軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二六話 父は、手放すことを知らない人です

朝の郵便に、見覚えのある封蝋が混じっていた。

カルデア公国の紋章。王都の蝋とは色が違う。深い緑に金の鷲。

封を切った。

『ナディア殿。ご連絡に感謝します。現在の情勢については、レオポルト外務大臣が直接お話ししたいと申しております。民間の仲介による暫定的な協議であれば、穏健派としても歓迎する用意があります。詳細は追って──』

手紙を置いた。

読み返す必要はなかった。大事な部分は最初の三行に書いてある。

カルデアの穏健派が、交渉に応じる。

エドムントの人脈を使わずに。公爵家の名前を出さずに。宰相府にいた頃に翻訳の仕事で繋がった一人の外交官を頼って、私の名前だけで、この手紙が届いた。

(──まだ、繋がっている)

宰相府の十年間は無駄ではなかった。あの頃に築いた人脈は、「宰相府の名前」ではなく「ナディア個人の信用」として──まだ、生きている。

リーデル商会の主人が言ってくれた言葉を思い出す。「我々はナディア様という人間と取引していたのです」。あの言葉は、国境を越えても通じた。

手紙を書類ファイルにしまった。

引き出しの中に、エドムントの契約書がまだある。二枚の紙が、同じ引き出しの中で隣り合っている。

午後、事務所の前に馬車が止まった。

港町に似合わない、品のいい馬車だった。紋章は──ヴェルトハイム公爵家。

エドムントかと身構えた。

降りてきたのは、別の人だった。

三十代半ばの男。少し痩せた顔。目の下の隈は以前より薄い。髪を短く切っていて、以前の宰相時代のきっちりとした身なりとは少し違う。外套の袖に、泥がついている。

ルシアン。

四ヶ月ぶりだ。いや、もっとか。通商会議の後、直接会ってはいない。

「……ナディア」

その声は、以前より穏やかだった。議会答弁の切れも、外交交渉の鋭さもない。領地で暮らしている人間の声だ。

「お久しぶりです」

言葉を選んだ。

以前は「宰相閣下」と呼んでいた。肩書きで距離を置く──私のやり方だ。

でも、この人はもう宰相ではない。そして壁は、もう要らない。

「お久しぶりです、ルシアン殿」

ルシアンの目が、一瞬──丸くなった。

それから、少し笑った。苦笑に近い。でも、嫌な笑いではなかった。

「……殿、か。閣下よりは近いな」

「近すぎますか」

「いや。ちょうどいい」

事務所に通した。

ヴォルフが壁際の椅子に座っている。ルシアンがヴォルフを見て、軽く頭を下げた。ヴォルフは頷きだけ返した。

二人の男が同じ部屋にいる。元夫と、今の夫。

一年前なら、この状況は想像もできなかった。

「父のことで来た」

ルシアンは茶を受け取りながら、率直に切り出した。

「父が港町に来ていると聞いた。それで──心配になった」

「心配」

「父は──手放すことを知らない人だ」

ルシアンの声が、少し低くなった。袖口の泥を気にするように、指で擦っている。

「宰相をしていた頃のことは、僕自身が一番よく知っている。父は僕にも同じことをした。宰相になれ、公爵家を守れ、力を持て。──善意だったんだ。全部」

言葉を切った。茶を一口飲んで、カップを膝の上に置いた。

「でも、善意だからたちが悪い。だって本人は──自分が何をしてるか、わかってないんだ。僕も同じだったから、わかる」

ルシアンの声が少しだけ乱れた。最後の「わかる」が早口だった。分析ではない。経験から出てきた言葉だ。

「ナディア。父はあなたを手放すつもりがない。商会を、あなたの才覚を、公爵家のために使いたいと本気で思っている」

「ええ」

「──だから、来た」

ルシアンが、まっすぐにこちらを見た。

「僕から言えることは多くない。でも一つだけ。父がやっていることは──僕がやっていたことと、同じだ」

私の手が止まった。

「あなたを道具にしていた。十年間。気づかずに」

