作品タイトル不明
第312話:初投稿と、駅の改札
木曜日の夜。
俺の飯作り忘れ事件というちょっとしたハプニングから30分後。
201号室のリビングには、カセットコンロの上でぐつぐつと湯気を立てる土鍋が鎮座していた。
「お待たせ! 急いで作ったから、こないだも食べた『豚肉と白菜のミルフィーユ鍋』なんだけど……ごめん、今日はちょっと手抜きで勘弁してくれ!」
俺が手を合わせて謝ると、凛はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「ううん、手抜きだなんてとんでもない! すっごくお腹空いてたし、お出汁のいい匂いがして最高だよ!」
凛はポン酢の入った取り皿を受け取ると、「いただきますっ!」と満面の笑みで熱々の具材を頬張った。
「はふっ、はむっ……んん〜っ!」
一口食べた瞬間、凛の瞳がパァッと輝く。
「白菜が甘いっ! 豚肉の旨味とお出汁をしっかり吸ってて、ポン酢の酸味とすっごく合うよ! 私、朝陽くんの作るこのお鍋大好きだから、何度でも食べたいくらい!」
「ははっ、お前がそう言ってくれると助かるよ。よし、冷めないうちにどんどん食おうぜ」
「こないだも食べた」という申し訳なさをあっさりと吹き飛ばしてくれる彼女の無邪気な笑顔に、俺はホッと胸を撫で下ろしながら、二人で熱々のお鍋を綺麗に平らげた。
食後、いつものようにお風呂とマッサージをこなし、時刻は22時過ぎ。
金曜の夕方から実家へ帰省する凛は、自分の部屋(202号室)でボストンバッグに着替えなどを詰める荷造りに入っていた。
女の子の荷造りなので、俺が口出しすることはない。
自室に残った俺はPCに向かい、完成したばかりの『基本の豚の生姜焼き』の本編動画と、そのハイライトを繋いだショート動画の最終確認を行っていた。
「よし……。明日の金曜日、お昼の12時に……公開っと」
動画投稿サイトの管理画面から、予約投稿のボタンをクリックする。
凛が描いてくれた最高のアイコンとヘッダー画像もバッチリ設定されている。これで準備は全て整った。
お互いにやるべきことを終え、俺たちはそれぞれの部屋ですんなりと眠りについた。
そして翌日、金曜日の朝。
「おはよう、朝陽くん」
「ああ、おはよう。今日のおかずは鮭のハラスの塩焼きだぞ」
いつも通り、凛が201号室にやってきて、二人で並んで朝食のテーブルにつく。
炊きたての白いご飯に、ふっくらと焼き上がった塩鮭。そして、出汁の効いた豆腐とワカメの温かいお味噌汁。
「いただきますっ……んっ、美味しい。朝陽くんのお味噌汁、ホッとするなぁ」
「そうか? ならよかった」
美味しそうに目を細めてご飯を頬張る凛の姿を眺めながら、俺はふと、心の中に小さな隙間風が吹くのを感じた。
(……明日と明後日の朝は、こうやって凛がご飯を食べに来ることはないんだな)
頭ではわかっていたことだが、いざ当日の朝を迎えると、想像以上に寂しさが込み上げてくる。
とはいえ、凛にとっては久しぶりの家族との時間なのだ。
俺が変に寂しがって、彼女を気落ちさせるわけにはいかない。
ここは彼氏として、笑顔で気持ちよく送り出してやろうと心に決めた。
朝食を終え、食器を片付けて、お互いの部屋で学校の制服に着替える。
「忘れ物ないか? 」
俺が玄関から出て、鍵をかけた、その時だった。
「……朝陽くん」
背後から声がして、振り返った瞬間。
とふっ、と。柔らかな感触と、甘いシャンプーの香りが俺の胸に飛び込んできた。
「……えっ、凛?」
「……ぎゅーっ」
凛は俺の胸に顔を埋め、両腕で俺の背中を力強く、それはもう力強く抱きしめてきた。
「ちょ、どうしたんだよ急に」
「……だって。たった二日だけど、朝陽くんと離れるの、やっぱり寂しいから」
胸元から聞こえてくる、少しだけくぐもった、いじらしい声。
その言葉に、俺の中で無理に抑え込んでいた寂しさのストッパーがあっさりと弾け飛んだ。
