軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

氷の皇太子バシレオス

この日の夕食。シェリィは頑張った。

シェリィはカイルに「自分は主人に恵まれた」と思ってもらいたくて、夕食は得意の鶏肉のトマトのシチューを振る舞った。シチューは公爵令嬢だったシェリィができる、唯一のちゃんとした料理だ。

コレッタの屋敷でお泊まり会をした時に、彼女の母に教わったのだ。

市場では奮発してお肉をたくさん買ったし、カイルの皿に多めに盛った。カイルはシェリィが触れられないのだが、飲食はできるようだった。

というよりむしろ、食欲旺盛なほうらしく、たくさん食べるので家にあったチーズが尽きてしまうほどだった。

妖精は少食のはずなのに、これは今後の食費を考えると少し頭が痛い問題かもしれない。

食後のデザートにコレッタからもらった焼き菓子があって、心底ありがたいと感じた。

今日のシェリィは一日、頑張った。

カイルは観劇に付き合ってもらっただけで、多くの人間のように守護妖精をこき使ったりはしていない。

(きっと、素敵な主人に召喚されたと思ってくれたわよね。最初は混乱していた様子だったけれど、これで一安心よね。うまくやっていけそうだわ)

召喚した妖精が随分いろんなことに戸惑っている様子なのは気になったが、人間界に初めて来たらしいから、そんなものなのだろう。

おそらく、近いうちに王室から公爵家経由で、公爵邸に婚約破棄の通達が届くはずだ。そうなったら多分叔父がシェリィを呼び出すだろう。王室の決定に対し、権威ある公爵という父を失ったシェリィには、それを覆す術はない。むしろしがみつく理由も最早なかった。

叔父はシェリィに同情するような表情と態度を取り繕いながらも、アンジーを王太子妃にできることに心の中で歓喜するに違いない。

(私は、それでもなんとか生きていかなくちゃいけない……)

新しい使い魔はドン詰まりのシェリィの人生に、綺羅星のごとく現れた希望のように思えた。

明日には、きっとカイルにも 触(さわ) れるようになっている。そう期待して、シェリィは眠りについた。

シェリィはどう見ても深い眠りについている。

彼女がちょっとやそっとでは起きそうにないのを確認してから、カイルは玄関から外に出た。

外は真っ暗だったが、庭園の向こうにある大きな屋敷には、富の象徴のように煌々と明かりがついている。

カイルはリンツ帝国の歴史本に描かれた絵で、王国有数の名門キャドベリー家の屋敷を見たことがあった。

庭園越しに屋敷を見上げて、カイルが両腰に手を当てる。

「確かに、ここは嘘偽りなき公爵邸だな」

カイルを呼び出した令嬢は、本当に公爵家にゆかりのある者なのだろう。

お人好しにしか見えないシェリィが嘘をついているとは思えない。かといって、彼女がカイルをただの守護妖精として呼び出した、という話を信じていいものか。

実はカイルには、一つ引っかかることがあった。

リンツの軍務大臣は、前キャドベリー公爵の弟――つまり現キャドベリー公爵だ。

そしてゴダイバ帝国皇太子であるカイルの兄の第一皇子ステンは、リンツの軍務大臣と個人的に懇意にしている。

第一皇子のステンは実母の起こした皇太子暗殺未遂の後、勢力をかなり失っている。彼の実母はリンツ王国の王女だったが、彼女の母は帝国名門貴族の出身だった。つまり、ステンには一応内外に支持者がいるのだ。

ステンはまだ帝国の中枢に根を張っており、油断できない。そのため、現在もカイルは彼を監視し、その交友関係には目を光らせていた。

第一皇子のステンとシェリィが繋がっている可能性は捨てきれない。

カイルは両手を広げて、あらためてジッと見つめた。

夜の闇に薄ぼんやりと輝く手は、見慣れるものではない。

「仕方ないな。まだ俺の ご(・) 主(・) 人(・) 様(・) とやらが、何かを企んでいないとは限らない。当分、使い魔のフリをするしかない」

貧相な小屋に戻って、居間にあるソファに体を横たえる。

この家には寝台が一つしかなく、その一台は当然ながらシェリィが使っている。

妖精は夜寝ないため、夜間は妖精界に戻るのだ。そのため、妖精に寝台は必要ない。

妖精のフリをしているカイルが寝そべるとしたら、ソファしかなかった。

不思議なもので、魂だけの身となっても眠気は訪れた。人間なので仕方がない。

目を閉じてゆっくり欠伸をし、その口が閉じる前にカイルは奇妙な感覚に襲われた。

ぐわん、と意識が揺らぐ。

突然、自分が頭の先から引っ張られる感覚があった。

(な、なんだこれは⁉︎)