──その言葉を、この人の口から聞く日が来るとは思わなかった。

引き継ぎ資料の最後のページに書いた「感謝しています」。あの言葉が、遠くで響いた気がした。

「……ありがとうございます、ルシアン殿」

ルシアンが立ち上がった。帰り際に、ヴォルフの方を向いた。

「ヴォルフ殿」

ヴォルフが灰色の瞳を上げた。

「──妻を、頼む」

短い沈黙。

「頼まれなくても、そうする」

ヴォルフの声は低かった。ぶっきらぼうだった。でも──ルシアンは、少しだけ笑った。

安堵の笑みだった。

ルシアンを見送った後、ヴォルフと港町の通りを歩いた。

十二月の夕暮れ。潮風が冷たい。外套の襟を立てた。

ヴォルフが隣を歩いている。いつもは少し後ろか、横の壁際にいる人が、今日は──隣にいる。

歩きやすかった。

以前より、ヴォルフの歩幅が小さくなっている気がする。あの長い脚が、私の速度に合わせて──

いや、気のせいかもしれない。寒いから歩みが遅いだけだ。

「……静かだな」

「え?」

「あんた。いつもなら帳簿の話をしてる」

「……そうですね」

そうだ。いつもなら、歩きながら取引の話をしている。今日は──何も話していなかった。

「考え事です」

「ルシアンのことか」

「……半分は」

「残りの半分は」

「明日のリオネス港の納品確認です」

「…………」

ヴォルフが黙った。ほんの少しだけ、口の端が動いた気がした。笑ったのかもしれない。暗くてよく見えない。

商会の階段を上がって、部屋に入った。

机の上に──花が置いてあった。

白い花。一輪。小さな硝子の瓶に挿してある。

丸みのある花弁が幾重にも重なった、上品な形。ほのかに甘い香り。

去年と、同じ花だった。

「ヴォルフ」

「ああ」

「これ」

「道に咲いてた」

──嘘だ。

冬咲きカメリア。温室花屋でしか手に入らない。銀貨三枚。

去年は知らなかった。今年は全部知っている。

知っていて──笑ってしまった。

「そうですか。道に」

「ああ」

「十二月の港町の道端に、今年も咲いたんですね」

「……咲いてた」

ヴォルフの耳が赤い。暗い部屋でも、わかる。もう、夕日のせいにはしない。

花に触れた。花弁が冷たい。温室の湿気がほんのり残っている。

二十九歳。

一年前は二十八だった。あの時は、宰相府を出て二ヶ月目で、この人の正体も知らなくて、花の秘密にも気づいていなかった。

今は全部知っている。この人が何者で、何を背負っていて、どんな嘘をつくか。

知っているから──この花が、去年よりずっと温かく見える。

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない」

三度目だ。花の時と。毛布の時と。同じ言葉。

でも今年は、一つだけ違うことがある。

お腹の中に、もう一人いる。

来年の十二月三日には、花は何輪になっているだろう。

考えて、少しだけ、泣きそうになった。

港町を離れる馬車の中で、ルシアンは便箋を広げていた。

揺れる車内で書く字は汚い。でも、書かずにはいられなかった。

『父上。

ナディアに会いました。港町で、自分の力で、立派にやっています。

父上が何を考えているか、僕にはわかります。あの人の才覚を、公爵家のために使いたいのでしょう。

お願いです。やめてください。

僕は十年間、あの人を道具にしていました。気づかないまま、感謝も言えないまま。それを自覚した時にはもう、取り返しがつきませんでした。

父上。あの人は、もう公爵家のものではありません。

どうか──』

ペンが止まった。

窓の外を見た。港町の灯りが、遠くなっていく。十二月の夜空に、星が見えた。

──あの人の誕生日は、今日だったか。

十年間、一度も覚えなかった日付を、今になって思い出した。

遅すぎる。全部、遅すぎる。

でも、遅すぎても──書かなければ、もっと遅くなる。

『どうか、手を引いてください。』

便箋を畳んで、封筒に入れた。

封蝋を押す手が、少しだけ震えていた。