軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「グレタと呼ぶことにしました」

山羊の名前を考えてやってくれ、とヨナスは言った。

それは第四夜の、夕食の後のことだった。火のそばで、ヨナスが無言で木を削っていた。何を作っているのか訊いても「そのうち分かる」としか答えない男だった。

「あの子は、グレタという名前では」

「それは、角が折れてる方だ」

「……他にもいるのですか」

「二頭目がいる。白いやつ。去年の冬に生まれて、まだ名前がない」

ヨナスは手元から目を離さずに言った。

「俺は、名前をつけるのが下手なんだ。『白いやつ』『灰色の』『角折れ』——それで通してきた。グレタだけは、マルタ婆さんが勝手につけた」

私は、少しだけ笑った。

この村に来て、四日目にして初めて、意識して笑ったと思う。

「では、私が考えてもよろしいのですか」

「ああ」

「責任重大ですね」

「山羊は、名前の良し悪しで機嫌を変えたりはしない」

「でも、名付ける人間の方は、変わります」

ヨナスの手が、一瞬止まった。

けれど彼は何も言わず、また木を削り始めた。

翌朝、私は山羊小屋へ向かった。

白い山羊は、思ったよりも小さかった。生後一年近いはずなのに、痩せている。母山羊が冬に死んで、グレタに育てられたのだとマルタ婆さんが教えてくれた。

「あのグレタがねえ、乳も出ないのに、この子の面倒を見たんだよ。性悪なくせに、情の深い山羊さ」

白い山羊は、私の差し出した手に鼻を擦りつけた。柔らかい。

その時、背後から小さな足音がした。

「ねえさん、なにしてるの」

振り返ると、十二歳くらいの少年が立っていた。

汚れた麻の服。赤茶の髪。そばかすだらけの頬に、真っ直ぐな目。

——戦災孤児のヤンだった、と私はヨナスから聞いていた名前を思い出す。三年前、隣の村が魔獣に襲われて家族を失い、この廃村に流れ着いた少年。

「名前を、考えているの」

「山羊の?」

「ええ」

「ぼくも考えていい?」

「ぜひ」

ヤンは目を輝かせた。それから、真剣な顔で白い山羊を見つめた。

「……もふ」

「もふ?」

「ふわふわしてるから。もふ」

私は、今度こそ声を出して笑ってしまった。

笑いながら、気付いたら涙が滲んでいた。

「……とても、いい名前だわ」

「じゃあ、もふにする?」

「ええ。もふにしましょう」

ヤンは満面の笑みで、白い山羊に「もふ! もふ!」と呼びかけた。

白い山羊は——もふは、きょとんとした顔でヤンを見上げていた。

その日の午後、私はマルタ婆さんに頼んで、針と糸を借りた。

ヤンの服の袖口が、ひどく擦り切れていたのが気になっていた。継ぎ当てる布はなかったけれど、私の手元にはまだ、昨日まで着ていた裂けたドレスがあった。絹の切れ端。もう着ることもないけれど、捨てるには惜しい布。

私はそれを細く裁ち、ヤンの袖口に、フランス刺繍の技法で縁取った。

——十二年の家庭教師が、最後に教えてくれた技術だった。貴族令嬢の嗜みとして。まさかこんな場所で役に立つとは、私も家庭教師も、想像していなかったはずだ。

刺繍が終わる頃、日が傾いていた。

「ねえさん、それなに?」

ヤンが覗き込んでくる。

「あなたの服よ。勝手にごめんなさい。気に入らなかったら解くから」

ヤンは、袖口の白い刺繍を見つめた。繊細な蔦の模様と、小さな星。貴婦人のハンカチのような繊細さ。それが、粗末な麻の服の袖口に、妙に美しく収まっていた。

ヤンは、しばらく何も言わなかった。

それから、急に私に抱きついてきた。

「……ねえさん、すごい」

小さな体が、私の胸元に埋まっていた。

私は、どう返していいか分からなかった。誰かに抱きつかれた経験が、私にはなかった。十二年の家庭教師は、私に抱擁の作法も教えてくれなかった。

だから私は、自分の手で、ヤンの背中を、ぎこちなく、一度だけ撫でた。

その夜、小屋の前に見知らぬ馬車が止まった。

行商人だった。

赤ら顔の、小太りの男で、月に一度だけこの廃村まで塩や針や糸を運んでくる男だとヨナスが説明した。

「ヨナスさん、今月は何を売ってくれるんで?」

「山羊のチーズと、薬草が少し」

「おっ、マルタ婆さんの薬草茶はあるかい? あれは王都の婆さま方に評判でね」

「一袋だけだ」

行商人は、マルタ婆さんの編んだ小さな麻袋を受け取り、中身を少し手に取って嗅いだ。

その瞬間、男の顔色が変わった。

「……これは」

「?」

「いや、今月のは、特別に香りがいい。誰が摘んだんで?」

マルタ婆さんが、私を指差した。

私は昼間、マルタ婆さんに教わりながら、畑の脇の薬草を摘んで、初めて乾燥させたばかりだった。

「嬢ちゃん、あんた」

行商人は、私をしげしげと見た。

値踏みするような目ではなかった。もっと別の、職人が職人を見るような目。

「今度、もっと摘めるかい? 倍の値段で買う」

「……倍?」

「この香りは、王都じゃ滅多に出ない。土か、摘み方か、何かが違う。——これは、売れる」

男はそう言って、いつもの倍の銅貨をヨナスに渡して去っていった。

私は、ぼんやりとヨナスを見た。

ヨナスも、ぼんやりと私を見ていた。

「……エルナ」

「はい」

「あんた、薬草の才能があるのかもしれん」

「……魔力は、ないのですが」

「魔力と、才能は、別物だ」

ヨナスは、そう言って、ふい、と目を逸らした。

けれどその日の夜、彼が削っていた木片は、なぜか、小さな薬草入れの木箱の形をしていた。