軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十話 家族なら、一緒に食うだろう

「あなたがいいんです」

二度目の人生で、初めて自分の気持ちを口にした。

波止場の夕陽が眩しい。ヴォルフの顔が逆光で半分影になっている。革鞄は地面に下ろされたまま、渡し船は桟橋に繋がれたまま。

ヴォルフが口を開いた。

「……答えは明日と言ったが」

「はい」

「撤回する」

心臓が跳ねた。

「もう逃げない」

低い声が、波の音にかき消されずに、まっすぐ届いた。

「あんたが選んだなら──俺は、もう逃げない」

言ってから、耳を赤くしている。逆光でも、耳の赤さだけはわかった。

笑いたいのか泣きたいのかわからなかった。どちらも正解な気がした。

「……帰りましょう」

「ああ」

「タルト、明日からまた買ってきてくれますか」

「…………当たり前だ」

二人で、港町の石畳を歩いた。

並んで歩くのは初めてだった。いつもヴォルフは後ろか横の壁際にいた。今は隣にいる。肩の位置が全然違う。私の頭が、ヴォルフの肩にも届かない。

商会の明かりが見えた時、マルテが入り口に立っていた。

私たちの顔を見て、にやりと笑った。

「おかえり」

その一言で、胸がいっぱいになった。

──数ヶ月後。五月。王都。

ルシアンは、宰相の辞表を国王に提出した。

慰留はなかった。陛下は辞表を受け取り、短くこう言った。

「ご苦労だった、ヴェルトハイム公」

公爵位は残る。領地もある。政治生命が完全に絶たれたわけではない。

けれど、宰相府を出る時、振り返った書斎は──がらんとしていた。

机の上には、まだナディアの引き継ぎ資料が置いてある。角が擦り切れて、何度も開いた跡がある。

三冊目の最後のページを、めくった。

今まで見落としていた──最後の一行。

ナディアの筆跡で、小さく、こう書いてあった。

『どうかお元気で。十年間の経験に感謝しています。 ナディア』

感謝しています。

彼女の方が、感謝していた。

十年間、一度も感謝の言葉をかけなかった僕に対して──去る時に、彼女の方から「感謝しています」と書いていた。

恨みも、未練も、皮肉も、何もない。

ただの、別れの言葉だった。

視界が歪んだ。

机に手をついた。涙が、引き継ぎ資料の表紙に一滴落ちた。インクが少しだけ滲んだ。

「僕は……彼女に、感謝の言葉すら言ったことがなかった」

誰もいない書斎に、その声は吸い込まれて消えた。

五月の港町は、朝が早い。

日の出と同時に漁船が出ていく。魚市場がざわめき始める。パン屋の窯に火が入って、焼きたての匂いが路地に漂い始める。

商会の事務所の扉を開けた。

王都に二号店を出してから、本店の業務はだいぶ落ち着いた。従業員が四人に増えて、私が一人で帳簿を抱える必要もなくなった。

机に着いた。

いつものように帳簿を──開こうとして、手が止まった。

机の上に、焼きリンゴのタルトが置いてある。

二つ。

いつもは一つだ。私の分が一つ。

今日は、二つ。

向かいの席を見た。

ヴォルフが座っていた。

壁際の肘掛け椅子ではない。私の向かいの席──今まで誰も座ったことのない、もう一つの椅子に。

手には茶のカップを持っている。湯気が立っている。

机の上には、もう一つのカップ。私の分。たぶん、両手で温めてから置いたのだろう。もう知っている。

「……ヴォルフ」

「ああ」

「タルトが二つあるんですけど」

「ああ」

「一つは私の分ですよね。もう一つは」

ヴォルフが、茶を一口飲んだ。カップの陰で、口元が見えない。

「……家族なら、一緒に食うだろう」

時が、止まった。

家族。

指輪もない。ひざまずきもしない。花束もない。

ただ、焼きリンゴのタルトが二つ。温かい茶が二つ。向かいの席に座った、不器用な男が一人。

「家族……」

「嫌なら」

「嫌じゃないです」

即答した。

ヴォルフの耳が、真っ赤になった。カップで顔を隠しているが、耳は隠せない。

笑いが込み上げてきた。

同時に、目の奥が熱くなった。

「嫌なわけ、ないじゃないですか……」

(──業務上の贈答品交換、ではない。もうそんな言い訳はしない)

声が震えた。タルトに手を伸ばしたら、指も震えていた。

ひと口かじった。

甘い。いつもの味だ。二話で初めて食べた時と、同じ味。

──でも。

向かいに誰かがいるだけで、こんなに違う。

泣きながら笑って、二口目をかじった。

ヴォルフは何も言わなかった。カップの向こうで、口元だけが少し──ほんの少しだけ、緩んでいた。

その日の午後。

帳簿を整理していたら、手帳の間から何かが落ちた。

押し花だ。

白い花弁。十二月の誕生日に、ヴォルフが「道に咲いてた」と言って置いてくれた、あの冬咲きの花。枯れた後、こっそり押し花にして手帳に挟んでいた。

ふと、棚の隅に港町の植物図鑑があるのを思い出した。ギルド長の館でもらった資料の中に混じっていたものだ。

花弁の形を見比べて、ページをめくった。

見つけた。

冬咲きカメリア。温室栽培。港町では──。

『港町では自生しない。温室花屋でのみ取り扱い。一輪あたり銀貨二〜三枚』

本を閉じた。

道に、咲いているわけがなかった。

銀貨三枚。ヴォルフの月収の、二十分の一。

あの不器用な人が、十二月の朝に温室花屋まで歩いて、銀貨三枚を払って、一輪だけ買って、机の上に置いて、「道に咲いてた」と嘘をついた。

押し花を手帳に戻した。

戻してから、手帳をぎゅっと胸に押し当てた。

(──ずっと、だったんだ)

タルトも。花も。毛布も。カップの温もりも。

全部、最初から。

向かいの席でヴォルフが茶を飲んでいる。何も気づいていない顔をしている。いつもの鉄板だ。

でも今は知っている。

あの鉄板の下に、どれだけの温かさが隠れているか。

手帳を引き出しにしまって、帳簿を開き直した。

窓の外では、港町の五月の陽射しが石畳を白く照らしている。遠くで船の汽笛が鳴った。パン屋の匂いと、潮の匂いと、向かいの席から微かに届く──火にかけた薬草のような、温かい匂い。

あの夜──港町に着いた最初の夜、宿の前ですれ違った時と同じ匂いだ。

あの時胸がざわついた理由を、今ならわかる。

タルトの最後のひとかけらを口に入れた。

──これが、私の人生だ。