作品タイトル不明
第329話:掴んだ腕と、知らないお姫様
(……盗撮か?)
俺の左腕のすぐ外側から、凛のスカートの裾へとスッと伸びてきたスマートフォンの黒いレンズ。
それが何を意味しているのか理解した瞬間、俺の頭の中で何かが弾け飛んだ。
全身の血が沸騰したように熱くなり、心臓が怒りでドクン、と大きく跳ねる。
大切な彼女を、あんな卑劣な目で、あんな汚い手で傷つけようとしているヤツがいる。
「——この、痴漢っ」
大声でそう叫び、男の腕を捻り上げようと息を大きく吸い込んだ。
だが、その声が喉から出るコンマ1秒前。
俺の脳裏に、最悪のシミュレーションがフラッシュバックした。
ここで俺が叫べば、当然車内は大騒ぎになる。
次の駅で男を引きずり降ろし、駅員室へ行き、警察を呼んで事情聴取を受けることになるだろう。
犯人を捕まえることはできる。だが……その間、凛はどうなる?
被害者として怖い思いをさせ、何度も状況を説明させられ、周囲の好奇の目に晒される。
そして何より、今日というクリスマスのための特別なデートが、最悪の思い出として上書きされてしまうのだ。
(だめだ。……それだけは、絶対にだめだ)
怒りに任せてはいけない。俺の最優先事項は、犯人を罰することじゃない。
腕の中にいる凛の笑顔を、今日一日、絶対に曇らせないことだ。
俺は吸い込んだ息をグッと飲み込み、瞬時に思考を切り替えた。
「——っ」
「あさひ、くん……?」
俺は咄嗟に体を捻り、自分が着ている長めのチェスターコートの裾をバサリと広げた。
そして、凛の体をすっぽりと自分の懐に引き寄せ、コートの生地で彼女の背中から足元までを完全に覆い隠したのだ。
そのまま、空いた左手を素早く下へ伸ばす。
男がちょうどカメラのシャッターを切ろうとしたその瞬間、俺は『スマホを握った男の手首』を、万力のような力でガシッと掴み取った。
「ヒッ……!?」
男が、小さく息を呑む気配がした。
俺はコートで凛を完全に隠したまま、首だけを僅かに動かして、横にいる男を見下ろした。
(……これ以上、1ミリでも動いてみろ。どうなるか分かってるな?)
言葉には出さない。だが、俺の目には確実に『殺意』に近い怒りがこもっていたはずだ。
俺の顔を見上げた中年男は、手首をギリギリと締め上げられる激痛と、一切の感情を消した俺の冷たい眼差しに完全に怯えきり、顔面を蒼白にしてガクガクと震え始めた。
「んぅ……っ。朝陽くん?」
俺の胸の奥から、くぐもった凛の声が聞こえた。
怒りを抑え込んでいるせいで、無意識のうちに抱きしめる腕に強い力が入ってしまっていたのだ。
「……っ、ごめん」
「ううんっ」
俺が慌てて少しだけ腕の力を緩めると、凛は俺のコートの中でフルフルと首を横に振った。
「ちょっとだけ痛かったけど……朝陽くんにこんなにぎゅーってされてるの、すごく……幸せ」
「凛……」
「朝陽くんの心臓、すっごく早く動いてるね。……えへへ、私と同じだ」
真っ赤に染まった耳までまで熱を帯びていて、凛がこのハプニングに一切気づかず、むしろ密着イベントとして受け取ってくれていることが分かった。
(……ああ、よかった。本当に、よかった)
俺は心底ホッと息を吐き、コートごと彼女の背中を優しく撫でた。
いつか、笑い話にできる日が来たら「実はあの時な」と教えてやってもいいかもしれない。
でも、今日だけはこのまま、何も知らないお姫様でいてほしい。
『次は〜、〇〇(ショッピングモール最寄り駅)〜』
無機質な車内アナウンスが流れ、電車のスピードが落ちていく。
ドアが開くと同時、俺が左手の力をスッと緩めると、男は逃げるようにしてホームの人混みへと消えていった。
「わぁ……っ! すごい、朝陽くん見て!」
電車を降りて駅の改札を抜けると、そこはすっかりクリスマス一色の別世界だった。
大型ショッピングモールの巨大な吹き抜けには、天井まで届きそうな大きなクリスマスツリーが飾られ、赤やゴールドのオーナメントがキラキラと眩い光を放っている。
どこからともなく流れてくるマライア・キャリーのBGMが、嫌が応にもホリデーシーズンの高揚感を煽ってきた。
「すごいな。平日なのに、結構人も多いし」
「うんっ! もうすっかりクリスマスだね!」
さっきまでの満員電車での出来事など微塵も感じさせない、太陽のように無邪気な笑顔。
その顔を見られただけで、俺の心に少しだけ残っていたモヤモヤも、綺麗な冬の空気と一緒に浄化されていくようだった。
「さて、と。それじゃあ雑貨屋から回るか」
「うんっ! 行こ、朝陽く……あっ」
歩き出そうとした凛の前に、俺はスッと右手を差し出した。
「ほら、朝の約束」
「えっ?」
「階段じゃなくても、今日は一日中、しっかり手繋いでおくんだろ。……人が多くて、はぐれたら危ないしな」
色々な意味を含んだ俺の言葉に、凛は一瞬だけパチクリと瞬きをした後。
これ以上ないほど花が咲いたような笑顔になり、俺の右手を、両手で包み込むようにギュッと握りしめてきた。
「……うんっ! 絶対に、離さないでね」
俺のチェスターコートのポケットに、繋いだ手を二人で突っ込む。
ポケットの中の温もりと、隣を歩く彼女の弾むような足取りを感じながら、俺たちはペアグッズを探すために、きらびやかなモールの中へと足を踏み入れたのだった。