軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十七話 あの人の名誉を、二度と踏みにじらないでください

クルトとマルテが王都に着いたのは、七月最後の週だった。

「姐さん、待たせたな!」

マルテが宿に飛び込んできた。後ろからクルトが続く。旅の埃をかぶった二人の顔に、疲れと気合いが同居している。

「港町は大丈夫ですか」

「ブルクハルトの爺さんが目を光らせてる。あの人がいりゃ、商人連中は持つよ」

クルトが一歩前に出た。

「ナディア殿──いや」

マルテをちらりと見て、言い直した。

「姐さん。命令書の写しは持ってきました」

姐さん。

マルテの口癖がうつったらしい。港町で二週間一緒にいれば、そうなるか。

「ありがとうございます、クルトさん。──広げましょう」

宿の机に、すべてを並べた。

クルトの命令書の写し──「第三小隊をもって遂行せよ」。ディートリヒの署名。

私の記憶の書き起こし──カルデア公国の通信文「貴国の大規模討伐部隊に懸念を表明する」。

通商制限策の通達文──ディートリヒの名前。

「つまり、こういうことだ」

マルテが腕を組んだ。

「五年前、ディートリヒは大隊規模の予算を取っておきながら、実際には十二人しか出撃させなかった。差額の金がどこかに消えた。失敗したらヴォルフのせい。成功したら自分の手柄。──で、今は宰相の椅子を狙ってる」

「予算の差額が政治資金に流れているなら」

私が引き取った。

「通商制限策も同じ構造です。港町の経済を締め上げて『国防を強化した実績』を作り、宰相候補としての地位を固める。他人の暮らしを踏み台にして──」

「五年前と、やってることが同じなんだ」

クルトの声が低くなった。

「あの時は部下の命を踏み台にした。今は港町の商人を踏み台にしてる」

沈黙が落ちた。

「……俺は証言します」

クルトがまっすぐにこちらを見た。

「二年前は一人で行って握り潰された。今度は──姐さんたちがいる。俺だけじゃない」

頷いた。

「ありがとうございます。では──次の段階に進みましょう」

翌日。ディートリヒの館を訪ねた。

表向きの目的は通商制限策の撤回交渉だ。商人会合の議論を踏まえて個別に意見を伝えたい、と書面で面会を申し入れた。

断られると思っていた。

だが、あっさり通された。

(……むしろ、こちらの出方を見たいのだろう)

