軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六話 依頼主の意思が最優先だ

「宰相閣下がお戻りを望んでいます」

その言葉が、商会の入り口に響いた。

朝の事務所。帳簿を広げかけた手が、止まる。

入り口に立っているのは、見覚えのある男だった。

ハインツ・ベッカー。宰相府の副官。三十代半ばの、実務に長けた官吏。十年間、同じ建物で働いていた相手だ。

顔を見た瞬間、胃の底が冷たくなった。

「……お久しぶりです、ハインツ殿」

「ナディア──失礼、ナディア殿。お元気そうで何よりです」

奥方様、と言いかけて飲み込んだのが見えた。離縁は成立済みだ。もうその呼び方はできない。

ハインツは事務所の中を一瞥した。小さな机、帳簿の山、壁際の椅子に座る大きな男。整った顔に浮かぶのは、微かな憐れみだった。

「単刀直入に申し上げます。宰相閣下が、あなたのお戻りを望んでおられます。公爵夫人としての身分と待遇は、これまで以上に保証いたします」

これまで以上に。

(──十年間の仕事に対する感謝ではなく、待遇の保証、ですか)

口を開きかけた、その時だった。

椅子が軋む音がした。

ヴォルフが立ち上がっていた。

ハインツとナディアの間に、大きな背中が割り込んだ。壁際の椅子から入り口まで、三歩。その三歩で、空気が変わった。

「依頼主の意思が最優先だ」

低い声。

「帰れ」

ハインツの目が見開かれた。

ヴォルフの顔には、表情がない。声にも、怒りの色はない。ただ、事実を述べているだけだ。依頼主が望んでいない者は、帰れ。それだけ。

なのに──ハインツが半歩退がった。

「……護衛の方ですか。しかし、これは宰相閣下からの──」

「ナディア殿の意思を聞いてからにしろ」

ヴォルフが道を空けた。

ハインツの視線が、私に戻る。

立ち上がった。

「ハインツ殿。お伝えください」

声が震えないように、背筋を伸ばした。宰相府で十年間、何百回もやってきたように。

「私はもう宰相夫人ではありません。二度と、あの家には戻りません」

はっきりと。一語ずつ。

「ルシアン──宰相閣下にお伝えください。離縁は成立しております。法的にも、私個人の意思としても。これ以上のお申し出は、お断りいたします」

ハインツの顔に、一瞬──何かが走った。

苛立ち、ではない。不快、でもない。もっと複雑な何かだ。唇の端が微かに歪んで、すぐに戻った。

「……承知いたしました。お伝えします」

ハインツは形式的に頭を下げ、踵を返した。

最後に一度だけ振り返り、事務所の中を──ヴォルフの背中と、私の顔を──じっと見てから、出ていった。

扉が閉まった。

足から、力が抜けた。

椅子に座り直そうとして、膝が笑った。机の端を掴んで体を支える。

手が、震えている。

さっきまで完璧に制御していたはずの体が、使者がいなくなった途端に崩れた。

──怖かった。

認めたくないが、怖かった。あの紋章を見た時、あの声を聞いた時、一度目の人生の記憶が蘇りかけた。追い出された日。泣いて縋った日。石畳の冷たさ。

今回は違う。今回は、自分から出た。自分の意思で、自分の準備で。

なのに体は覚えている。あの恐怖を。

「……ナディア殿」

ヴォルフの声がした。

顔を上げると、灰色の瞳がこちらを見ていた。何も聞かない。「大丈夫か」とも言わない。

代わりに、茶を差し出された。

湯気が立っている。

いつ淹れたのだろう。使者が帰る前から準備していたのだろうか。

カップを受け取った。

両手で包む。温かい。指先の震えが、少しずつ治まっていく。

「……ありがとうございます」

「茶菓子もいるか」

「…………はい」

ヴォルフが紙包みを開いて、焼きリンゴのタルトを一つ、皿に載せた。

その動作が妙に丁寧で──おかしくなって、少しだけ笑ってしまった。

震える手で、タルトをひと口かじった。

甘かった。

泣きそうなくらい、甘かった。

夜になった。

帳簿を閉じて、蝋燭の灯りだけが残った事務所で、私はまだ机に向かっていた。仕事はもう終わっている。ただ、宿に帰る気になれなかった。

ヴォルフが壁際の椅子に座っている。帰らないのかと聞いたら「鍵がかかるまで」とだけ答えた。

沈黙が流れた。

嫌な沈黙ではない。潮騒が窓の外から聞こえている。蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れている。

「ヴォルフさん」

「ああ」

「少しだけ、聞いてもらっていいですか」

「…………」

ヴォルフは何も言わなかった。

聞いている、という意味の沈黙だった。

「一度、深く傷ついたことがあるんです」

言葉を選んだ。前世の記憶のことは言えない。でも、嘘は言いたくない。

「愛されていると思っていた人に、捨てられました。すべてを捧げて、すべてを失って、何もかも終わったと思った」

蝋燭の炎が揺れた。

「だから……もう、誰かのために自分を犠牲にすることが怖いんです。また同じことになるんじゃないかと思ってしまう」

言葉にしてみると、思ったよりも軽かった。

ずっと胸の底に沈めていたものを、少しだけ水面に上げただけ。全部は出さない。出せない。

でも、この人になら──少しだけなら。

沈黙が、しばらく続いた。

ヴォルフが口を開いた。

「あんたは間違ってない」

短い。いつも通り短い。

「捨てた方が間違ってる。それだけだ」

それだけ。

本当にそれだけだった。

慰めでも、励ましでも、説教でもない。事実の確認。あんたは間違っていない。捨てた方が悪い。

──十年間、誰にも言ってもらえなかった言葉だった。

目の奥が熱くなった。

泣かない。ここでは泣かない。

「……ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない」

花の時と、同じ言葉だった。

ヴォルフが帰った後、一人で蝋燭の灯りを見つめていた。

机の端の硝子の瓶に、白い花がまだ咲いている。もう二週間になるのに、しぶとく持っている。

──エドムント前公爵が動くだろう。

ルシアンが使者を出して断られたなら、次はあの人が出てくる。ナディアを「公爵家の嫁」として、つまり「公爵家の資産」として取り戻そうとする。

あの人にとって、私は「便利な嫁」だった。有能で、文句を言わず、息子の仕事を黙って支える装置。装置が壊れたら、修理するか回収するか。

そういう人だ。

でも、もう装置ではない。

蝋燭を吹き消して、立ち上がった。

明日も、商会を開ける。

それだけが、今の私の仕事だ。