軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

9.庇うつもりじゃなかった(3)

さて、翌朝である。

卯の刻――選抜二日目の開始を告げる銅鑼の音を聞きながら、珠麗は 荒(すさ) みきった目をして、広間から見える梨園を眺めていた。

(どうして……こんなことに)

犬笛の工作に勤しみ、土と枯れ葉の寝床でしっかりと睡眠を取ったところまでは、予定通りだったのだ。

土まみれの、どう考えても選抜の場には臨めない状態になったことで、それを言い訳に洗濯場へ向かおうとした。

洗濯場には、常時複数の下級女官たちがいる。

彼女たちの一人を襲ってお仕着せを奪い、その足で隣の厨に忍び込んで胡麻を食らい、あとは元の衣装に戻って大袈裟に発疹を訴える、というのが珠麗の作戦であったのだが。

「おはようございます、珠珠さん。冷えた土にまみれた衣を着ていては、風邪を引いてしまいますわ。さ、早くこちらにお着替えなさいませ」

その作戦は、朝日を背負って登場した蓉蓉によって、初手から崩されてしまった。

なんと彼女は、いったいどう工面したのか、下級妃用の真新しい衣装を手にしていたのである。

さらにその隣には、心配そうな表情を浮かべる純貴人・静雅の姿もあり、彼女は温かな湯と手拭いを用意していた。

「元はと言えば、わたくしを庇ってしたことなのに、あなたをこんな目に遭わせてしまって申し訳ないわ。こんなことしかできないけれど……せめてあなたを、憂いない状態で選抜の場に連れて行くことで、ささやかな償いをさせてちょうだい」

「えっ!」

さすがは、公正さと慈愛深さで知られる純貴人である。

珠麗は「まったく償う必要なんてない」「衣も洗濯すればよいので必要ない」と必死に訴えたのだったが、するとなぜか二人はますます奮起してしまい、あれよあれよという間に着替えを強要され、この場へと連行されてしまった。

高くに据えられた反り屋根に、何十種類もの陶材を並べて磨き上げた、滑らかな床。

壁は北側の一か所にしかなく、残り三方に柱だけ残したこの建物は、広間というより、巨大な東屋とでも表現したほうがふさわしい。

常時は舞楽を披露するための舞台として使用されている場所だが、今はそこに大量の机と椅子、そして習字道具一式が運び込まれ、まるで科挙の会場のようである。

おそらく今日の選抜は、書か画。

いや、用意された筆の種類を見るに、水墨画であろうか。

それを悟って、画が得意な紅香は歓喜の声を上げた。

わざわざ全席の筆を見てまわり、一番状態のよい筆が置かれた席を見つけると、先に座っていた貴人を隣に追いやってまで、そこに腰を下ろす。

一方の珠麗は、一番目立たないと思しき後方の席にさっさと落ち着き、腕を組んで思索に耽っていた。

(なんとかして、今日こそはぶっちぎりの落札を決めないと……!)

考えるのはそればかりである。

ここまでで蓉蓉から得た情報によれば、揺籃の儀では、前日の選抜結果に応じて、朝の時点で一度階位が更新されるらしい。

つまり珠麗や蓉蓉の場合は、昨日の結果を踏まえ、下級妃として選考に臨むこととなる。

そこからさらに好成績を収めれば中級妃または上級妃として明日の最終選抜に臨み、そこで再び好成績であれば、新皇帝の承認のもと、その地位が確定する。

逆に、今日の成績が振るわなければ、一度女官候補へと後退し、さらに明日の選抜でも失態を重ねれば、城外につまみ出されることもあるのだという。

ほかにも、儀式を妨害したり、太監や武官に対してあまりに不敬な態度が見られた場合には、その時点で選抜を打ち切られることもあるとのことだった。

それだ、と珠麗は思った。

(ちまちまと手を抜いて、評価が下がるのを待っていては時間がかかる。どうせやるなら、不敬の上にも不敬、ぶっちぎりの悪評を獲得して、素早く後宮から追い出されてやる……!)