応接間に通される。窓の外に夏の庭園が見える。手入れの行き届いた薔薇が咲いていた。

ディートリヒが入ってきた。

前回と同じ穏やかな表情。銀交じりの髪。仕立てのいい上着。微笑。

──目だけが、笑っていない。前回と同じだ。

「ようこそ、ナディア殿。お忙しい中、わざわざ足をお運びいただいて」

「恐れ入ります、ディートリヒ卿。お時間をいただきありがとうございます」

完璧な礼を交わした。宰相府で何百回もやってきたやり取りだ。

席に着く。茶が出される。磁器のカップに金の縁取り。権力者の応接間の空気は、宰相府に似ている。

「制限策について、改めてご検討いただけないかと思いまして」

「ええ。お聞きしましょう」

「港町の商人たちの窮状は深刻です。南方航路の船が減り、雇用も落ち込んでいます。条約との整合性についても──」

「ナディア殿」

ディートリヒが茶のカップを置いた。穏やかに。静かに。

「あなたの弁舌には感服します。条約の知識も素晴らしい。元宰相夫人としての経験が遺憾なく発揮されていますね」

褒められている。

褒められているのに、空気が冷たくなっていく。

「ただ──少し心配しているのですよ」

ディートリヒが微笑んだまま、目を細めた。

「あなたのお傍にいる方のことを」

──来た。

「ヴォルフという元騎士団長でしたか。あの方は……少々、不向きではないかと思うのです」

心臓が、一つ跳ねた。

「人の上に立つ器ではなかった。部下を守る力もなかった。──私は当時の上官として、そう判断しました」

当時の上官として。

わざわざ言ったのだ。自分が命令を下した人間であると。

「あの方のために動いておられるのであれば、申し上げておきたい。あの方は──人を守る器ではありませんよ」

穏やかな声。穏やかな微笑。

──穏やかな刃。

十年間、宰相府で微笑んできた。

ルシアンが何を言っても微笑んだ。

離縁を告げられた時も微笑んだ。

使者に「お戻りを」と言われた時も微笑んだ。

怒ったことがなかった。

声を荒らげたことがなかった。

十年間、一度も。

宰相府で。離縁の後で。商会を開いてから。一度も。

「──ナディア殿?」

ディートリヒが首を傾げた。私が黙っているから。

椅子から立ち上がった。

「ディートリヒ卿」

声が出た。自分の声が、思ったよりも大きかった。

「あの人は、十二人の兵で大隊規模の任務に挑みました」

ディートリヒの目が、ほんの一瞬──細くなった。

「兵力が足りないと知りながら、命令に従い、部下を一人でも多く生かして帰ろうとしました。三人を失いました。でも九人は──あの人の判断で生き延びたんです」

声が震えている。怒りで。

「その人を──部下を死なせた責任を押し付けられた人を──五年間、『騎士団の恥』と呼ばせて、汚名を背負わせて──」

ディートリヒの微笑が、消えた。

「あの人の名誉を、二度と踏みにじらないでください」

応接間が静まった。

庭園の薔薇が風に揺れている。その音だけが聞こえた。

ディートリヒが──初めて、微笑以外の顔を見せた。

険しい目。測る目ではない。警戒する目だ。

「……お帰りください、ナディア殿」

声が冷えていた。穏やかさが剥がれていた。

「お気持ちは理解しました。しかし、感情で国防を論じることはできません」

深く頭を下げて、館を出た。

膝が笑っていた。でも歩いた。背筋を伸ばしたまま。宰相府の廊下を出た時と同じように。

──でも、あの時とは決定的に違うことが一つある。

あの時は、黙って去った。

今日は──声を上げた。

館の門を出たところで、ヴォルフが待っていた。

壁に背をつけて立っている。私が出てくるのを見て、灰色の瞳がこちらを向いた。

──聞こえていただろうか。応接間の声は、廊下まで届いたかもしれない。

「……ナディア」

「はい」

「あんたが……怒ってくれるのか」

ヴォルフの声が、かすれていた。

あの鉄板が、揺れていた。驚きと──何か、もっと深いもので。

「あなたのためじゃありません」

口をついて出た。いつもの言い訳。港町のため。商会のため。業務上の──

「……ごめんなさい。嘘です」

足を止めた。

「全部、あなたのためです」

もう「半分は」とは言わなかった。

ヴォルフが黙った。

長い沈黙だった。王都の夕暮れの街路に、二人の影が並んで伸びている。

「……ありがとう」

小さな声だった。

ヴォルフが「ありがとう」と言ったのは──これで、何度目だろう。もう数えなくていい。この人は少しずつ、言えるようになっている。

「帰りましょう」

「ああ」

並んで歩いた。ヴォルフの手が、一瞬だけ私の手に触れた。触れて、離れた。

──まだ、自分から握れないのだ。この不器用な人は。

だから私が、先に握った。

ヴォルフの耳が赤くなった。

それでいい。

宿に戻ると、手紙が届いていた。

封蝋に見覚えのある紋章。ヴェルトハイム公爵家の紋。

──エドムント前公爵だ。

封を切った。短い文面だった。

『ナディア嬢。

軍務卿ディートリヒの件、耳に入った。奴の排除は公爵家にとっても利がある。

枢密院に査問会の開催を請求する。証拠があるなら揃えろ。時間はあまりない。

エドムント・フォン・ヴェルトハイム』

実利的な文面だった。感情の欠片もない。

でも──この人はそういう人だ。ルシアンの父。息子の不甲斐なさに落胆しながらも、公爵家の利益のために動く実務家。ハインツの不正を暴いた時も同じだった。

利害が一致している。それで十分だ。

(帳簿につけておきましょう。この借りは)

くすりと笑った。

手紙を机に置いて、ペンを取った。

やるべきことが見えている。

クルトの命令書の写し。

私の翻訳文書の記憶。

そして──まだ足りない。原本と、内部の証言。

エドムントなら、枢密院を通じて原本の捜索に動けるかもしれない。

内部の証言は──。

ふと、前回の商人会合で見た「軍服の男」の顔がよぎった。壁際で腕を組んでいた男。目に迷いのようなものがあった。

あの男は、誰だろう。

──考えている暇はない。査問会の日程が決まれば、証拠を揃える時間は限られる。

ペンを走らせた。

明日から、最後の仕上げが始まる。