軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十八話 ありがとう

クルトが尾行されている。

「昨日、宿を出た時から同じ男がついてきてました。軍関係者っぽい風体の」

クルトが低い声で報告した。港町にいた時の真っ直ぐな目に、警戒の色が混じっている。

「振り切りましたけど──明日の査問会を前にして、向こうも動き始めてますね」

それだけではなかった。

昨夜、宿の部屋の鍵がこじ開けられた形跡があった。引き出しの中の書類の順番が変わっていた。盗まれたものはない。中身を確認しただけか──あるいは、盗もうとして本物がないことに気づいたか。

本物は、ここにはない。

一週間前から、資料の写しを三ヶ所に分散させていた。

一部はエドムント前公爵のもとに。

一部はギルド長ブルクハルトに預けた港町の金庫に。

一部は王都二号店のリーナに渡してある。

宰相府で十年間学んだことの一つ。重要な書類は一ヶ所に置かない。

「クルトさん。今日は二号店に移ってください。リーナと一緒にいれば安全です」

「姐さんは?」

「大丈夫です。ヴォルフがいますから」

壁際で──いや、窓際で腕を組んでいるヴォルフが、無言で頷いた。

クルトが出ていった後、事務所の空気が少し緊張を帯びた。

明日だ。すべてが明日にかかっている。

夜。

査問会に向けた資料の最終確認をしていた時、宿の裏口を控えめに叩く音がした。

ヴォルフが音もなく立ち上がった。扉に近づき、隙間から外を確認する。

「……軍の人間だ」

「一人?」

「一人。武器はない。──怯えてる」

怯えている軍人。

扉を開けた。

見覚えのある顔だった。

四十代半ば。硬い表情。軍服ではなく質素な上着を着ているが、姿勢が軍人のそれだ。

──商人会合で、壁際に立っていた男だ。

「あなたは──」

「グスタフ・レーマンと申します。軍務卿の副官です」

副官。ディートリヒの部下。

ヴォルフの体が一歩前に出た。灰色の瞳が鋭くなっている。

「待ってください」

ヴォルフの腕に手を添えた。

グスタフの目は──あの時と同じだった。迷いの色。苦しそうな色。ディートリヒの側にいる人間の目ではない。

「中へどうぞ」

グスタフが部屋に入った。椅子を勧めたが座らなかった。立ったまま、深く頭を下げた。

「私は──もう、黙っていられません」

声が震えていた。

「五年間、閣下のなさってきたことを見てきました。辺境の作戦のことも。予算のことも。全部──知っていて、黙っていました」

ヴォルフが微かに身じろぎした。

「予算のこと……?」

「はい。五年前の辺境討伐作戦──大隊規模の予算が計上されていましたが、実際に出撃に使われた費用は小隊分のみです。差額の金貨およそ五百枚は、閣下の個人管理口座に移されました」

金貨五百枚。

やはり──やはり、消えていたのだ。

「その資金は、その後──閣下の政治活動に使われています。次期宰相候補としての地位固めに。社交界への工作、枢密院の一部メンバーへの贈答、各地の有力者への接待──」

グスタフの声が途切れた。唇を噛んでいる。

「そして──作戦命令書の原本は、軍務省の保管庫に残っています」

息を呑んだ。

「閣下は廃棄を試みましたが、正規手続き上──枢密院の承認なしには軍の公文書を廃棄できない。ですから隠すだけで精一杯でした。保管庫の第七棚、奥から三番目の箱に──」

