作品タイトル不明
予定表から、あなたの名前を消しました
「リディア、今夜の観劇は行けなくなった」
王太子レオンハルト殿下がそう告げたのは、午前十時の鐘が鳴り終えた直後だった。
王太子府の執務室には、朝の陽がまだ白く差し込んでいる。
夜の観劇までは、あと九時間。
間に合う。
そう判断してしまった自分に、私は小さく息を吐いた。
手元の予定表に、細い黒線を一本引く。
これで、三十九本目だった。
「セラフィーナの魔力熱が出た」
殿下はそう言って、机の上に置かれた一通の手紙を軽く叩いた。
薄い桃色の封筒。
セラフィーナ・リュミエール男爵令嬢の屋敷から届く手紙は、いつも同じ香油の匂いがする。
「医師の見立てでは命に関わるものではない。だが、彼女は不安がっているらしい。僕が行けば落ち着く」
「左様でございますか」
「だから今夜の観劇は欠席する」
「承知しました」
私は微笑んだ。
怒らなかった。
泣かなかった。
責めもしなかった。
ただ、予定表の右端に書かれていた自分の名前を、羽根ペンの先で静かになぞった。
リディア・クラウゼン。
伯爵家の長女。
王太子殿下の婚約者。
そして、王太子府儀典日程室、主任調整官代理。
私には、王太子殿下の公務日程を組み替える権限がある。
もちろん、好き勝手に決められるわけではない。
王妃陛下の委任状。
外務儀典局との連絡規定。
王太子府日程管理官の承認印。
緊急時に第二王子殿下へ代理出席を打診するための手順書。
すべて、決められた順序がある。
それでも、決められた順序を使って穴を埋めるのは、いつも私だった。
今夜は、王立劇場で隣国の大使夫妻をもてなす予定だった。
正式な晩餐会ではない。
けれど、ただの観劇でもない。
隣国大使夫妻が王都へ到着してから初めて、王族と同席する場だ。
殿下が欠席するなら、代理は第二王子殿下が妥当。
幸い、第二王子殿下は本日、午後の謁見後に王宮内待機と記されている。
警護も宮中にいる。
正装の準備も間に合う。
まずは日程管理官に起案書を回す。
同時に、王妃陛下の秘書官へ先触れを出す。
外務儀典局には、代理出席の理由を「王太子殿下、急病者見舞いのため」とぼかして伝える。
大使夫妻には王妃陛下の名で説明する。
劇場には、席札の差し替えと案内役の変更のみ。
追加で発生する人員手当と差し替え費用は、いったん王太子府儀典費から仮払いし、責任費目を未決として記録する。
未決。
その文字が、予定表の別紙にもう三十八件も並んでいることを、殿下は知らない。
花飾りについては三日前に確認済みだ。
大使夫人は強い花の香りが苦手だから、桟敷席には最初から香りの薄い白薔薇だけを入れてある。
楽団の演目は変えない。
ただし、休憩中の挨拶順だけは差し替える。
間に合う。
間に合ってしまう。
だから、いけなかったのだと思う。
「リディア」
「はい」
「そんな顔をするな」
殿下は困ったように眉を寄せた。
そんな顔。
私は一瞬、自分がどんな表情をしているのか分からなかった。
鏡を見なくても分かる。
きっと、いつも通りだ。
穏やかで、控えめで、婚約者としてふさわしい顔。
殿下の隣に立つために、何年もかけて身につけた顔。
「セラフィーナは身体が弱いんだ。君も知っているだろう」
「存じております」
「彼女の魔力熱は、昔の呪痕のせいでもある」
「はい」
「僕を庇った時の傷だ」
「存じております」
それは事実だった。
幼い頃、殿下を狙った呪具が暴走し、そばにいたセラフィーナ様が巻き込まれた。
その後遺症として、彼女は今でも魔力熱を起こすことがある。
だから、殿下が彼女を気にかける理由は分かる。
分かっている。
分かっているから、私は何度も自分に言い聞かせてきた。
彼女には事情がある。
殿下には負い目がある。
私は婚約者なのだから、支えなければならない。
王太子妃になる者なら、この程度で揺らいではならない。
そうやって、何度も。
「彼女には僕しかいない」
殿下が言った。
その言葉も、もう何度目だろう。
彼女には僕しかいない。
では、私には誰がいるのだろう。
そんな言葉が喉元まで上がって、私は飲み込んだ。
「君はしっかりしている。だから、分かってくれると思っていた」
しっかりしている。
便利な言葉だ。
だから我慢できる。
だから怒らない。
だから泣かない。
だから後回しにしても大丈夫。
しっかりしているという言葉が、いつからか、私を傷つけるための柔らかな布になっていた。
綺麗にかぶせれば、どんな扱いも見えなくなる。
「それに、君は予定を組むのが得意だろう?」
殿下は軽く笑った。
「今夜のことも、君ならどうにかできるはずだ」
「……はい」
できる。
たぶん、今夜も王宮は回る。
