軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第341話:仕事納めのご褒美と、市場への誘い

時刻は午後15時。

両手いっぱいの買い物袋を提げてマンションに帰ってきた俺は、手を洗うなり、休む間もなくすぐにキッチンに立った。

「よし、やるか」

買ってきたばかりの大量の食材を冷蔵庫に押し込み、大根をまな板に乗せる。

今日の晩飯は、朝からずっと決めていた。

一年の仕事を終える凛への『お疲れ様』の意味も込めた、特製の豪華おでんだ。

分厚く輪切りにした大根の皮を厚めに剥き、面取りをして、十字に隠し包丁を入れる。

それからお米のとぎ汁で、竹串がスッと通るまで下茹でする。

牛すじもアクを取りながら丁寧に下処理をして、串に刺していく。

下準備が終わったら、大きな土鍋の出番だ。

たっぷりの昆布と鰹節で引いた黄金色の一番出汁に、醤油、みりん、酒、塩で味を調える。

そこに大根、牛すじ、こんにゃく、ゆで卵を沈め、弱火でコトコトと煮込み始めた。

部屋中に、湯気と一緒に上品なお出汁の香りがふわりと広がっていく。

「……そろそろ、糖分補給の時間だな」

おでんを煮込んでいる間、俺は買ってきたショートケーキを小皿に移し、温かい紅茶と一緒にトレイに乗せて、凛が作業をしている部屋へと向かった。

コンコン、と軽くノックをしてドアを開ける。

「凛、差し入れ持ってきたぞ」

「……あ、朝陽くん……」

液晶タブレットに向かってペンを走らせていた凛が、肩越しにこちらを振り返る。

ブルーライトカット眼鏡の奥の瞳は少し疲労が滲んでいたが、トレイの上のケーキを見た瞬間、パァッと明るい色を取り戻した。

「わぁ、ショートケーキ! ありがとう……っ、ちょうど甘いものが欲しかったところなの」

「ラストスパート、頑張れよ。……って、おい」

ケーキをデスクの端に置いた瞬間だった。

凛がペンを置き、なぜか俺の着ている服の袖口あたりに顔を近づけて、ふんす、ふんすと鼻をヒクつかせたのだ。

「……凛?」

「……朝陽くん。なんか、すっごくいい匂いがする」

「いい匂い?」

「うん。……お出汁の匂い。もしかして、今日のご飯っておでん?」

上目遣いで尋ねてくるその姿は、まるで晩ご飯の匂いを嗅ぎつけた食いしん坊の子犬みたいだった。

「お前、犬並みの嗅覚だな……。今キッチンで仕込んでる最中だ」

「やったぁっ! 朝陽くんのおでん、大好き! よーし、これで後少し頑張れる!」

おでんの存在を知り、途端にモチベーションを爆上げさせてタブレットに向かい直す凛。

その単純でわかりやすい背中に小さく笑いながら、俺は「頑張れよ」と声をかけて部屋を後にした。

午後17時過ぎ。

俺がリビングで洗濯物を畳んでいると、バタン、と勢いよくドアが開いた。

「……おわったぁぁー……!」

フラフラと覚束ない足取りでリビングに現れた凛は、そのまま俺の背中にドスッと寄りかかり、腕を回して抱きついてきた。

「お、おい。危ないな」

「今年のお仕事、ぜんぶ終わったよぉ……朝陽くん、褒めてぇ……」

「ははっ、お疲れ様。よく頑張ったな」

俺は背中にしがみつく凛の腕を軽くポンポンと叩いてやる。

そのまましばらくの間、凛は俺の背中に顔を擦り付けて、足りなくなっていた『彼氏成分』を充電するようにじっとしていた。

「よし、じゃあご褒美の晩飯にするか。体も冷えてるだろ」

俺が立ち上がってキッチンに向かうと、凛もパタパタとスリッパを鳴らして後をついてくる。

ダイニングテーブルの真ん中にカセットコンロを置き、その上に、数時間じっくりと煮込んだ大きな土鍋を鎮座させた。

「開けるぞ」