「場所まで」

「はい。私が管理していた棚ですから」

グスタフが顔を上げた。目が赤い。

「先日の商人会合で、あなたのご発言を聞きました。条約の矛盾を、堂々と指摘された。──あれを聞いて、自分が何をしてきたか、改めて突きつけられた思いでした」

会合の後方で腕を組んでいた男。目に迷いがあった男。

あの迷いが──今夜、決壊したのだ。

「それから、クルトという青年への脅迫の件──あれは私が手配しました。閣下の指示で。あの青年が怯える顔を見た時、もう限界でした」

クルトへの尾行。部屋の侵入。全部、この人が手配したのだ。

──そして、全部をやめるために、ここに来た。

「レーマン殿。明日の査問会で、証人になっていただけますか」

「はい。それを──お伝えに来ました」

グスタフが深く頭を下げた。今度は長い礼だった。

ヴォルフが黙ってグスタフを見ていた。灰色の瞳に、怒りはなかった。

何が浮かんでいたのかはわからない。でも──あの鉄板が、少しだけ緩んでいた。

グスタフが帰った後、すぐにエドムントに急使を出した。原本の所在。保管庫の棚番号。横領資金の使途。

夜が明ける前に、返事が来た。

『捜索令の手配に入る。国王への上奏は先日済ませてある。あとは原本の所在だけだった。明朝までに押収する。

──公爵家のためにやっている。恩着せる気はないが、覚えておけ。

エドムント』

(帳簿につけておきましょう、前公爵閣下)

くすりと笑って、手紙を畳んだ。

──揃った。

クルトの命令書の写しと証言。

私の翻訳記憶。

グスタフの内部証言。

原本の押収。

元経理官の裏帳簿(エドムントが既に入手済み)。

三つのルートから、すべてが揃った。

深夜。

資料を並べ直して、査問会での発言の順序を頭の中で組み立てていた。

クルトの証言が先。実戦の実態を語ってもらう。

次に私の専門証言。翻訳記憶に基づく予算と兵力の乖離。

それからグスタフ。原本の所在と横領の内部事情。

最後に原本と裏帳簿の提示。

物的証拠と人的証拠が交互に重なる。反論の余地を一つずつ塞いでいく構成。

──勝てる。

そう思った時、かたり、と音がした。

ヴォルフが台所に立っていた。湯を沸かしている。

しばらくして、茶のカップが差し出された。

温かかった。

異常に温かかった。茶の熱だけではない。カップそのものが温められている。渡される前に、あの大きな手で包んで温めたのだ。

もう知っている。この人はいつもそうする。私の手が冷たいことを知っているから。

「……ありがたいです」

「ああ」

茶を一口飲んだ。体の芯まで温かさが沁みる。

カップを置こうとした時──ヴォルフの手が伸びた。

大きな手が、私の頬に触れた。

驚いて顔を上げた。

ヴォルフがすぐ近くにいた。灰色の瞳が、真っ直ぐに──こちらを見ている。

鉄板ではなかった。

穏やかで、温かくて、少し苦しそうな──顔だった。

唇が、額に触れた。

柔らかくて、温かい。ほんの一瞬。羽根が触れるように。

「……ありがとう」

低い声。

「礼を言われることじゃない」──この人の口癖だった。花を置いた時も。毛布をかけた時も。茶を淹れた時も。

いつも、「礼を言われることじゃない」と言って、自分が差し出したものの重さを否定してきた。

今夜は違った。

自分から、言った。

「あんたがいなかったら、俺はまだ──逃げてた」

声がかすれている。

「あんたが怒ってくれなかったら、俺は五年間の嘘のまま──」

言葉が途切れた。

目の奥が、少しだけ潤んでいた。泣いてはいない。泣く直前の──我慢している顔。

カップを置いた。立ち上がって、ヴォルフの胸に額をつけた。

大きかった。温かかった。心臓の音が聞こえた。速い。

「明日、終わらせましょう」

「……ああ」

「終わったら──」

「ああ」

わかっている。この人には、これで通じる。

長い夜だった。でも、寒くはなかった。

朝。

七月の陽射しではない。もう八月だ。夏の盛りの光が窓から差し込んでいる。

資料の鞄を手に取った。ヴォルフが隣に立った。

「行きましょう」

「ああ」

扉を開けた。

王都の朝の空気が、二人の顔を撫でた。