ちょうどそのとき、会場に不備がないかを点検していた郭武官と視線が合う。

彼はにこやかな笑みを浮かべると――あちこちから、女性たちの恍惚の溜息が聞こえた――、反射的に顔を顰めてしまった珠麗のもとへと近付いてきた。

「やあ。今日は逃げなかったんだね、感心感心。そうだ、貴人候補の蓉蓉殿から申し入れがあったので、太監たちに伝えて衣装をもう一着手配させたよ。その色もよく似合っている」

「まあ、ありがとうございますう。感謝に堪えませんわあ」

珠麗は口の端を引き攣らせながら、なんとか笑みを浮かべることに成功した。

(脱出計画が挫かれたのは、あんたのせいか! ああっ、こんな男に感謝してしまった! 口が腐るっ! 全身がかゆい!)

内心では、全身を掻きむしりたい衝動を必死でこらえている。

昨日、あれだけの至近距離で見つめられても正体を気取られなかったことで、おそらく彼に見破られることはあるまいという、妙な自信が付きつつあった。

恐怖心が薄らげば、残るのは、過去に手ひどく自分を傷付けたことへの怒りと、そして、この場に引き留めようとする行為への苛立ちである。

蓉蓉や静雅が自分に選抜を受けさせようとするのは、あくまで善意からだとわかる。

が、この男はそうではあるまい。白豚妃時代に珠麗を構っていたのも、単に、毛色の変わった女にそそられる性質だからだ。

本人は「へえ、面白い生き物」とご機嫌でも、巻き込まれるほうはいい迷惑である。

(よくも私の脱出を妨げてくれたわね。その選択、絶対後悔させてやるんだから)

最初は白紙で提出してやろうかと思ったが、それでは「ぶっちぎりの」悪評を獲得はできまい。

どうせなら、思い切り冒涜的な書だか画だかを仕上げてやる。

そしてその標的は、このいけすかない郭武官だ。

(子流しの濡れ衣でも追放だったのだもの。武官への不敬程度では、最大でも杖刑くらいのものでしょ。ふふふ……ここまできたら、あのすかした男をぎゃふんと言わせてから、高笑いして後宮を去ってみせるわ)

方針が決まれば、心も落ち着く。

郭武官が静かに笑って去ってゆくのを見送ってから、珠麗は肩の力を抜き、椅子に座り直した。

右隣の机には蓉蓉、左隣には静雅が腰を下ろしている。

画が得意な紅香は得意満面でひとつ前の席に陣取っていた。

とそのとき、背後がざわついて、会場にいた貴人たちが一斉に立ち上がる。

つられて振り返れば、華やかな衣装をまとった女たちの一団が、しずしずと広間へと入室しているところだった。

嬪たちだ。

嬪の座は九人分あったはずだが、今代皇帝との間に子を成した者や、高齢の者が除かれた結果、やって来たのは三人だけだった。

やはり嬪ともなると年嵩の女性が多く、年齢規制に引っ掛からなかった者でも、なかなかの熟女揃いだ。

そんな中で、若々しい白い頬と濡れたような黒瞳を持つ楼蘭は、際立って美しく見えた。

「嬪の皆さまにご挨拶申し上げます」

「ごきげんよう」

下級妃である貴人たちが揃って机を離れ、通路で頭を下げる中、嬪たちは女官にわざわざ花道を作らせ、ゆったりと最前列へと向かった。

四人の上級妃たちは皆、子を儲けているため、こたびの儀式には参加しない。

つまり、今、最前列に座った三人の嬪たちが、現在の後宮における最高位の女性と言うことだ。

貴人たちはじっと頭を下げ続け、嬪たちが完全に腰を下ろすと、ようやく自席に向き直り、着座する。

珠麗もまた、楼蘭の後ろ姿を見守りながら、腰を下ろした。

(素通り、か)

一瞥することすらなく通り過ぎていった楼蘭に、なんとも言えない思いを抱き、珠麗は口元を歪めた。

すでに破鏡の件で、恨みは買っている。

だがそれを露にしないだけの計算高さを、彼女は持ち合わせているのだろう。

そしてそんな彼女に、珠麗はどんな感想を抱くべきか、よくわからなかった。

絶対に気付いてほしくないような、いや、胸倉を掴み上げて詫びろと迫りたいような。

逃げ出したいような、睨み付けたいような、入り乱れた気持ち。

恨むのが普通だろうという気もしたが、追放後の四年があまりに濃密で、すっかりそうした感情も、遠ざかってしまっていた。

自分が彼女にどんな反応を期待していたのかも、よくわからない。

(……きっと、楼蘭も、私のことなんて覚えてもいないかもね)

