軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十三話 南方経由なら、来週の荷に間に合います

吐き気で目が覚めた。

窓の外はまだ暗い。十二月の港町の夜明けは遅い。布団の中で体を丸めて、深く息を吐いた。胃の底が重い。昨夜は早めに寝たのに、体が鉛のようだ。

──風邪かしら。

先週もこうだった。朝だけ調子が悪くて、昼になると治る。夕方にはもう忘れている。朝だけ。朝だけが、おかしい。

何か引っかかるものがあった。頭の隅で、前世の記憶の断片が手を振っている気がする。

でも今は、帳簿が先だ。

「起きたか」

階下からヴォルフの声がした。竈に火が入っている音。

階段を降りた。台所の入口に、木くずが散らばっていた。小さな削りかす。踏むと靴の裏にくっつく。

(……何か削ったのかしら。椅子の脚でも直してる?)

気に留めずに台所に入った。

机の上に二枚の皿。卵焼き。黒パン。干し肉。レモン水。私の皿にだけ焼きリンゴ。

いつもの朝食だ。

──ただし、魚がない。

先週あたりから、朝食に魚が出なくなった。以前は塩漬けの鰯や干物が並んでいたのに。

「ヴォルフ。最近、魚が出ませんね」

「市場で良いのがなかった」

一週間ずっと良いのがない。港町の市場で。

……まあ、時期的なものかもしれない。十二月は漁が減る季節だ。たぶん。

レモン水を飲んだ。酸っぱさが、胃の重さを少し流してくれる。

ヴォルフが茶を淹れてくれた。カップを両手で受け取ると──温かかった。いつも通り、渡す前に手で温めてあるのだろう。もう知っている。知っているけれど、毎朝ありがたい。

「ありがとうございます」

「ああ」

短い朝が過ぎていく。

「姐さん、大変だ!」

マルテが事務所に飛び込んできたのは、帳簿を開いた直後だった。茶がこぼれそうになって、慌ててカップを押さえた。

「朝から騒がしいですね」

「騒がしいどころじゃねえ。カルデアで政変だ」

帳簿を閉じた。

「政変?」

「軍の一部がクーデターを企てたらしい。港を押さえてる。東方航路が──止まった」

東方航路。

香辛料。薬草。カルデア経由の絹。うちの取扱品目の三割が、あの航路を通っている。

「いつから」

「三日前だ。王都の早馬が来て、今朝ギルドに通達が回った。正式な封鎖命令じゃないが、カルデアの港に船が入れない」

頭の中で帳簿の数字が回り始めた。

仕入れコスト。在庫量。納品予定。来週の出荷分は倉庫にある。再来週の分は──ない。

(──猶予は二週間)

二週間以内に代替の仕入れルートを確保しないと、取引先への納品が止まる。納品が止まれば信用が落ちる。一年かけて積み上げた信用が、二週間で崩れる。

「マルテさん。南方航路の運賃、今の相場はいくらですか」

「南方? ええと──東方の三割増しくらいだな」

三割増し。利益率は下がる。でも取引は維持できる。

「南方経由でカルデアの品目を代替できる仕入れ先はありますか」

「南方にはカルデアの品は──」

「直接のカルデア品でなくてよいんです。同等品質の香辛料と薬草が、南方諸国のどこかにあるはずです」

マルテが目を見開いた。

「……姐さん、もう動くのか。通達が回って半日だぞ」

「半日あれば、帳簿は読めます」

(──腹が立つ時ほど、計算が速くなる。前世でもそうだった)

午後、ギルド長の館に向かった。

ブルクハルトの書斎は一年前と変わらない。重厚な樫の机。老眼鏡。白髭。ただし、今日の白髭の奥の目は──困っている。

「ナディア殿。来ると思っておった」

「東方航路の件です」

「うむ。ギルドの商人は皆、頭を抱えとる。うちの取扱量の四割が東方だからな」

四割。うちの三割より多い。ギルド全体への打撃は甚大だ。

「ギルド長殿。南方迂回路の手配を提案します」

準備してきた書類を広げた。

「南方諸国のうち、テルマ港とリオネス港に、カルデア品と同等品質の香辛料の取引実績があります。薬草はリオネス港の方が品揃えがよい。運賃は三割増ですが、納品を止めるよりは──」

「まともだ」

「来週の荷に間に合わせるなら、明後日までに発注が要ります。ギルド名義で発注すれば、個別の商会より運賃が下がります」

ブルクハルトが書類を引き寄せた。老眼鏡を持ち上げて数字を確認している。

長い沈黙。

──前と同じだ。この人は数字を確認してから答える。公正な人だ。

「……リオネス港の薬草は、品質の差はどうだ」

「カルデア産より苦みが強いですが、効能は同等です。取引先には事前に説明すれば問題ないかと」

「よかろう。ギルド名義で動く。ナディア殿、手配を頼めるか」

「はい」

書類にブルクハルトの署名が入った。

ギルド長の館を出た時、空は曇っていた。十二月の港町の風が冷たい。

ひとつ、片付いた。

──エドムントの助けは、借りなかった。

三日後の夕方だった。

南方航路の手配が動き始めて、最初の荷がリオネス港を出たという連絡が来た。来週には届く。取引先にも通知を出した。ひとまず、呼吸ができる。

帳簿を閉じて、冷めた茶を飲もうとした時──マルテが、いつもより静かに事務所に入ってきた。

蹴り開けない時のマルテは、大体ろくでもない話を持ってくる。

「姐さん」

「何ですか」

「ブルクハルトの爺さん、昨日──前公爵に会ったらしい」

手が止まった。

「会った?」

「前公爵が直接ギルド長の館に来たんだと。『王都に公爵家の倉庫がある。ギルドの荷を預かる用意がある』って」

王都の倉庫。

東方航路が止まっている間、南方経由の荷はどこかに保管しなければならない。港町の倉庫は足りるが、王都への転送を考えると──王都側に倉庫があれば、物流は格段に楽になる。

エドムントが差し出したのは、ナディアが持っていないカードだった。

「ブルクハルトの爺さん、ちょっと揺れてるらしい」

揺れている。

あの公正なギルド長が。

「……そうですか」

「姐さん、あの前公爵──何がしたいんだ」

マルテの目が、珍しく真剣だった。

何がしたいか。

引き出しの中に、答えがある。紙四枚の、上等な羊皮紙の契約書の中に。

「大丈夫です。対処します」

マルテが出ていった後、窓の外を見た。

港の灯りが、一つずつ点いていく。船が少ない。東方航路が止まって、港が静かになっている。

エドムントは「助けてやろう」と言いに来たのではない。

「助けが必要な状況」を、使いに来たのだ。

危機の時に手を差し伸べる。ありがたい。ありがたいから、断れない。断れないから、もっと深い条件を呑むことになる。

(──善意は、借金と同じだ。積み上がるほど返しにくくなる)

朝の吐き気のことを、ふと思い出した。今日は昼前には治っていた。毎朝、同じだ。朝だけ。

引っかかるものが、まだ頭の隅にある。

でも今は、帳簿の方が先だ。