ただの 眩暈(めまい) ではない。

カイルはソファの肘掛けにしがみついた。何かにしがみつかないと、自分がどこかへ吹っ飛ばされそうな吸引力を頭上から感じるのだ。

まるで突然家の中に音もなく巨大な竜巻が現れ、自分を渦の中に引き摺りこむような、凄まじい吸引力だった。

部屋の中は床に落ちる紙切れさえ、揺れていない。カイルだけが、何かに引っ張られているのだ。

自分を引こうとする強烈な力に、抵抗できない。意識ごと体を引くような凄まじい引力に、頭が痛む。

カイルはなんとかソファに爪を食い込ませて耐えていたが、やがてソファから引き剥がされ、壁際まで吹っ飛ぶ。

「ぐわっ!」

引っ張られたカイルは家の壁にぶつかることなく、外に引き摺られていく。

カイルは一瞬にして、空高く打ち上げられていた。見下ろせば眼下に広がるのは、緑豊かな公爵邸の庭園だ。

(落ちたら死ぬぞ! くそ、どうなっているんだ!)

四肢を振り回して暴れるが、カイルは落下する間もなく勢いそのまま、庭園を凄まじい速さで飛ぶように何処かへと引かれていく。一瞬にして公爵邸の敷地を超えた。

(マズいぞ、落ちたら死ぬ! いや、魂だけだから、死ぬことはないのか……?)

明かりが密集する街並みが、眼下を過ぎ去っていく。そうして王都すらも高速で縦断し、上空へと巻き上げられて鈍色の雲の中に突っ込んでいく。

雲にぶつかる! と思った瞬間、カイルは無意識に目を閉じた。次いでひんやりとした水の極細かな粒の間を全身が突き抜けていく感覚に襲われ、やがてそれがやむと雲一つない星空を自分は飛んでいた。

薄目を開けたまま、混乱しつつも状況を確認する。

周囲の景色が凄まじいスピードで移り変わっていく。細かな振動と共に引かれるので、揺れと眩暈にこれ以上目を開けているのも辛く、ついに目を閉じる。

最後に何か冷たい物体にぶつかったと思った次の瞬間、カイルはようやくどうにか目を開けた。

引力はもう、感じなかった。

どうやら自分はどこかに落ちたらしい。

一番最初に視界に飛び込んできたのは、濃い化粧をした大男の顔だった。

男は目を閉じて寝息を立てている。

驚くべきことに、カイルの目の前に今いるのは、彼がよく見慣れた顔だった。

ゴダイバ帝国の皇宮に仕える、筆頭魔術師のゴードンだ。

ゴードン、と呼びかけようとするも、喉が全く動かない。

辺りを見回そうと思うも、眼球すら動かない。だがゴードンの背後に見える壁紙の模様も、視界に入るベッドの天蓋も見慣れたものだ。――ここは間違いなく、ゴダイバ帝国の皇太子宮殿にある、皇太子の寝室だった。

自分の体に引っ張られ、遠いリンツ王国の公爵邸の敷地内から、ここまで飛んできたらしい。

(まさかこうも急に、自分の体の中に戻れるとは……)

公爵家のシェリィに魂を盗まれる、という悪夢は終わったのだろうか。

ゴードンはカイルが横たわるベッドの隣に置いた椅子に座ったまま、背もたれに深く寄りかかって寝ている。

皇太子バシレオスの治療をしていて、疲れて居眠りしているらしい。

自分が自分の体に戻ってこられたのだ、と認識するや否や、カイルを凄まじい痛みが襲う。

体の全てが凍りつき、動かない。冷たさは度を超えていて、千の針で常に突かれているかのような痛みがある。

自分の体を取り戻したと思ったのに、喜べたのは一瞬だけ。ここには、全身を襲う凄まじい痛みしかない。

(なんということだ。俺は、今ろくに呼吸すらしていないぞ)

強烈に全身が痛むのに、体はまったく動かせない。それどころか、痛むことを意識したせいか、痛み自体がどんどん強くなっている。四肢がちぎれるように冷たく、痛む。

けれど苦しみを逃す声すら、上げられない。

どうにかしてくれと祈るような気持ちでゴードンに視線を送るが、深く寝入り起きる様子はない。

カイルは拷問のような状況に、これ以上耐えられそうになかった。

(ひとまずここは、戻った方がよさそうだ)

ここは居心地があまりに悪い。

頭の中に公爵邸の庭師小屋を思い浮かべれば、今飛んできた道筋が見える気がした。

痛みのない場所が、自分を呼んでいる。

そう直感したカイルは再び目を閉じ、寝台を飛び出した。氷の牢獄のようになってしまっている自分の体から逃げ、再び強く引っ張られるように東へ、東へと飛んでいった。

すなわち、リンツ王国のシェリィのそばに。

ソファに寝ていたはずのカイルは、目を開けると随分狭い空間に立っていた。周囲には所狭しとホウキやハタキといった掃除道具や、段ボールが詰まれている。

「げ、なんだここは⁉︎」

状況が分からずとも、ひとまず声が出ることに安心する。

あまりに狭い上に暗く、一瞬ここがどこかわからなかったが、自分の体が発光しているおかげで、薄っぺらい茶色の扉には見覚えがあった。

ここは納戸だ。シェリィの住んでいる小屋の。

どうやら自分は無事、元いた場所に戻れたようだ。できればソファの上に戻りたかったが。

扉を開けようとしたカイルは、ノブに手を伸ばしたまま、ふと固まった。

小屋の中をバタバタを誰かが走る音がする。走りながら、バタンバタンと扉を開け閉めしているようだ。

まるで何かを探しているように。

走っているのはもちろん、ここに住んでいるシェリィだろう。

(まさか家の中を、俺を捜し回っているのか?)