踏まれたほうは覚えていても、踏んだほうは覚えていないというのが、世の常だから。

珠麗は小さく溜息を落とすと、気持ちを切り替えた。

とにかく、今はこの場から脱出することだけを考えねば。

「それでは、これより揺籃の儀の二日目を執り行う。昨日の教養の部に引き続き、本日は技芸の巧拙を競う。用意された筆と墨を用い、自由に、心に浮かぶ情景を描きなさい」

太監長の言葉を皮切りに、女たちが一斉に筆を取った。

刻限は、上座の卓に据えられた香が燃え尽きるまで。

その間に、「心に浮かぶ情景」をありありと描く。

題材が自由、ということは、なにを題材とするかもまた審査の対象になるということだ。

用意された紙は、上質な正紙が一枚と、雑紙が一枚。

雑紙は墨落とし用ということだろう。

ちらりと視線を走らせれば、女たちはそれぞれ目を閉じて構図を考えたり、立ち上がって勢いよく筆を走らせたりと忙しい。

珠麗もまた、真剣な顔で考えた。

郭武官をここぞとばかりに貶めるには、どんな内容がよいだろう。

(……艶画ね。それも男色の)

すぐに心は決まった。

郭武官の顔をした男が、ぐっちょぐちょに乱れているところを、ありありと描いてやろう。

相手役は太監長で決まりだ。

役職の成り立ち的に、男性の憧れの職である後宮武官は、太監たちを見下していることが多い。

それが、見下している太監に自分が襲われているとなれば、いったいどれだけ屈辱的に映ることだろう。

太監長の袁氏も潔癖症な一面が見え隠れするから、艶画に登場させられるだけで激怒するかもしれない。

けれど皇族を馬鹿にする内容でもないので、極刑にはまずならないだろう。

大変よい塩梅の趣向だ。

(期せずして、めっちゃ楽しいんですけど!)

珠麗はにこにこして筆を取った。

幸か不幸か、自分にその手の経験はないものの、花街では太陽を仰ぐより頻繁に、男女を問わぬ色事の現場を目の当たりにしてきた。

その後貧民窟で、絵や貨幣の贋作に携わったこともあり、絵の技巧もかなり磨かれたと自負している。

練習も無しに正紙を広げ、まずは主要な背景を書き込んでいると――大胆に、後宮内の梨園を舞台にしてみた――、机の間を巡回していた郭武官が、手元を覗き込んできた。

「へえ、迷いのない筆運びだね」

「恐縮です。なにやら、自然と光景が目に浮かぶようで。天の意思かもしれません」

見てろよ、今に絵の中で、あんあんヒイヒイ言わせてやる――。

どす黒い笑みが浮かびそうになるのをなんとか堪え、視線を逸らす。神妙な顔つきの珠麗を、郭武官は「ふうん」と見つめていたが、やがて踵を返した。

珠麗はこれ幸いと、画に没頭した。

が、巡回中のほかの太監が紅香の隣を通ったとき、「おや」と声を上げたので、珠麗は再び筆を止めた。

顔を上げてみれば、前席では、紅香が筆を持たぬまま、じっと俯いていた。

「明貴人。いまだ白紙のようですが」

「……その」

紅香はのろのろと顔を上げ、太監の顔を縋るように見上げる。

その横顔は、少し青褪めているようだった。

「筆が……」

「筆が?」

「小筆が、壊れていて」

おずおずとした申告を聞くなり、太監は不愉快そうに顔をしかめた。

「我々の用意に不備があると? 見たところ、筆先も柄も割れていませんが」

「いえ、不備なんてことはないのです。ただ、墨を含ませただけで毛が抜けて――」

「本当に、わがままな方」

焦って否定しようとした紅香を、隣からの小さな呟きが遮った。

「その筆がいいからと、わざわざわたくしを押しのけてその席に着いたくせに、今度はそれに難癖をつけるだなんて。名画を描くには、何度も筆を取り替える傲慢さが必要ですの?」

