作品タイトル不明
第390話:余韻と、穏やかなお仕事タイム
「…………っ」
俺の思考回路は、完全にショートしていた。
不意打ちのキス。
そして、腕の中から聞こえてきた真っ直ぐな言葉。
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音がうるさいくらいに跳ね上がっているのがわかる。
「あ、あのっ! そ、そろそろ寝ようかっ! うん! 明日も学校あるしねっ!」
自分の大胆な行動にハッと我に返ったのか。
凛は限界まで顔を真っ赤に染めると、俺の腕の中からパッと立ち上がり、バタバタと慌てた様子で寝室へと向かっていった。
一人リビングのローソファに残された俺は、そっと自分の唇に指を触れた。
ふんわりと柔らかかった感触と、至近距離で香ったホワイトサボンの香りが、脳裏に焼き付いて離れない。
「……やっぱり、心臓に悪いな」
俺は熱くなった顔を両手で覆い、大きく、長く深呼吸をしてから、凛の待つ寝室へと向かった。
そっとドアを開けると、ベッドの上の布団がこんもりと丸く膨らんでいた。
頭のてっぺんまで布団を被り、ミノムシのようになっている凛。
「……凛、息苦しくないか?」
「く、苦しくないです……。もう寝ます……」
俺が床に自分の布団を敷きながら声をかけると、ベッドの上のミノムシがモゾモゾと動いた。
どうやら、自分からあんなことをしておいて、恥ずかしさでいっぱいいっぱいになっているらしい。
「……そっか」
俺は自分の布団に入り、部屋の明かりを消した。
静寂の中、お互いの息遣いだけが聞こえる。
しかし、このまま素直に寝かせてあげるのは、なんだか少しだけ悔しかった。
俺は音を立てないようにそっと布団から抜け出し、ベッドの横に立った。
暗闇に目が慣れてくると、布団を少しだけ下げて、目をギュッと瞑っている凛の顔が見えた。
「……えっ?」
気配に気づいて目を開けた凛の、その前髪をそっと指先で退ける。
そして、彼女の白いおでこに、チュッと、優しく唇を落とした。
「……おやすみ、凛」
「〜〜〜〜っ!」
暗闇の中でもわかるくらい、凛の顔が一瞬で茹でダコのように真っ赤に染まるのがわかった。
俺は小さく笑い、今度こそ自分の布団へと戻る。
唇とおでこに残る柔らかな感触。
胸を甘く締め付けるその余韻に浸りながら、俺たちは高鳴る心臓の音を抱えたまま、穏やかな眠りについたのだった。
翌日、火曜日の放課後。
学校ではいつものように過ごし、一緒にアパートへと帰宅した。
「ふぅ……。今日はイラストのノルマがあるから、お仕事進めないと」
「お疲れ。じゃあ、今日の晩ご飯はすぐ食べられるやつにするな」
制服から部屋着に着替える凛を横目に、俺はエプロンを身につけ、キッチンに立った。
冷蔵庫から取り出したのは、昨日の『豚バラと白菜のミルフィーユ鍋』の残りだ。
土鍋の底には、豚肉の濃厚な脂の旨味と、白菜から出た野菜の甘みがたっぷりと溶け込んだスープが残っている。
「これを火にかけて……」
グツグツと煮立ってきたところに、買い置きしてある『冷凍うどん』を二玉そのまま投入する。
スープがうどんにしっかりと絡むように十分ほど煮込み、仕上げに半熟卵と刻みネギを落とせば完成だ。
パパッと作れて、洗い物も少ない。
「凛ー、ご飯できたぞ」
「わぁっ! すっごくいい匂い!」
リビングのテーブルに熱々の土鍋を置くと、凛が目を輝かせて席に着いた。
取り鉢にうどんを取り分け、昨日の残りのポン酢を少しだけ垂らす。
「いただきます」