出ていって顔を見せてやらねば、とカイルが納戸から出ようと足を踏み出し、ついでにホウキに足を掛けてしまい、ホウキが倒れてガシャンと鈍い音が響く。

直後、扉がすごい勢いで外側に開かれた。

廊下から朝日が差し込み、カイルは眩しさに一瞬目を細める。

ドアをひったくる勢いで開き、納戸の中にいるカイルを覗き込んだのはシェリィだった。

何か凄くショックなことがあったかのように目を見開いて固まっている。さっきまで泣いていたのか、目は赤く充血している。

シェリィはカイルを見とめるや否や、ドアノブから手を放してそのまま数歩後ずさった。

「よかった、カイル。朝起きたら貴方がいないから、捜したのよ……」

夢中で捜し回っていたのか、肩を上下させて大きく呼吸している。

「悪かったな、急にいなくなって。そんなに驚かせたか?」

「う、うん。誰もいなくて……また一人ぼっちになったのかと思って……」

寝間着が急に寒くなったのか、シェリィが両手で自分の両腕を抱える。

カイルはシェリィの寝間着の薄さに今更気づき、慌てて明後日の方向に視線をずらした。少しの間、朝日に透ける彼女の体の線を凝視してしまったことを恥じ、首の後ろをかく。

カイルはホウキを長い足で避けながら、納戸から出た。

カイル自身が自分の体に戻っていた時間は、ごくわずかな時間だ。だが、ゴダイバまでの往復の時間を考えると、彼はおそらく一晩中いなかったに違いない。カイルの意志とは関係なく自分の体に一時的に戻ったのであって、不可抗力だったのだが、シェリィのあまりの狼狽えぶりに、留守にしてしまって申し訳ないとすら思った。

公爵邸の庭師小屋に一人で住むことはシェリィにとって心細く、使い魔に側にいて欲しいのだろう。カイルは自分を見つけて安堵するシェリィの様子から、彼女にとって自分がここにいることが、思ったより大きな意味を持つのだと気がついた。

(召喚した使い魔を、失ったと思ったのか?)

シェリィは裸足だった。室内履きが走り回っているうちに脱げてしまったのに、それすら気づいていないらしい。

シェリィの孤独を想像すると、カイルは不覚にも胸が痛くなった。

このような状況で同情は禁物だと思っていても、目の前で震えるシェリィは憐れだった。走っているうちにどこかにぶつけたのか、左足の小指は微かに赤く腫れている。

気がつくと彼は、自分でも驚くほど優しい声をシェリィにかけていた。

「俺は……妖精界では、なかなか忙しい身の上でね。少しの間帰らせてもらっていた。悪かったな」

「妖精界に帰っていたの?」

小首を傾げてカイルを見上げてくるシェリィの純粋そうな瞳に、カイルは一瞬答えに詰まりそうになったが、なんとか口角を上げて微笑み、もっともらしく頷いて取り繕う。

「……ええと、そうだな。夜明け前にはこっちに戻るつもりだったんだが。勝手がつかめなくてな。時々帰ってもいいか?」

シェリィが目尻にたまっていた涙を寝間着の袖でぬぐう。

「もちろん、妖精は寝ないものね。私が寝たら、妖精界に毎晩帰ってくれても構わないわ。でも、朝にはちゃんとこっちにも戻ってきてね。その……わがままかもしれないけれど、朝ご飯は一緒に食べたいの」

呼び出した守護妖精をそばにおいても、彼らには用事だけ言いつける貴族が多い。

だがシェリィの言動から、カイルはこれまで彼女がいかに自分の守護妖精を家族のように扱ってきたのかが、分かった気がした。

「分かった。大丈夫だ。俺は……妖精界に戻りっぱなしにはならない」

シェリィが廊下の先の台所を振り向き、ひとりごちる。

「あっ、卵もベーコンも今、ないんだった」

自分が提供できる朝食が質素なことを恥じたのか、シェリィが急にモジモジと視線を彷徨わせる。

ややあってから、彼女は気まずそうに言い足した。

「私は王太子妃になり損なった女だし、貴方に偉そうにアレコレ命じるつもりはないの。私が用事を言いつけない時は、基本的に自由にしてくれていていいのよ。ーーどうせ前の守護精霊のバードも自由だったし」

「ほう。それはありがたいな」

そう言うなり、カイルは両腰に手を当て、ニッと笑った。