作品タイトル不明
第319話:メニュー表の裏と、味のわからないパスタ
(……やばい。生きた心地がしない)
アンティーク調の落ち着いたカフェの片隅。
俺は自分の顔をすっぽりと覆い隠すようにメニュー表を掲げ、息を殺していた。
すぐ前のテーブル席には、凛と、そのご両親、そしておばあちゃんが座っている。
目の前に来ている料理に集中できない。
赤ワインでじっくり煮込まれた深いコクのある香りと、炒めた粗挽き肉とニンニクの暴力的なほどに食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
たっぷりと削られた粉チーズが、熱々のパスタの上でとろりと溶けかけていて、間違いなく絶品だ。
今の俺にはそれを優雅に味わう余裕なんて微塵もなかった。
(くっ……美味い! めちゃくちゃ美味いけど、音を立てられない……!)
ズズッとすするなんてもってのほかだ。
俺はフォークでパスタを小さく巻き取り、周囲を警戒しながら、ハムスターのように無音で口に運んでいくという「隠密食い」を強いられていた。
「美味しいわね、この紅茶。……で、どうなの? お隣の『専属シェフ』さんとは」
ビクッ!?
背後から聞こえてきたお母さんの直球すぎる質問に、俺は危うくミートソースを喉に詰まらせそうになった。
「えっ……と、どうって……普通に、仲良くしてるよ」
「普通に、ねぇ? ご飯作ってもらうだけじゃなくて、ちゃんと恋人らしいことしてるの?」
「し、してるよ! 一緒にテレビ見たり……その、クリスマスも、予定あるし……」
少し慌てたように弁解する凛の声を、お母さんとおばあちゃんがクスッと笑う。
「……お父さんは、まだ完全に安心したわけじゃないからな」
低い、お父さんの声。俺の背筋に冷たい汗が伝う。
(やっぱり、どこの馬の骨ともわからない高校生が隣にいるなんて、お父さんからしたら心配だよな……)
「高校生が料理できるくらいで、うちの娘を任せられるか……と、最初は複雑だったんだがな」
「お父さん……」
「でも、この間久々に帰ってきた凛がすごく健康そうで、何より、毎日楽しそうに笑うようになった。……だから、お父さんは二人のこと、ちゃんと応援してるぞ」
少し寂しそうに、でも、とても温かいお父さんの声。
(お、お父さん……! ありがとうございます!!)
俺はメニュー表の裏で、パスタを咀嚼しながら心の中で全力の土下座をした。
「……うん。ありがとう、お父さん」
家族の温かい言葉に安心したのか、凛の声のトーンが少しだけ柔らかくなった。
「あのね、朝陽くんはただご飯が美味しいだけじゃないんだよ」
「ほう?」
「私が締め切りで余裕がない時も、何も言わずに温かいココアを淹れてくれたり、徹夜明けには消化にいいものを作ってくれたり……。私のイラストの仕事を、誰よりも気にしてくれて、一番近くで応援してくれてるの」
「……そうか」
「朝陽くんが隣にいてくれるから、私、仕事も頑張れるし……毎日すっごく幸せなんだよ」
ドサッ。
俺は手からメニュー表を落としそうになった。
(〜〜〜〜〜っ!?)
家族の前でだけ見せる、素直で、甘えん坊な凛の声。
それが鼓膜を直接揺らし、俺の顔は一瞬にして茹でダコのように真っ赤に沸騰した。
ミートソースの味なんて、もう全く分からない。嬉しさと気恥ずかしさで、心臓が肋骨を突き破って飛び出しそうだった。
「ふふっ、ごちそうさま。……ところで、おじいちゃんには、彼のこといつ話すの?」
お母さんが、ふと話題を変えた。
すると、今日のお昼ご飯を実家で一緒に食べていたおばあ様が、ふふっと思い出し笑いをするように口を開いた。
「今日のお昼もね、おじいさんったら『帰りの電車で親切にしてくれた若者』の話をして、ああいう男と結婚しろなんて言ってたのよ」とおばあちゃんが笑う。「だから、朝陽くんみたいな礼儀正しくて優しい子に会わせれば、案外コロッと気に入るかもしれないわよ?」
家族の冗談めかした、明るい提案。
しかし、凛は真っ直ぐな、真剣な声で答えた。
「ううん、今はまだ秘密にしておいて。私、逃げずに……おじいちゃんとちゃんともう一度話をしてから、『私を支えてくれてる大切な人です』って、自分の口から紹介したいから」
「……そうだな。それがいい。焦ることはないさ」
凛の強い決意に、お父さんたちが優しく頷く気配がした。
俺はフォークを握りしめ、ギュッと唇を噛む。
(凛……お前ってやつは……!)
「さて、じゃあおじいちゃんが待ってるし、そろそろ帰ろうか」
椅子が引かれ、四人が立ち上がる気配がした。
俺は再びサッと壁の方を向き、存在感を極限まで消す。
「ごちそうさまでした」
凛たち一家が、俺の背後を通り過ぎて出口へと向かっていく。
(よし、バレてない……このままやり過ごせ……)
そう思って、ホッと息を吐こうとした瞬間だった。
「あらあら」
ふと、歩みを止めたおばあ様が、俺のテーブルのすぐ横で立ち止まった。
俺がビクッとして僅かに視線を上げると……。
バッチリ、目が合った。
おばあ様は、メニュー表で顔を隠している俺を見て、悪戯っぽくふふっと微笑み、自分の口元に人差し指を当てて「内緒ね」というように小さくウインクをした。
(えっ……!? バ、バレてるぅぅ!?)
「おばあちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもないわよ。さ、行きましょうか」
カラン、とドアのベルが鳴り、一家は店を出て行った。
静かになった店内で、俺は「ふぅぅぅ……っ」と限界まで我慢していた息を吐き出し、テーブルに突っ伏した。
ピコン。
その時、ポケットに入っていたスマホが小さく震えた。
画面を見ると、以前アパートで挨拶した時に万が一の連絡用として交換していた、おばあ様らのLINEだった。
『隠れんぼ、お疲れ様。ミートソース、お洋服に飛ばさないようにね。――凛のこと、これからもよろしく頼むわね』
「……っ」
俺はスマホの画面を見つめ、それから、隣の席に残る凛の甘い香水の残り香を感じながら、オルゴールの入った紙袋を強く握りしめた。
お父さんの言葉。凛の決意。おばあ様の優しさ。
「……よし」
冷めかけた食後のコーヒーを飲み干し、俺は気合を入れ直した。
明日の夜は、お前が大好きな特製デミグラスハンバーグだ。絶対に、世界一美味く作ってやる。
お前の仕事も、おじいちゃんへの報告も、全部俺が全力で支えてやるからな。
俺は彼氏としての覚悟を新たに、彼女の生まれ育った街を後にするのだった。