作品タイトル不明
第180話:両思いの夜と、甘えん坊
キッチンで俺の胸に顔を押し付けたまま、凛はポロポロと涙をこぼし続けていた。
その震える肩を見て、胸が痛む。せっかく彼女が勇気を出して想いを伝えてくれたのに、すぐに「付き合う」と決断できなかった俺の不甲斐なさのせいだ。
「ごめんな……」
彼女の背中に回した手に少しだけ力を込めて、ぽつりと謝った。
「俺が自信ないせいで、すぐ決断できなくて。不安にさせて、泣かせて……本当にごめん」
すると、凛は俺の胸に額をぐりぐりと押し付けながら、勢いよく首を横に振った。
「ううん……違うのっ」
しゃくりあげながら、彼女は俺の体操服の胸元をぎゅっと握りしめた。
「付き合えないのが悲しくて泣いてるんじゃないの。……朝陽くんも、私のこと好きって言ってくれて……両思いなんだって分かったのが、すっごく嬉しくて。それで……っ」
その言葉に、どうしようもないほどの愛おしさを感じた。
俺はただ黙って、彼女が泣き止むまでその頭を優しく撫で続けることしかできなかった。
ひとしきり泣いた後。
凛はようやく落ち着きを取り戻し、赤くなった目元をこすりながら体を離した。
「落ち着いたか?」
「うん……ごめんね、体操服、涙で濡らしちゃった」
照れくさそうに笑う顔は、今まで見てきたどんな表情よりも無防備だった。
「別にいいよ、すぐ洗うし。……とりあえず、リビングで少し休もう。今日はずっと気を張ってて疲れただろ」
「うんっ」
二人でキッチンを離れ、いつものソファへと腰を下ろす。
隣に座った凛は、まだ少し鼻をすすりながらも、どこかスッキリとしたようないたずらっぽい笑みを浮かべて俺を見上げてきた。
「ねえ、朝陽くん」
「ん?」
「朝陽くんが、私のこと好きだって分かったから……私、もう遠慮しないからね」
「……はい?」
間抜けな声を漏らす俺を見て、凛はふふっと楽しそうに目を細めた。
「今までずっと、片思いだったから我慢してたけど。お互い好きだって分かった以上、これからはもっとガンガンいくから。……朝陽くん、覚悟しててね?」
大胆な宣言に、思わず言葉に詰まる。
今までは「俺なんか」という自己評価の低さがあったから平常心を保てていたが、もうその言い訳は通用しないらしい。
「ほら、早速」
宣言した次の瞬間、凛はソファの上で俺にすり寄ってくると、俺の左腕にぴたっと体を密着させ、そのまま肩にこてんと頭を乗せてきた。
普段から家ではぽてぽてと甘えてくるあいつだが、両思いだと自覚した途端、その密着具合にはどこか確かな熱がこもっているように感じる。
そして、凛の小さな両手が、俺の左腕をそっと包み込んだ。
彼女の指先が、服越しに俺の左腕を優しく撫でる。
そこには、過去の愚かな自分が残した、決して消えない傷跡がある。
「……凛」
少しだけ体を強張らせると、凛は俺の左腕をさらにぎゅっと抱きしめ、傷跡のあたりにそっと頬をすり寄せた。
「……朝陽くんが、生きててくれて、私と出会ってくれて……本当によかった」
ぽつりとこぼれた言葉と、伝わってくる温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
俺の消えない過去ごと受け入れてくれる愛情に、これ以上突き放すことなんてできなかった。
「……ああ。俺もだよ」
顔が熱くなるのを感じながら、俺は右手を伸ばし、彼女の頭を不器用に撫でた。
「えへへ……朝陽くん、あったかい」
気持ちよさそうに目を閉じる凛を見て、俺はただ小さく息を吐き、静かにその温もりを受け入れた。
夜も更け、お風呂上がりのいつものルーティン。
体育祭で疲れた体をほぐすため、俺の部屋のラグの上で、凛のマッサージをしてやっていた。
「ん……そこ、すっごく気持ちいい……」
「今日はずっと走り回ってたからな。筋肉痛にならないように、しっかりほぐしとくから」
丁寧に脚や肩を揉みほぐしてやると、凛はとろんとした顔でうなずいた。
マッサージを終えると、凛は自分の部屋である202号室へと戻っていく。
俺も後を追い、彼女がベッドに潜り込むのを見届けてから、いつものように頭をポンポンと撫でた。
「じゃあな、おやすみ。また明日」
そう言って立ち上がり、部屋を出ようとした瞬間――凛が、布団の中から手を伸ばし、俺の袖をきゅっと掴んだ。
「ん? どうした?」
「……もう少しだけ」
凛は俺の腕を軽く引くと、俺の手のひらを両手で包み込み、自分の頬にすりすりと押し当ててきた。
「お、おいっ……」
「ねえ、朝陽くん。……もう少しだけ、こうしてて」
上目遣いで見つめられる。
ベッドに横たわる無防備な姿と、手のひらに伝わる温かい頬の感触。
頭の中でけたたましく警報が鳴り響く。
「……っ、凛、お前なぁ……」
「ふふっ。朝陽くん、顔真っ赤。……私のこと、意識してる?」
「当たり前だろ! 意識しすぎてるから困ってんだよ!」
耐えきれずに言い返すと、凛は嬉しそうにくすくすと笑った。
「えへへ。じゃあ、今日はこれくらいにしてあげる。……おやすみなさい」
俺は「お、おやすみ!」と半ば逃げるように言い捨て、足早に彼女の部屋を後にした。
バタン、と自分の部屋のドアを閉めて、俺は深くため息をついた。
(……あいつ、本当に遠慮がないな……)
心臓がバクバクと鳴り止まない。自分の理性がこの先どこまで保つのか、本気で不安になってきた。
ベッドに潜り込み、暗闇の中で天井を見つめる。
(告白…されたんだよな……。)
窓の外からは、秋の虫の音だけが聞こえてくる。
壁一枚隔てた向こう側にいる彼女のことを思う。
少し前までは、この距離がとてつもなく遠く感じていたのに、今は全く違う。
(明日から、また新しい毎日が始まるんだな)
彼女の隣に堂々と立てる男になるための毎日。
その道のりは簡単ではないだろうけど、左腕に残る温もりを思い出すと、心は不思議と穏やかだった。
俺はゆっくりと目を閉じ、長く疲れた、けれど最高に幸せだった体育祭の夜の眠りについた。