先ほど、紅香によって隣席に追いやられた妃嬪である。喜貴人という称号だったろうか。

彼女の非難を耳にした途端、上座に座す袁氏が、ちらりと紅香を一瞥するのがわかった。

不愉快そうな視線だ。

たぶん紅香も、こうした印象を与えてしまうことを恐れて、筆のことを言い出せずにいたのだろう。

なにしろ、彼女が高圧的に「あなたには筆の良し悪しなんてわからないでしょ」と席を移動させたことは、多くの太監たちに目撃されているのだから。

「あの、でも、筆が、いつの間にか 替わって(・・・・) いて……っ」

「明貴人。曲がりなりにもあなたは貴人だ。そんな言い訳で、儀を妨げようと?」

身を乗り出した紅香を、袁氏が冷ややかに制する。

その瞬間、喜貴人がこっそりと笑みを浮かべるのを見て、珠麗は眉を上げた。

(ふうん)

喜貴人は、気付かれぬ程度にちらりと、けれど媚びるように、前方の楼蘭に視線を送る。

楼蘭は、いかにも騒動が気になって振り返っただけ、という感じを装いながらも、その視線を受け止め、わずかに目元を和ませた。

ついで、紅香を責めている年若い太監と、無表情で控えている夏蓮にも、満足そうな一瞥を向ける。

ごく微細な、企みの気配。

(なるほど?)

おそらく喜貴人と太監には、楼蘭の息が掛かっているのだ。

まず太監はあの席にだけ上等な筆を用意し、喜貴人は紅香を誘導して、大げさに騒ぎ立てながら席を譲った。

そのうえで、楼蘭たち嬪が入場した際――つまり、下級妃一同が席に背を向けて頭を垂れている間に、夏蓮が筆を取り替えたのだ。

珠麗はほかの嬪たちと違って、深々とは頭を下げていなかったから、夏蓮が花道を作りながら、紅香の机に近付くところまでは目にしていた。

紅香が粗悪な筆で画の質を落とせば、有力な敵が一人減る。

筆の交換を申し出たところで、それを責め立てて悪印象を残すことができる。

楼蘭らしい、迂遠で、嫌らしい手と言えた。

(好きよねえ、ねちねちやるのが)

すっかり貧民窟流に染まった珠麗からすれば、楼蘭のやり口はまどろっこしいが、それでも確実に成功させ、敵意を周囲に悟らせないというのが、彼女の手腕の高さなのだろう。

(私なら華々しく行くけど)

だいぶ完成に近づいてきた艶画を前に、珠麗はふふんと鼻を鳴らした。

郭武官たちを怒らせたいだけなので、べつにこれ以上精度は上げなくてもいい。

さあ、あとはどうやって時間を潰そう、と椅子に背を預けたら、前席の紅香はまだ俯いていた。

(んもう、打たれ弱いんだから)

日頃威勢がいいくせに、ちょっと逆境にさらされると、途端に委縮してしまう。

元妹分の相変わらずの姿に、珠麗は軽く嘆息した。

それから、考える。

選抜が始まってから他人と筆を取り替えるというのは、不正受験のほう助であり、明らかな違反だが――だからこそいいかもしれない。

ほかの妃嬪候補者たちは、紅香から目を背けるようにして、各々の画に没頭している。

珠麗は武官や太監に見つからぬよう、細心の注意を払うと、伸びをする振りをして、そっと小筆を前の席に投げ入れてやった。

紅香が驚いて振り返るのを、視線で制す。

妹分は小筆を握りしめて、しばし身を震わせると、一度だけこくりと頷き――そしてようやく、筆を走らせはじめた。

(よしよし、頑張ってよ)

ぜひ紅香には、楼蘭の鼻を明かしてもらいたいものである。

ご機嫌になった珠麗は、今度こそゆったりと椅子にもたれかかった。

後は、追放の瞬間を待つのみ――。

――ばさばさばさ!

とそのとき、開け放たれている広間の一方から、荒々しい羽ばたきとともに、一羽の鳥が飛び込んできた。

真っ黒な、異様に尾の長い 烏(からす) である。