軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十六話 全部背負うな

教えるというのは、やるよりも難しい。

商人連合の規約草案を書きながら、それを痛感していた。

朝。机の上に書きかけの書類を広げて、クルトとエルマを呼んだ。

「今日は、この草案を一緒に作ります」

クルトが目を丸くした。エルマは静かに頷く。

「条約の読み方から始めます。第七条の本文を見てください。ここに書いてある減免措置は南方航路だけが対象ですが、附則を見ると」

「附則ってのは、この下の小さい字ですか」

「はい。条約の本文が『原則』で、附則が『例外』です。本文だけ読んで満足する人が多いですが、本当に大事なのは例外の方です」

クルトがペンを握った。ペンの握り方が独特だった。人差し指と中指の間に挟んで、親指で支える。剣を握る時の手の形に似ている。騎士の体が、ペンの握り方にまで出ている。

「つまり、条文の裏を読めってことですね」

「裏、というよりは」

言いかけて止まった。

自分でやった方が早い。附則の引用箇所を指差して「ここがこう」と説明するより、自分で書いた方が正確で、速い。

……いや、それは昨夜の話で決めたはずだ。

「裏というよりは、条文が言っていないことを読む、という方が近いです。書いてあることは誰でも読める。書いていないことを読むのが、仕事です」

クルトが、ペンの先を紙に当てた。附則の一行目をなぞりながら、口の中で条文を読んでいる。

遅い。私の三倍は時間がかかっている。

(OJTと呼ぶんだったか、こういうの。実務を通じて教える研修……)

前世の言葉が顔を出す。

エルマは隣の机で、説明資料の下書きを始めていた。こちらは黙々と書く。質問が少ない代わりに、出来上がったものを見ると八割方正しい。残りの二割を修正すれば使える。

「姐さん」

クルトが顔を上げた。

「この附則の『準用』って、元の条文と同じルールを別の場所にも使えるって意味ですか」

「はい。そうです」

「だったら、東方航路だけじゃなくて、北方航路にも使えませんか。カルデアとの協定があるなら」

手が止まった。

それは。私がまだ検討していなかった視点だ。

「……調べてみましょう」

クルトが少しだけ笑った。あの波止場で「姐さん」と呼んだ時と同じ、まっすぐな笑い方。

この子が育てば、私がいなくても回る。

安堵、だと思った。でも安堵の底に、薄い影が一枚ある。私がいなくても回るということは、私がいなくてもいいということでもある。

……考えすぎだ。窓の外を見た。五月の港が、午後の光に白く光っている。

夕方。郵便の中に、見覚えのある封蝋が混じっていた。

ヴェルトハイム公爵家の個人紋。藍色のインクで書かれた宛名。ルシアンの字だ。

十年間、毎日見ていた筆跡。でも以前の手紙とは違うものがある。字の勢いが穏やかだ。宰相時代の鋭い走り書きではない。

封を切った。

内容は簡潔だった。公爵として港町の経済状況を把握している。「鉄の輪」の進出についても聞き及んでいる。助力の用意がある。

身勝手な要求は一行もなかった。「戻ってこい」も「仕事が回らない」もない。

追伸が添えてあった。

『一度、話がしたい。今度は、他人としてではなく。』

他人としてではなく。

懐かしい、のだろうか。いや、懐かしさとも違う。あの食堂で向かい合っていた十年間の記憶は、もう痛みではない。かといって温もりでもない。ただそこにあったという事実。

手紙を書類ファイルにしまった。返事は書く。でも今日ではない。

帰り支度をしていたら、鞄の中に見覚えのないものが入っていた。

干し肉。

紙に包まれた、塩気の強い牛の干し肉。いつもヴォルフが食べている店のものだ。

「……入れた覚えがないんですけど」

首を傾げながら、一切れちぎって口に入れた。塩辛い。でも歩きながら食べるにはちょうどいい。昼を食べ損ねていたのだ。

(まあ、朝に入れて忘れたのかしら)

忘れるはずがない。そもそもあの店で干し肉を買ったことは一度もない。

でも、そのまま食べた。

事務所に戻ると、ヴォルフがテオを膝に乗せて座っていた。窓越しに、私が干し肉を食べながら歩いてくるのが見えたのだろう。視線を外した。

何も聞かない。

「ヴォルフ」

「ああ」

「ヴェルトハイム公爵家の……ヴェルトハイム公から手紙が来ました。港町に来たいそうです」

「ああ」

「それと、商人連合の書類。クルトが半分書いてくれました」

「……そうか」

声の温度が少し変わった気がした。

「全部背負うな」

「……知ってます」

テオがヴォルフの外套の裾を引っ張っている。

「知ってます。だから悩めるんです」

ヴォルフが顔を上げた。

「前は悩む余裕もなかったので。全部一人でやるしかなかったから。今は、あなたがいて、クルトがいて、エルマがいて。だから……どこまで手放していいのか、悩める」

贅沢な悩みだ。宰相府にいた頃の私が聞いたら笑うだろう。

ヴォルフは何も言わなかった。

代わりに、テオを抱き上げて立った。台所に向かう背中。後頭部の付け根のあたりの髪が少し跳ねている。朝、寝癖を直し忘れたのだ。

この人は、私が悩んでいる時に答えを出さない。ただ隣にいる。

それがどれほどのことか、十年前の私は知らなかった。