軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十六話 俺の代わりに、傷つくな

南方薬草の納品が止まった。

発注はしてある。契約も有効だ。なのに商品が届かない。

王都二号店のリーナが困った顔で言った。

「取引先に確認したら、『軍需物資の優先輸送が入った』と言われまして。民間の荷物は後回しだそうです」

軍需物資の優先輸送。

表向きは正当な理由だ。国防上の物流確保。誰にも文句は言えない。

でもこれが制限策の後に始まったのなら──偶然ではない。

「他にも、ありまして」

リーナが声を落とした。

「東方の取引先が二軒、契約の継続を見送りたいと言ってきました。理由は言いませんでしたが……軍務卿の名前がちらほら」

手が回っている。

関税で締め上げ、物流で干し上げ、取引先を脅して孤立させる。

商人会合でナディアが声を上げたことへの報復だ。あの日ディートリヒの目に浮かんでいた冷たさが、具体的な形になって返ってきている。

(……やっぱり、か)

怖い、とは思わなかった。

予想していた。宰相府にいた十年間で、権力者が敵を潰す手順は何度も見てきた。最初は経済的な圧力。次に社会的な孤立。最後に法的な手段。

今はまだ一段階目だ。

「リーナ。既存の取引先で動揺していないところはどこですか」

「リーデル商会と、ギルド長経由の港町組ですね。この二つは揺るいでいません」

リーデル商会。宰相府時代から「ナディア個人」と取引してくれた相手。あの人たちは宰相府の紋章ではなく、私を選んでくれた人たちだ。

──大丈夫。全部は崩れていない。

帳簿を閉じて、宿に戻った。

夜。

宿の机に向かって、記憶を辿っていた。

ヴォルフは窓際に座っている。いつもの姿勢。──いや、いつもとは少し違う。

港町の事務所では壁際の肘掛け椅子だった。王都の宿では、必ず窓際に座る。入り口のドアと窓の両方が視界に入る位置。

(用心深い人だ。元騎士だから、かしら)

その観察を頭の隅に置いて、本題に戻った。

翻訳文書の記憶。

宰相府で十年間、何百通もの外交通信を翻訳した。大半は忘れている。外交の定型文はどれも似たり寄ったりで、読んだそばから記憶の底に沈んでいく。

でも──引っかかるものが、一つある。

五年前の冬。

カルデア公国からの通信文を訳した。辺境に関する懸念表明だった。

内容は覚えている。翻訳者は文の意味を正確に理解しなければ訳せない。機械的に文字を写すのではなく、一語ずつ噛み砕いて訳す。だから──覚えている。

『貴国が辺境に展開する大規模討伐部隊について、国境付近の住民が不安を覚えている。部隊の規模と目的について、正式な通知を求む』

大規模討伐部隊。

大規模。

ヴォルフは言った。「十二人で出た」と。

クルトも言った。「大隊分の予算がついてた」と。

隣国は「大規模部隊」を認識していた。予算が大隊規模で計上されていたから、周辺国にもその規模感が通知されていたのだろう。

なのに実際の出撃は十二人。

予算は大隊規模──二百人分。

出撃は十二人。

差額は──。

(百八十八人分の予算が、消えている)

指先が冷たくなった。会合の朝と同じ冷たさだ。

でも今回は緊張ではない。

怒りだ。

百八十八人分の予算。金額にすれば金貨何百枚にもなるはずだ。その金がどこかに消えて、代わりに三人の命が消えた。

ヴォルフは五年間、その三人分の罪を一人で背負ってきた。

背負う必要のない罪を。

机の上の紙にペンを走らせた。覚えていることを全部書き出す。

翻訳した文書の時期。

通信文の差出国。

「大規模」の表現。

辺境の地名。

五年前の冬。

断片だ。記憶の断片にすぎない。

でもクルトの命令書と合わせれば──一つの絵になる。

「……ナディア」

ヴォルフの声がした。

窓際から、灰色の瞳がこちらを見ていた。

「何を調べている」

低い声だった。怒りではない。不安の色が滲んでいる。

「……五年前の外交通信の記憶を」

隠す理由はなかった。もう「業務上の配慮」なんて言い訳はしない。

「宰相府で翻訳した文書に、あなたの作戦に関係するものがあったかもしれないんです。隣国が『大規模部隊』と認識していた。なのに実際は十二人だった。その差の意味を──」