「いただきます!」
ズズッ、と熱々のうどんを啜る。
「……ん〜〜〜っ! 美味しいっ!!」
凛が両手で頬を押さえ、たまらないという顔で声を上げた。
「お出汁が! 昨日のお鍋の旨味が、うどんに全部染み込んでるよ!」
「豚肉のコクと白菜の甘みが凝縮されてるからな。そこにポン酢の酸味が少し加わって、最後まで飽きずに食べられるんだ」
「この半熟卵も最高……! トロトロの黄身がうどんに絡んで、まろやかさがアップしてる!」
冷凍うどんを入れただけの簡単なメニューだが、ベースのスープが仕上がっているため美味い。
俺たちはフーフーと息を吹きかけながら、あっという間に絶品の〆うどんを平らげたのだった。
食後。
俺たちは昨日届いたばかりのアイボリー色のローソファへと移動した。
俺が腰を下ろすと、凛も当然のようにトコトコとついてきて、くるりと背を向けて俺の足の間にすっぽりと収まった。
「……んっ」と小さく息を吐きながら、俺の胸板に体重を預けてくる。
「……よし」
凛は膝の上に液晶ペンタブレットを置くと、スッと真剣な表情に切り替わり、イラストのラフ画を描き始めた。
ペンが走る音だけが、静かな部屋に響く。
学校で見せる『氷の令嬢』のような凛とした横顔だが、その背中は俺の胸に完全に体重を預けきっている。
彼女の作業の邪魔にならないよう、俺も凛の肩越しに腕を伸ばすような体勢で、自分のスマホを取り出した。
画面を開き、最近立ち上げたばかりの料理動画チャンネルの通知を確認する。
まだ始めたばかりで再生回数も少なく、知る人ぞ知るような状態だが、この間投稿したオムライスの動画に、新しいコメントが二つ届いていた。
『手際が良くて、見てて気持ちいいです』
『次の動画を待ってます』
「……よし」
こういう純粋な反応をもらえるのは、やっぱり嬉しい。
俺は一つ一つのコメントに、感謝の気持ちを込めて丁寧にお礼の返信を打ち込んでいった。
俺の両腕の中には、一生懸命に絵を描いている凛がいる。
彼女の少し低めの体温と、俺の体温が混ざり合い、まるで一つの毛布に包まっているかのように心地よい。
一時間ほど集中して作業を続けていた凛が、「……ふぅ」と小さく息を吐き、ペンを持っていた手を止めた。
そのままコテン、と後ろに頭を倒し、俺の肩に体重をかけてくる。
「お疲れ。いいペースで進んでるか?」
「うん。朝陽くんソファのおかげで、すっごく集中できたよ」
「そりゃよかった。」
俺はスマホの画面を、俺の胸に寄りかかっている凛の方へと傾けて見せた。
「ほら、この間のオムライスの動画。嬉しいコメントがついてたんだ」
「わぁっ! ほんとだ、『手際が良くて気持ちいい』って!」
凛は自分のことのようにパァッと顔を輝かせ、スマホの画面をジッと見つめた。
「朝陽くんのお料理が褒められてるの、私まで嬉しくなっちゃうな。……でも」
「ん?」
「画面越しに見てるだけじゃ、このご飯の本当の美味しさはわからないもんね。朝陽くんの美味しい手料理を毎日食べられるのは、私だけの特権だ」
そう言って、凛は俺の腕にギュッと自分の両腕を絡ませ、嬉しそうに微笑んだ。
「……ははっ。とっくにそのつもりだよ。俺のご飯を一番美味しそうに食べてくれるのは、凛だけだからな」
「えへへ……うんっ」
お互いの背中とお腹越しに体温を感じ合いながら、俺の腕の中で甘える彼女の頭を、優しく撫でる。
ただ同じ空間で、くっつきながら、それぞれのやるべきことをする。
そこにあるのは、穏やかで甘い、満たされた日常の多幸感だった。