軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

29 『春の女神』のお披露目

一月三十日

今夜はヒューズ伯爵家の壁に描かれた『春の女神』のお披露目の日だ。クリスティアンからもヒューズ伯爵からもお誘いの手紙を貰っている。

「仕事の予定があるので遅れて行きます。申し訳ありません」とだけ双方に返事をしたものの、アンバーの気持ちも足取りも重い。大勢の貴族たちが見ている絵は自分をモチーフにした女神だ。

「た、耐えられない……」

ある程度の露出があるらしいことは覚悟の上だが、婚約者であるクリスティアンが描いたのならきっと胸や腹が丸出しということはないだろう。

「ない、わよね?たぶん」

でも自信がない。『芸術家という人たちは常識に縛られない』とエレンも言っていたではないか。

今、アンバーが悶々としているのは自分が経営しているバーの四号店のカウンターだ。女性が一人でおしゃれして座っているので、店の客たちがチラチラ見ているのは気づいている。

だが今夜はそんな視線がどうでもいいと思えるほどアンバーは悩んでいた。

身体にピッタリと寄り添うような黒いドレスはアンバーのほっそりとしたスタイルの良さを強調していたし、黒いオニキスのピアスとネックレスはアンバーの白い肌と黒髪を美しく引き立てていた。

「オーナー、どうしたんです?夜におしゃれしてこの店に来るのも珍しければ、そんなふうに考え込んでいるのも珍しいじゃないですか」

話しかけて来たのは総支配人のマシューだ。すっかり支配人ぶりが板についていて、そう話しかけながらも出て行く客に声をかけたり入ってくる客を名前で呼んで歓迎したりしている。

「実はね、今夜、とある貴族の家で私の婚約者の描いた絵のお披露目会が開かれているの。その絵のモチーフに私が使われているから行かないわけにはいかないんだけど」

「それは……。ここで油を売っている場合じゃないでしょう。早く行かないと」

「一人で行く勇気がないのよ」

「なんだ、そんなことですか。では自分がお供いたしますよ」

思わず赤髪の陽気なマシューを見つめてしまう。

そうか、その手があったか。一人で会場に入ることを想像して足がすくんでいたけれど、陽気なマシューと一緒なら心強いではないか。

「悪いけどお願いしてもいいかしら。服装はそのままでいいわ」

「もちろんです。お供します」

マシューは笑顔でそう言うと、カウンターの中の従業員に声をかけてアンバーを促して馬車に乗った。

「そういえば伯爵様の婚約者にお会いするのは初めてですね」

「ああ、そうだったわね。あなたが我が家に来た時は、彼はもうヒューズ伯爵家に行った後だったから」

「ではご挨拶しなくては」

「穏やかないい人よ。あなたと気が合うような気がするわ」

ヒューズ伯爵家はたくさんのランタンを庭に置いて明るく飾り立ててあった。馬車止めにはぎっしりと馬車が並んでおり、御者たちがあちこちに集まって立ち話をしている。

屋敷の中からは弦楽器の音色が流れ、ザワザワと人々の話し声も聞こえてくる。

しばし入口でためらっているアンバーの背中に手を当ててマシューが

「さあ、戦地に乗り込みますか」

とおどけてくれた。

「そうね。行かなくてはね」

深呼吸を二回繰り返してアンバーはマシューを伴って会場に足を踏み入れた。すぐにヒューズ伯爵が気がついて出迎えてくれた。

「オルブライト伯爵様、ようこそ。さあ、我が家の宝をじっくりと見てください。皆が称賛してくれているところです」

「はい。ありがとうございます」

すぐ先でクリスティアンが男性と会話していた。久しぶりに見るクリスティアンにホッとして、それから右手奥の壁に目をやる。

奥の壁の四方に余白を取って春の女神が描かれていた。さまざまな色の若葉が重なり合う森の中で深い緑の髪をなびかせた春の女神が薄布をまとって歩いていた。

それは露出が多いか少ないかというくだらない関心で見たら恥ずかしくなるような絵だった。

春の女神が視線と右手を背の高い木々に向け、左手を大地の草花に向けて命を吹き込んでいた。クリスティアンが言っていた通り、女神は幸せそうな微笑みを浮かべて歩いている。すんなり伸びた手足は軽やかに動いている。

言葉もなく見惚れていると、「アンバー、来てくれたんだね!」というクリスティアンの声がした。

「ええ、遅くなって……」

振り返ったアンバーが見たのは、クリスティアンとマシューが互いの顔を見たまま固まっている様子だ。

「あら?二人は知り合いなの?」

それには答えず、マシューが小声ながらも腹の底から搾り出すような声でクリスティアンを問い詰めた。

「カーティス。お前、カーティスだよな?どういうつもりだよ。アンバー様の婚約者は元平民だと聞いてるぞ。それになんだよクリスティアンて。どういうことだよ」

クリスティアンは唇を噛んでマシューを見つめるだけだ。近くの参加者たちが興味深そうに彼らを見ている。このままでは祝いの席が台無しになってしまうだろう。急いで近寄り小声で語りかけた。

「いいのよ、クリスティアン。今ここで言いたくないことは言わなくていい。ただ、今夜はお祝いの席だから、私たちはいない方が良さそうね。またね、クリスティアン」

「アンバー……。今夜、屋敷に行くから。待ってて」

「ええ。わかったわ。素晴らしい絵を見られてよかった。じゃ、またあとでね」

アンバーはそっとクリスティアンを抱きしめて、耳元で「大丈夫。大丈夫よ」と囁き、抱擁を解いて笑顔で出口に向かった。

後ろを振り返るとマシューは怒ったような顔でついて来るし、クリスティアンは沈んだ表情だった。

(やっと彼が何者なのかわかるのだろうけど、聞きたくない気がするのはなぜかしら)