軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話 あの方の仕事ぶりを知っているから

「宰相府ではなく、あなたと取引したいのです」

その言葉に、私は思わず瞬きをした。

商会を開いて二週間。事務所の椅子に座る時間より、商談で走り回る時間の方が長い日々だ。

目の前に座っているのは、リーデル商会の主人。宰相府の外交案件で何度もやり取りをした相手だ。白髪交じりの壮年の商人が、穏やかな目でこちらを見ている。

「宰相府との取引は打ち切りました。これからはナディア様の商会と直接お取引させていただきたい」

「……それは、ありがたいお話ですが」

戸惑いが先に立つ。

宰相府との取引を切るということは、公爵家の後ろ盾を失うということだ。商人にとって小さな決断ではない。

「なぜ、わざわざ」

リーデル氏は少し笑った。

「あの方の仕事ぶりを知っているからですよ」

あの方、と言って、私を指差した。

「南方の香辛料が港で二週間止まった時、夜中に関税の特例書類を手配してくださったのはどなたでしたか。宰相閣下ではありません。あなたです」

覚えている。あれは結婚五年目の冬だった。ルシアンは議会答弁の準備で書斎に籠もっていて、私が代わりに対応した。

「我々は宰相府の紋章と取引していたのではない。ナディア様という人間と取引していたのです」

鼻の奥がつんとした。

泣かない。ここで泣いたら、商談にならない。

「ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」

深く頭を下げた。頭を下げながら、こっそり目元を指で拭った。

この日だけで、同じような申し出が三件あった。

同じ日の午後、教会経由で持参金返還の金貨二百枚が届いた。

帳簿に記入する手が、少し震えた。

金貨百五十枚の私的蓄えに加えて、二百枚。これで商会の運転資金は十分に確保できる。仕入れの幅も広がる。従業員を雇う余裕もできるかもしれない。

(資金計画、第二段階クリア)

十年がかりの退職計画は、今のところ予定通りに進んでいる。

──ただ。

二週間前に届いた宰相府の封蝋の手紙のことが、少し引っかかっていた。あの後、意を決して開けてみたら、差出人不明。中身は遠回しな圧力──「商会の届出状況について確認したい」という、役人めいた文面だった。宰相府の誰かが、私の動向を気にしている。

考えても仕方がない。

今は、目の前の帳簿だ。

気がつくと、深夜だった。

蝋燭が短くなっている。机の上には帳簿が三冊、広げたまま。リーデル商会との取引条件、南方航路の運賃比較、関税の計算書──。

……いつの間にか、宰相府にいた頃と同じことをしている。

夜中まで一人で数字と向き合って、誰にも気づかれず、朝になったらまた笑顔で人に会う。

ふいに、視界の端が暗くなった。

冬の路地裏。

石畳の冷たさ。息が白い。体が動かない。

誰もいない。

誰も、来ない。

──一度目の私は、こうやって死んだのだ。

追い出されて、行く場所を失って、お金もなく、寒さの中で倒れて。最後に見たのは、灰色の空だった。曇りだったのか、夕方だったのか、もう覚えていない。覚えているのは、冷たかったということだけ。

指先が震えた。

帳簿の数字が滲んで見える。

今は違う。今回は、違うのだ。

お金はある。居場所もある。計画通りに進んでいる。

──でも。

一人だということは、変わらない。

そのまま、机に突っ伏した。

蝋燭が、じじ、と音を立てて揺れた。

目を覚ましたのは、肩に温もりを感じたからだった。

毛布。

薄い灰色の、少し毛羽立った毛布が、私の肩にかけられている。

顔を上げると、机の端に紙包みが置いてあった。焼きリンゴのタルトが一つ。まだほんのり温かい。

事務所の隅に目をやると──

ヴォルフが壁に背をもたれて座っていた。

外套を肩にかけたまま、目を閉じている。眠っているのかと思ったが、私が身じろぎした途端、灰色の瞳がすっと開いた。

「……起きたか」

「ヴォルフさん、ここに泊まって……?」

「鍵がかかってなかった」

それだけ言って、立ち上がる。

立ち上がる時、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、彼の視線が机の上の帳簿の山に向いた。

そしてわずかに、眉をひそめた。

何かを思い出したような、懐かしいような。そんな表情が、鉄板のような顔の上を通り過ぎて──すぐに消えた。

「……何か?」

「いや」

ヴォルフは窓を開けて、朝の潮風を入れた。

毛布には、まだ体温が残っていた。

私はタルトをひと口かじった。

甘い。昨夜の冷たさが、少しだけ遠くなった。

(……今回は、一人じゃない。のかもしれない)

それから。

午前中、港の市場に買い出しに行ったついでに、家具屋に寄った。

背もたれの高い、肘掛けつきの椅子。

座面が広くて、長時間座っても膝に負担がかかりにくいもの。

事務所に戻って、ヴォルフがいつも壁際に立っている場所に置いた。

「……何だ、これ」

「椅子です。立ちっぱなしだと膝に良くないでしょう」

ヴォルフが、少し目を見開いた。

鉄板が動いた。

「……気づいてたのか」

「護衛を雇う面接の時から」

ヴォルフは椅子を見下ろし、それからゆっくりと腰を下ろした。ぎしり、と木が軋む。大きな体には少し小さいかもしれない。

でも、座ったまま、しばらく動かなかった。

「……悪いな」

「いいえ。護衛に倒れられたら困りますので」

業務上の配慮です、という顔をした。

そういうことにしておいた方が、たぶん、お互いに楽だ。

夕方。

ヴォルフが事務所の入り口から郵便を持ってきた。数通の取引書類に混じって、一通だけ──見覚えのある筆跡の封筒が入っている。

ルシアンの字だ。

封蝋は宰相府の紋章ではなく、ヴェルトハイム公爵家の個人紋。公的な文書ではなく、私信だった。

封筒の表に「ナディアへ」とだけ書いてある。

……十年間、この字を毎日見ていた。外交文書の署名欄。領地への指示書。私への書き置き──「今夜は遅くなる」「夕食はいらない」。

結局、この人が私に宛てた手紙で「ありがとう」の三文字が書かれていたことは、一度もなかった。

引き出しを開けて、封筒をしまった。

封は、切らない。

「読まなくていいのか」

ヴォルフが低く聞いた。

壁際の椅子から、灰色の瞳がこちらを見ている。

「読む必要がありませんので」

微笑んだ。

営業用の笑顔ではなく、たぶん本物の──少しだけ寂しい、でも晴れやかな笑顔が出た。

ヴォルフは何も言わなかった。

ただ、焼きリンゴのタルトの紙包みを、そっと机の端に寄せた。

今日の分。

いつ買ってきたのだろう。毎朝、事務所に来る前に菓子屋に寄っているのだろうか。

私はタルトに手を伸ばして、ひと口かじった。

引き出しの中の手紙のことは、もう考えなかった。