蓋を持ち上げると、ブワッと白い湯気が立ち上り、食欲を強烈に刺激する鰹出汁の香りが部屋いっぱいに充満した。

「わぁ……っ!」

透き通るようなお出汁の中で、具材たちがコトコトと音を立てている。

お出汁を限界まで吸い込んで、美しい飴色に染まった特大の大根。

ホロホロになるまで煮込まれた牛すじ串。

つるんとした玉子に、パンパンに膨らんだもち巾着と厚揚げ。

「ほら、まずは大根からだ」

「ありがとう! いただきますっ!」

取り皿によそってやると、凛はすぐにお箸を伸ばした。

飴色の大根に箸を当てると、力を入れずとも、まるでゼリーのようにスッと綺麗に切れる。

フーフーと息を吹きかけてから、パクリと口に運ぶ。

「……んんぅ〜っ!」

凛は両手で頬を押さえ、目をギュッと瞑って天を仰いだ。

「美味しい……っ! 噛んだ瞬間、中から甘いお出汁がジュワッて溢れてくる……大根もとろとろで、すっごく染みてるぅ……!」

「牛すじも柔らかくなってるはずだぞ」

「んっ……ほんとだ、お口の中でホロホロ崩れる! 脂の甘みがお出汁に溶け出してて、最高……!」

はふはふと熱そうに吐息を漏らしながら、次々と具材を口に運んでいく。

その無防備で幸せそうな顔を見ているだけで、数時間前から仕込んでおいた苦労なんて一瞬で吹き飛んでしまう。

「あ、そうだ。凛」

「ひゃい?」

もち巾着を頬張ってリスのように頬を膨らませている凛に、俺は熱燗の代わりの温かいほうじ茶を啜りながら切り出した。

「明後日の28日のことなんだけどさ。前々から行きたかった『市場』に一緒に行きたいんだけど、いいかな?」

「市場? 全然いいけど……何か買いたいものあるの?」

「29日、みんなで集まって焼肉するだろ? その時、肉だけじゃなくて、市場で新鮮なエビとかホタテとか買ったら絶対に美味いだろうなって思ってさ」

「……っ!!」

俺の提案を聞いた瞬間、凛の瞳がこれ以上ないほどキラキラと輝きを放った。

「確かに! 大きなホタテ……お醤油をちょっと垂らして……絶対、絶対に美味しいやつだ!」

「だろ? だから、28日は買い出しがてら、市場で美味しい海鮮丼でも食おうぜ」

「行く行く! 絶対行く!」

こうして、28日の市場デートと買い出しの予定が、あっさりと(そして食欲に釣られる形で)確定した。

食後。

順番にお風呂に入り、一年の疲れと汚れをすっきりと洗い流す。

「ふぅ……」

俺が脱衣所で髪を乾かし終え、リビングに戻ると。

そこには、パジャマ姿のままソファに横たわり、完全に意識を手放している凛の姿があった。

「凛?……って、完全に寝てるな」

近づいて覗き込むと、スヤスヤと規則正しい寝息が聞こえてくる。

今年最後の大きな仕事を終えた安心感と、お腹いっぱいおでんを食べた満腹感、そしてお風呂の温かさが重なって、完全に限界を迎えてしまったらしい。

(ここで寝たら風邪引くっての……)

小さくため息をつきつつも、その無防備な寝顔がどうしようもなく愛おしい。

俺は彼女を起こさないように、そっと膝の裏と背中に腕を差し入れた。

「……よいしょっと」

そのまま静かに持ち上げる。

いわゆる『お姫様抱っこ』の体勢だ。

想像以上に軽い彼女の体を腕の中に収めると、ほんのりとシャンプーの甘い匂いが香ってきた。

「んぅ……あさひ、くん……?」

「ああ、俺だ。そのまま寝てていいぞ」

寝ぼけて首に腕を回してくる凛を抱えたまま、ゆっくりと寝室へ向かう。

ベッドにそっと下ろし、肩口までしっかりと羽毛布団をかけてやる。

「今年はよく頑張ったな。……おやすみ、凛」

俺は彼女のサラサラな前髪を優しく撫で、その心地よさそうな寝顔をしばらく見守ってから、静かに部屋の明かりを落とした。