ。大嫌いさ、珠珠なんて」

そこで宇航は、悪戯っぽく、にっと口の端を引き上げてみせた。

「横恋慕なんてしないから、安心してよ、礼央 媽媽(ママ) 」

「やめろ」

「あれ、なんか、向こうから聞き覚えのある声がするような」

よく鍛えられた宇航の耳は、雑踏の中からでも、なじみの声を拾い出す。

彼が気付くくらいだから、もちろん、礼央もとうに、必死になって人込みをくぐっているらしい相手に気が付いているだろう。

「どうする? 手でも振ってみる?」

「寝る」

宇航が尋ねてみれば、意地っ張りな主人は、足を組みかえて再び寝る体勢に戻ってしまった。

おそらくは、先日わざわざ助けに行ってやったのに、またもや皇帝に絆されかけている場面を見たことで、拗ねているのだろう。

(ま、 兄(にい) も、あんまり余裕こいて、拗ねてる場合でもないと思うけどね)

宇航は、そんな礼央を横目で見ながら、ひっそりと笑みを浮かべた。

一拍後には、何食わぬ顔で、珠麗が好きそうな宝飾品を前に出してみる。

(べつに、どうでもいいけどさ、珠珠なんて)

彼女がやって来るまで、あと少しだ。

――名前を呼ぶのは、嘘の証。

それを知るのは本人と、あの鈍すぎる馬鹿ばかり。