俺は苦笑いをこぼし、凛の背中に腕を回して、その華奢な身体を優しく抱きしめ返した。
「……俺も、寂しいよ。でも、久しぶりの実家なんだから、ちゃんとおばあちゃんたちに顔見せてこいよ」
「うんっ……。朝陽くんの匂い、しっかりチャージしていくね。すぅぅぅぅ……」
「お前なぁ、吸いすぎだっての」
玄関先での、長くて熱いハグ。
互いの体温をしっかりと確かめ合ってから、俺たちは少しだけ照れくさそうに笑い合い、並んでマンションを出発した。
そして、お昼休み。
いつものように、中庭の隅にあるベンチで、俺、凛、大輝、寺田さん、佐藤さんの五人で集まってお弁当を食べていた時のことだ。
「あっ……」
凛がスマホの画面を見つめながら、弾んだ声を上げた。
俺のチャンネルに、記念すべき第一弾の動画が無事に公開された。
大輝たちがすぐさまスマホを取り出し、俺のチャンネルを開く。
「おおっ! 更新されてる! すげぇ、マジでYouTuberじゃん!」
「うわー、このショート動画、テンポよくてすっごく見やすい! 生姜焼きの匂いがしてきそう!」
「アイコンのイラストも可愛いよね。温かみがあって、瀬戸くんのチャンネルの雰囲気にぴったりだよ」
友人たちがその場で動画を再生し、口々に絶賛してくれる。
俺は少し照れくさく思いながらも、自分の作ったものが誰かの目に触れ、反応をもらえるという初めての感覚に、胸が熱くなるのを感じていた。
再生数のカウンターが、『0』から『1』へ。そして『5』『10』と、ゆっくりだが確実に増えていく。
「ふふっ、やったね、朝陽くん!」
「ああ。みんなのおかげだよ。……もちろん、凛のイラストもな」
俺が小声で伝えると、凛はパァッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
こうして、俺の動画投稿者としての小さな一歩は、大切な友人たちの温かい言葉と共に、無事に踏み出されたのだった。
放課後。
俺たちは二人で一緒にアパートへ帰り、それぞれの部屋に戻った。
数十分後。
201号室のドアがノックされ、凛が顔を出した。
制服から、少し大人っぽくて動きやすい秋物の私服に着替え、右手にはパンパンに詰まったボストンバッグを持っている。
「朝陽くん、それじゃあ……行ってくるね」
「ああ。……ちょっと待て、そのバッグ結構重いだろ。駅の改札まで送るよ」
「えっ、いいの?」
「当然だろ。ほら、貸してみろ」
俺は凛の手からボストンバッグを受け取り、二人でマンションの階段を下りた。
夕暮れ時の街を、最寄り駅へ向かって歩く。
いつもなら「今日の晩飯は何にしようか」と話しながら帰る道だが、今は少しだけ空気が違う。
でも、その少しの寂しさすらも、二日後にまた会えるという約束があるからこそ、心地よいスパイスに感じられた。
駅に到着し、改札口の前に立つ。
俺は持っていたボストンバッグを凛に手渡した。
「ほら。気をつけて帰れよ。おばあ様にもよろしくな」
「うんっ、ありがとう、朝陽くん」
ボストンバッグを受け取った凛は、少しだけ名残惜しそうに俺の顔を見つめた後、ピッと交通系ICカードをタッチして改札を通り抜けた。
数歩歩いてから、彼女はくるりと振り返り、俺に向かって大きく手を振った。
「日曜日の夕方には帰ってくるからね! またね、朝陽くん!」
その笑顔は、学校で見せる『氷の令嬢』の作り笑いでもなく、イラストレーター『FUYU』の真剣な顔でもない。
俺だけが知っている、年相応で無邪気な、世界で一番可愛い笑顔だった。
「ああ、気をつけてな。いってらっしゃい!」
俺も大きく手を振り返す。
凛の小さな背中が駅の人混みに紛れて見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くし、温かい余韻に浸りながら見送るのだった。