作品タイトル不明
第346話:帰省予定と、過去の上書き
「お待たせ、朝陽くん。準備できたよ」
朝食の片付けを終え、リビングで出かける準備を整えていた俺は、寝室から出てきた凛の姿を見て、思わず言葉を失った。
「……っ」
「ど、どうかな……? 変じゃない……?」
少しだけ照れくさそうに、凛が自分の服の裾をそっとつまむ。
普段のお出かけの時は、ダッフルコートに膝丈のスカートといった、可愛らしい服装が多い彼女。
だが、今日の凛は少し違った。
体に程よくフィットする淡いブルーのニットワンピースに、上品なノーカラーの白いコートを羽織っている。
大人っぽく『キレイめ』にまとめられたその服装は、彼女の透き通るような白い肌と凛とした美貌を、これでもかというほど引き立てていた。
「いや、全然変じゃない。……というか、すごく綺麗だ。めちゃくちゃ似合ってる」
俺が誤魔化すことなく素直に褒めると、凛はパァッと顔を輝かせ、耳の先までほんのりと赤く染めた。
「ほんと? えへへ、よかった……。今日は朝陽くんと遠出のお買い物だから、ちょっとだけ背伸びしてみたの」
「そっか。……でも、あんまり見つめると俺の理性がまた危ないから、そろそろ出発しようぜ」
「あははっ、なにそれー」
嬉しそうに笑う凛と一緒に、俺たちは戸締まりをして部屋を出た。
市場のある海沿いの街までは、電車でしばらく揺られることになる。
年末ということもあってか、車内は帰省用の大きなキャリーケースを持った家族連れなどで少しだけ混み合っていた。
俺たちは運良く座れた横並びのシートで、ガタン、ゴトンという心地よい揺れを感じながら、とりとめのない会話を交わしていた。
「年末年始はどうするか、決めた?」
不意に、凛が俺の顔を下から覗き込むようにして尋ねてきた。
「ああ、帰省のことか」
俺は少しだけ視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……おばさん夫婦には、顔を見せに行きたいって気持ちはあるんだけどな。……ちょっと、迷ってる」
「……」
俺が両親を事故で亡くしたのは、小学校から中学校に上がるタイミングだった。
その後、親戚であるおばさん夫婦に引き取られて中学時代を過ごしたわけだが――その頃の記憶は、俺にとって決して明るいものではない。
両親がいないというどうしようもない理由で理不尽ないじめに遭い、自己肯定感はどん底まで落ちていた。
全てが嫌になって、息をするのすら苦しくて。
ある日、おばさんの家の風呂場で、自ら命を絶とうとした。
俺の左腕の、肘の裏側。
そこには今でも、その時に自分でつけた傷跡が薄く残っている。
幸いにも早く帰ってきたおばさんに発見され、命をとりとめた。
二人には本当に心から感謝している。
けれど、一人暮らしを始めた今でも、あの家に帰ると当時の息苦しい記憶や、絶望に支配されていたお風呂場の光景を思い出してしまうのだ。
「……どうしても、あの家に入ると、色んなことを思い出して足がすくんじゃうんだよな」
無理に笑ってごまかそうとした俺の左手を、隣に座っていた凛が、両手でそっと包み込んだ。
傷跡のある左腕を、まるで宝物を扱うかのように優しく、大切に撫でてくれる。
「……朝陽くん」
「あ……ごめん、せっかくのデートなのに、暗い話をして」
「ううん。謝らないで」
凛は俺の顔を真っ直ぐに見つめ、信じられないくらい優しく、温かい声で言った。
「私、朝陽くんの帰省について行きたいな」
「えっ……? 凛が?」
「うん。夏休みにご挨拶したきりだし、おばさんたちにもまたお会いしたいし……それに、私、朝陽くんの過去のこと、もっと知りたい」
凛の小さな手が、俺の指の間に自分の指を滑り込ませ、ギュッと強く握りしめる。
彼女の体温が、俺の心の奥底にある冷たくて暗い塊を、ゆっくりと溶かしていくのがわかった。
「……私と一緒に帰って、あのお家での楽しい思い出、新しく作ろう? 朝陽くんの悲しい記憶、私が全部、上書きしてあげる」
「……凛」
「朝陽くんは、私が世界で一番大好きな、かっこよくて優しい自慢の彼氏だよ。だから、もう一人で悲しい顔しないで」
凛の言葉が、じんわりと、けれど確かな熱を持って俺の心に染み込んでくる。
あの日からずっと抱えていた、拭いきれないトラウマも、彼女の圧倒的な愛情と肯定が、全てを優しく包み込んで肯定してくれたような気がした。
「……ああ。そうだな」
俺は繋がれた手に力を込め返し、ようやく心の底から自然に笑うことができた。
「凛が一緒に来てくれるなら、あのお風呂場も、ただの『凛とお風呂掃除した場所』に上書きできそうだ。……じゃあ、1月3日に、1泊で帰ろうか」
「うんっ!」
俺は空いている方の手でスマホを取り出し、おばさんにメッセージを打った。
『1月3日、凛と一緒に1泊で帰るよ』
送信ボタンを押して数秒後。
すぐに『既読』がつき、画面に『本当に!? 準備して待ってるね!!』という文字とともに、キャラクターが嬉し泣きしながらバンザイをしているスタンプが送られてきた。
「ふふっ、おばさん、すっごく喜んでるね」
「ああ。……帰ったら、美味い飯でも作って恩返ししないとな」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
窓の外には、冬の澄んだ空と、少しずつ近づいてくる青い海が見え始めていた。過去の暗い記憶はもう、隣で微笑む彼女の温もりで、すっかり見えなくなっていた。