作品タイトル不明
第163話:決意のブレと、氷の令嬢の猛攻
「……ダメだな、俺。サポーターに徹するって決めたばっかりなのに」
201号室に戻った俺は、キッチンのシンクで米を研ぎながら、小さく息を吐き出した。
明日の朝食の準備をしながらも、頭の中は先ほどの彼女の言葉でいっぱいだった。
『私、朝陽くんのこと、本当に立派だと思うよ。すごく尊敬してる』
真っ直ぐに俺を見つめて紡がれた、淀みのない称賛。
俺はただ、彼女が倒れないようにサポーターとして当たり前のことをやっているだけだ。
……それなのに、あんな風に言われてしまったら。
こんな俺でも、少しはあいつの役に立てているのかなって、どうしようもなく救われたような気持ちになってしまう。
(あいつには、他に好きな奴がいるんだ。俺はサポーターとして、あいつの恋の邪魔にならないように身を引くって決めたじゃないか……)
そう自分に言い聞かせるのに、凛の頭を撫でた右手の感触がまだ残っていて、胸の奥がじんわりと温かい。
線を引こうとしているのに、彼女の言葉ひとつで簡単に心が揺らいでしまう。
これじゃあ、いつまで経っても諦めがつく気がしない。
ザルに米を上げながら、俺はバシャッと冷たい水で顔を洗い、無理やり思考を一時停止させた。
翌朝。
俺は早起きして、定番の和朝食(焼き鮭と出汁巻き卵、ほうれん草の胡麻和え)を作っていた。
焼き鮭のいい匂いが部屋に漂い始めた頃、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「おはよう、朝陽くん」
振り返る間もなく、俺の背中に『こつん』と柔らかいものが触れた。
部屋着姿の凛が、俺の背中に額を押し付けるようにして、そっと腰に両腕を回してきたのだ。
「っ……!? おい、凛! だから火を使ってる時は危ないって昨日も言っただろ」
「えへへ、朝の充電……ぎゅーっ」
俺の注意を完全にスルーして、凛は俺の背中に顔をすりすりと押し付けてくる。
昨日、俺は確かに彼女に「男に対して無防備すぎる」と忠告したはずだ。
それなのに、警戒するどころか、今まで以上の勢いで甘えてきている気がする。
(好きな奴がいるのに、なんでこんなに隙だらけなんだ……!)
パニックになる頭で必死に引き剥がそうとするが、彼女は「んーん」と首を横に振って絶対に離れようとしない。
結局、火を止めるまでの数分間、俺は彼女の温もりを背中に感じたまま料理を続ける羽目になった。
「……ほら、できたぞ。席についてくれ」
「はーい」
お皿をテーブルに並べ、俺も席につこうとした、その時だった。
いつもなら向かい合わせの席に座るはずの凛が、なぜか俺の椅子のすぐ『隣』に自分の椅子を移動させて座ったのだ。
「……あの、冬月さん。なんで隣?」
「ん? たまには隣で食べたいなーと思って」
ニコニコと微笑む凛との距離は、肩が触れ合いそうなほどに近い。
シャンプーの甘い香りがダイレクトに鼻腔をくすぐり、俺の心拍数は朝から限界を突破しそうだった。
「いただきます。……んっ、今日の卵焼きもすっごく美味しい!」
「そ、そうか。そりゃよかった」
俺が動揺を隠しながら鮭をほぐしていると、隣から「あーん」と小さな声が聞こえた。
見れば、凛が自分の箸で卵焼きをつまみ、俺の口元へと差し出している。
「……は?」
「あーん」
「いや、俺も自分で食べられるし」
「だーめ。私が食べさせてあげたいの。ほら、あーん」
潤んだ瞳で見つめられ、俺は抗えずにパクリと卵焼きを口に入れた。
「……ん。美味い」
「えへへ、でしょ? じゃあ次、私にもあーんして?」
今度は彼女が、口を小さく開けて待機している。
「いやいやいや! それはサポーターの業務外だろ!」
「私の精神安定と、今日の体育祭練習のモチベーションのために必要だから、立派な業務内です!」
謎の理論で論破してくる凛。
俺は真っ赤になった顔を手で覆いながら、結局彼女の口に鮭の身を運んでやるしかなかった。
線を引くどころか、完全に彼女のペースに巻き込まれている。
そんな波乱の朝食を終え、俺たちはいつも通り時間をずらして登校した。
二時間目の休み時間。
俺が次の授業のために移動教室へ向かって廊下を歩いていると、前方から見慣れた黒髪の少女が歩いてきた。
周囲の生徒たちが「相変わらず綺麗だな」「でも声かけられないオーラ出てる」と囁く、『氷の令嬢』モードの凛だ。
俺はいつものように、目を合わせず、他人のフリをしてすれ違おうとした。
だが、二人がすれ違う、ほんの一瞬。
「――午後からの練習、頑張ってね」
彼女の唇が微かに動き、俺の耳元にだけ届くような、甘くて小さな声が囁かれた。
そして彼女は、何事もなかったかのように氷の仮面を被ったまま、颯爽と通り過ぎていく。
「っ……!?」
周りの生徒たちは、誰も今の囁きに気づいていない。
俺だけが、廊下の真ん中で顔にカッと血を上らせて、その場に立ち尽くしていた。
振り返って彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は激しく脈打つ心臓のあたりを右手で強く押さえた。
引いたはずの境界線を、彼女はまるで存在しないかのように、あっさりと飛び越えてくる。
彼女の真意が分からないまま、俺はただ翻弄され続けるしかなかった。