「やめろ」

ヴォルフが立ち上がった。

窓際から二歩。大きな体が、机の前に立った。

「俺の過去を掘るな。あんたが狙われる」

「狙われるかもしれないのは分かっています」

「分かっていて──」

「あなたのためじゃない」

立ち上がった。ヴォルフを見上げる。肩の位置が全然違う。それでも目は逸らさない。

「港町のためです。あの制限策を出している男と、あなたの部下を死なせた男が同一人物なら──彼を止めなければ港町は干上がる。私の商会も、マルテも、ブルクハルトも、全員が」

「…………」

「だから、調べるんです」

ヴォルフが黙った。

灰色の瞳が揺れている。怒りではない。もっと深い場所にあるもの。

「──俺の代わりに、傷つくな」

声が、震えていた。

あの鉄板の声が。

二月の波止場で「誰も失いたくない」と言った時と、同じ震え方だった。

「あんたが俺のせいで傷ついたら、俺は──」

言葉が途切れた。

ヴォルフの拳が握り締められている。腕を組んで隠しているつもりだろう。でも見えている。あの大きな手が、震えている。

──この人は、怖いのだ。

私が傷つくことが。自分の過去のせいで、大切な人間がまた──。

「……嘘つけ」

小さく、言った。

「え?」

「港町のためだと言っただろう。──嘘つけ」

ヴォルフの目がまっすぐにこちらを見ている。

鉄板が、少しだけ緩んでいた。怒っているのか、泣きそうなのか、わからない顔。

「……半分は、本当です」

認めた。

「港町のため。それは本当。──でも半分は、あなたのためです」

今度はヴォルフが黙る番だった。

長い沈黙が流れた。

蝋燭の炎が揺れている。窓の外から、王都の夜の喧騒がかすかに聞こえている。

「……勝手にしろ」

ヴォルフがそっぽを向いた。

勝手にしろ。許可だ。この人なりの。

口の端が緩んだ。

「はい。勝手にします」

ヴォルフの耳が赤くなっていた。

──明日から、本格的に動く。翻訳文書の記憶を裏付ける方法を探す。クルトの命令書と合わせて、予算と兵力の乖離を証明する道筋を組み立てる。

時間はあまりない。ディートリヒの圧力は日に日に強まっている。

でも、やるべきことは見えた。

ヴェルトハイム公爵領。王都から馬車で半日の田園地帯。

ルシアンは書斎の窓辺に立って、領地の麦畑を眺めていた。

夏の陽射しが金色の穂を照らしている。穏やかな景色だ。宰相府の窓から見えていたのは石壁と回廊だけだったから、この景色はまだ新鮮に映る。

領地管理官が、週報と一緒に王都の噂話を届けてくれた。その中に──一つだけ、目が止まる名前があった。

『元宰相夫人ナディア・エルスナー、商人会合にて軍務卿の通商制限策に異議を呈す。条約の矛盾を指摘し、多くの商人の支持を得る』

窓の外を見たまま、その一文を何度か読み返した。

ナディア。

あの食堂で、十年間向かいに座っていた人。引き継ぎ資料の最後のページに「感謝しています」と書いてくれた人。

僕に言えなかった「ありがとう」を、彼女の方から先に書いてくれた人。

──今、軍務卿と戦っているのか。

「……そうか」

呟いた。

取り戻そうとは、もう思わない。

あの人は自分の足で立って、自分の意思で戦っている。僕が手を伸ばすべき場所は、もうない。

ただ──少しだけ。

あの人が幸せでいることを、願っている。

窓の外で、夏の風が麦畑を揺らした。金色の波が、ゆっくりと遠くまで広がっていった。