第二王子殿下は代理で劇場に向かい、大使夫妻は不満を隠し、新聞記者には無難な発表が出される。
外から見れば、何も起きなかったように見えるだろう。
けれど、何も起きていないわけではない。
日程管理官はまた胃薬を飲む。
外務儀典局の文官は予定外の書類に判を押す。
第二王子殿下の侍従は正装を急いで整える。
劇場の案内役は汗をかきながら席札を差し替える。
大使夫妻は笑顔の奥で、王太子の名を一段低く見る。
そして私は、全員に頭を下げる。
殿下は知らない。
いいえ。
正しくは、知ろうとしなかった。
公式の変更履歴は残っている。
承認印も、謝罪先も、費用の出所も、すべて記録にある。
けれど、その記録の間にある声は残らない。
怒りを押し殺した文官の息。
予定を崩された侍従の舌打ち。
大使夫人の目元に浮かんだ小さな失望。
私が謝るたびに少しずつ減っていった、私自身の何か。
それだけは、殿下に届かなかった。
私が、届けることを諦めていたから。
「リディア」
「はい」
「少しは僕の都合も考えてくれ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに止まった。
音はしなかった。
怒りで手が震えることもなかった。
涙がこぼれることもなかった。
叫び出したくなることもなかった。
ただ、すとん、と。
心の中に置いてあった最後の重しが、床へ落ちたような気がした。
少しは僕の都合も考えてくれ。
私は予定表に目を落とした。
そこには、殿下の予定がびっしりと書き込まれている。
謁見。
会議。
視察。
晩餐。
観劇。
慈善訪問。
外交儀礼。
その横に、小さな文字で何度も書かれている。
リディア起案。
リディア調整。
リディア代理謝罪。
リディア再確認。
リディア費用精査。
三十九本の黒線は、すべて公務欠席の記録ではない。
中には、私的な約束もある。
一緒に選ぶはずだった婚礼衣装。
王妃陛下への挨拶練習。
建国祭の打ち合わせ。
私の誕生日の昼食。
それでも、線が引かれるたびに、私は同じことをした。
殿下の都合を守り、殿下の評判を守り、殿下の未来を守った。
私の名前は、予定ではなかった。
便利な注釈だった。
殿下の人生が滞りなく進むための、余白に書かれた小さな文字。
「……殿下」
「なんだ」
「本日の観劇につきましては、規定通り、日程管理官へ代理出席の起案を提出いたします」
「ああ、頼む」
「王妃陛下へのご報告は、秘書官を通じて至急行います」
「任せる」
「外務儀典局には、王太子殿下の急病者見舞いとして説明いたします。詳細は伏せます」
「そうしてくれ」
「劇場側には、席札と案内役の変更のみを依頼します」
「細かいことは君に任せる」
細かいこと。
私は予定表を閉じた。
ぱたん、という音が、やけに大きく部屋に響いた。
殿下がわずかに目を瞬かせる。
「リディア?」
「承知いたしました。本日の件は、最後まで責任をもって処理いたします」
「……最後?」
私は立ち上がり、深く礼をした。
「はい。婚約者としても、王太子府儀典日程室の調整官としても、殿下の私的事情に伴う日程再調整を行うのは、本日で最後にいたします」
殿下は、意味が分からないという顔をした。
本当に、分かっていない顔だった。
「何を言っている?」
「明朝、日程管理官ならびに王妃陛下の秘書官へ、引継報告書を提出いたします」
「引継報告書?」
「これまで私が起案、調整、代理謝罪を行った件の一覧でございます。承認者、変更理由、謝罪先、追加費用、未決費目、関係各所からの申し入れも、規定に従って整理してございます」
殿下の表情が、そこで初めて変わった。
困惑ではない。
不機嫌でもない。
警戒だった。
「なぜ、そんなものを」
「必要になると思いましたので」
「リディア」
殿下の声が低くなった。
「それは、誰の許可を得て作った」
「王太子府儀典日程室の調整官代理として、職務上必要な記録でございます」
「僕に見せろ」
殿下が手を伸ばした。
私は一歩下がった。
「正本はまだ清書中でございます。副本はクラウゼン伯爵家の金庫にございます。明朝、正式な手順で提出いたします」
殿下の手が、空中で止まった。
彼はようやく理解したらしい。
これは、私が感情的に作った脅しではない。
王宮の手続きに乗せるための書類だ。
握り潰すには、もう遅い。
「リディア、疲れているのか? 最近、君は少し神経質だ」
「そうかもしれません」
「なら、明日は休め。僕から日程管理官に言っておく」
「ありがとうございます。ですが、その必要はございません」
「なぜだ」
「明日からは、休むかどうかも自分で決めますので」
殿下の青い瞳が、初めてわずかに揺れた。
それでも、まだ遅い。
人は、三十八本目までは我慢できるのかもしれない。
一度目は、仕方ないと思った。
二度目は、優しい人であろうとした。
三度目は、婚約者だからと自分に言い聞かせた。
十本目には、数えるのをやめようとした。
二十本目には、期待するのをやめた。
三十本目には、傷つくことに慣れた。
三十五本目の夜、私は父と母に頭を下げた。
婚約解消の申し入れ書に、署名をください、と。
父は怒った。
母は泣いた。
私は笑って、大丈夫ですと言った。
大丈夫ではなかった。
それでも、翌朝から私はその封書を鞄に入れて王宮へ通った。
今日使うつもりだったわけではない。
できれば使わずに済ませたかった。
今日こそ殿下が、私の予定を見てくれるかもしれない。
今日こそ殿下が、約束を守ってくれるかもしれない。
そんな、愚かな期待を、私はまだ捨てきれていなかった。
そして三十九本目の今日。
私はようやく、予定表から殿下の名前ではなく、自分の名前を消した。
「リディア。これは婚約者同士の話だ。そんな大げさにする必要はない」
「大げさではございません」
「僕は君を信頼している」
「はい」
「だから任せているんだ」
「はい」
「君は僕の婚約者だろう」
「はい」
その言葉だけは、少し痛かった。
でも、もう十分だった。
私は鞄から一通の封書を取り出し、机の上に置いた。
白い封筒。
クラウゼン伯爵家の封蝋。
父と母の署名入り。
三週間、毎朝鞄に入れていたもの。
殿下がそれを見下ろす。
「これは?」
「婚約解消の申し入れでございます」
空気が固まった。
窓の外で、庭師が噴水の水音を整えている。
午前の王宮は、まだ静かだった。
本来なら今日の午前は、観劇に向けた最終確認だけで済むはずだった。
午後にはドレスを整え、夕刻には大使夫妻を出迎え、夜には殿下の隣で微笑むはずだった。
淡い青のドレスを着て。
大使夫人に失礼のない話題を選んで。
殿下が言葉に詰まれば、さりげなく会話をつないで。
新聞記者には、仲睦まじい婚約者同士に見えるよう、少しだけ近い距離で。
その予定は、もうない。
「……冗談だろう」
殿下の声が低くなる。
私は首を横に振った。
「いいえ」
「セラフィーナのことで怒っているのか」
「いいえ」
「では、なぜ」
なぜ。
その問いが、少しだけおかしかった。
三十九本の黒線。
書き直された起案書。
頭を下げた回数。
眠らずに整えた予定。
約束のために選んだドレス。
着ることのなかった手袋。
冷めた紅茶。
届けられなかった言葉。
それら全部を見ないまま、殿下はまだ理由を尋ねる。
「殿下」
私は静かに言った。
「私の予定は、もう空いておりません」
殿下の顔から、余裕が消えた。
けれど、私はもうそれを慰める立場ではない。
「本日の観劇の件は、責任をもって処理いたします。代理出席の起案、王妃陛下へのご報告、外務儀典局への連絡、劇場への変更指示、すべて規定通りに行います」
私は閉じた予定表を胸に抱いた。
「それが終わりましたら、私は殿下の予定から外れます」
「リディア、待て」
「お急ぎくださいませ。セラフィーナ様がお待ちでしょう」
私はもう一度、深く礼をした。
完璧な礼だったと思う。
何年も練習した。
何度も直された。
角度も、指先も、視線の落とし方も。
殿下の婚約者として、恥ずかしくないように。
最後くらい、それを正しく使ってもいいだろう。
部屋を出る直前、殿下が私の名を呼んだ。
「リディア!」
私は足を止めた。
振り返らなかった。
「明日の朝、王宮へ黒革の予定表をお返しいたします」
「……予定表?」
「はい」
私は扉の取っ手に手をかけた。
「殿下が自由に動くために、私が書き続けてきたものです」
扉を開ける。
廊下には、朝の光が長く伸びていた。
私はその中へ、一歩踏み出す。
胸の中は、不思議なほど静かだった。
泣くのは、今ではない。
怒るのも、今ではない。
後悔するのも、きっと今ではない。
まずは日程管理官へ起案書を出す。
王妃陛下の秘書官へ先触れを送る。
外務儀典局へ説明文を回す。
第二王子殿下の侍従長へ、代理出席の可否を確認する。
劇場には席札の差し替えを依頼する。
追加費用は王太子府儀典費から仮払いし、責任費目は未決として記録する。
最後の仕事だ。
最後の尻拭いだ。
私は予定表を開き、今夜の欄に小さく書き加えた。
――王太子殿下、欠席。
――第二王子殿下、代理出席打診。
――追加費用、未決。
――リディア・クラウゼン、最終調整。
少し迷ってから、その下にもう一行だけ書いた。
――これを最後とする。
三十九本目の黒線は、もう乾いていた。
私はその横に、小さな赤い印を付けた。
終わりの印だった。