作品タイトル不明
第12話 大人の現実と、少年の怒り
数日後、ゴードン伯爵家からの公式な要請を受け、私は父の代理として再び伯爵邸の重厚な応接間に足を運んでいた。同席しているのは、当主であるゴードン伯爵。そして、新嫡男としての立場をより強固なものにした婚約者のミッシェル様だ。そこに、やつれ果てた姿のヘンリー様が、マリアと呼ばれた元下級侍女を伴って、這い出るようにして引きずり出されてきた。
「アナベル!」
私の姿を見るや否や、ヘンリー様は縋り付くような物乞いの目で私を見つめ、あろうことか身勝手極まる言葉を口にした。
「アナベル、やっぱり君が一番だ! 私は市井に下りてようやく気づいたのだ。君がいかに完璧で、気高く、私に相応しい女性だったかを……! こんな平民の女など、一時の迷いに過ぎなかった。私は今でも、君を愛して……」
「いい加減にしてください、ヘンリー様」
私は、自分でも驚くほど低く冷徹な声でその言葉を遮った。向けたのは、一滴の情も含まない、ただの塵を見るかのような軽蔑の眼差しだ。
「私を裏切り、家を捨てて出奔された方が、今更何を仰るのですか。その浅ましさ、ロイド侯爵令嬢として、そして一人の女性として、心底から軽蔑いたします」
私が冷たく突き放した、ちょうどその瞬間だった。
「貴様ッ! 気安くアナベル嬢に触れるな!!」
激しい怒号とともに、凄まじい勢いでヘンリー様の胸ぐらを掴み上げたのは、ミッシェル様だった。十五歳の少年のものとは思えないほどの腕力と、獣のような狂暴な眼差しが、実の兄であるヘンリー様を強引にねじ伏せる。
「ミッシェル……!? お前、兄に向かって何を……」
「黙れ、この無能が! アナベル嬢を侮辱するのも大概にしろ!」
ミッシェル様は全身を怒りで激しく震わせ、拳を白くなるほど強く握りしめていた。すべてを投げ打って愛を誓ったはずの女を後ろに立たせながら、生活に困窮したからと、今度はかつて捨てた婚約者に縋るのか。どこまで見窄らしく、どこまで卑劣になれば気が済むんだ、そんな男が僕の兄だったなどと、反吐が出る。その怒りは、実兄のあまりの醜態への嫌悪であり、そして何より、自分がどれほど傷つけ、どれほど遠ざけてしまったとしても、世界で一番守りたかった大切な女性であるアナベルを、目の前の男が安っぽく汚そうとしたことへの、狂おしいほどの男の怒りだった。
「ミッシェル様、そこまでに。赤子が泣いてしまいます」
私が静かに声をかけると、ミッシェル様はハッと息を呑み、悔しそうに歯噛みをしながらヘンリー様を床へと突き飛ばした。床に無様に転がったヘンリー様は、もはやかつての優秀な嫡男のプライドなど微塵もなく、ただただ怯えたように肩を震わせるだけだった。
ゴードン伯爵が低く短い咳払いをし、この泥沼の事態に対する大人の現実的な決定を厳かに下した。
「これ以上の醜態は許ん。我がゴードン伯爵家の決定を伝える。ヘンリー、お前が捨てた嫡男の座は、当然ながら現嫡男であるミッシェルのままで変更はない。今後、お前がこの王都の土を踏むことは二度と許さん」
実質の、廃嫡の確定。ヘンリー様は絶望に顔を歪めたが、伯爵の次の言葉に、縋るように耳を傾けた。
「お前には、我が領地の最果てにある、国境近くの代官を命じる。そこで、その女と、生まれた子供と共に、生涯を終えるがいい。これが、我が家が用意できる最後の手向けだ」
「領地の……代官……」
それは、華やかな王都の社交界からの完全な追放であり、実質の左遷だった。けれど、ヘンリー様の顔に浮かんだのは、絶望だけではなかった。あのアパートで、明日食べるパンの心配をし、我が子が飢え死にする恐怖に怯える日々は、もう終わるのだ。貴族としての贅沢はできなくとも、屋根のある家で、飢えることなく、安心して暮らせる。
「感謝、いたします、父上……!」
ヘンリー様は床に額を擦り付け、心底から安堵したように涙を流した。そして、アナベルとミッシェルの婚約がそのまま継続されることも、静かに受け入れた。彼にとって、もはや貴族の義務や契約など、どうでもよくなっていたのだ。
ヘンリー様は、自らの後ろで俯くマリアを振り返り、安心させるように微笑みかけた。
「良かった、マリア。これで、私たちも、あの子も、もう飢えずに済む……」
しかし、ヘンリー様へ向けられたマリアの瞳には、かつて彼を王子様のように慕っていたあの純粋な輝きは、微塵も残っていなかった。マリアの胸の内にあった愛情は、市井でのあまりにも過酷な困窮生活の中で、完全に冷え切り、消え去っていた。泥に塗れて日雇い労働をしながら、毎日、私は貴族の嫡男なのだと惨めに泣き言を喚いていたヘンリー様の姿に、彼女はとっくに幻滅していたのだ。
いま、彼女の胸にあるのはヘンリーへの愛ではない。ただ、我が子を安全に育てるための執着だけだった。
「はい、ヘンリー様。ありがとうございます」
マリアは静かに頭を下げ、領地へ向かうことを了承した。何も口にはしない。不満も、怒りも、愛の言葉も。ただ我が子を愛おしそうに抱きしめるその横顔には、かつてヘンリー様が愛した、無邪気で飾らない笑顔を見せる純粋な少女の面影など、どこにもなかった。生活の辛酸を舐め、生きるために現実を計算することを覚えた、一人の冷徹な母親の顔だった。
アナベルにはない純粋な少女の愛を求めてすべてを捨てたヘンリーは、皮肉にも、自らの手でその少女の純粋さを磨り潰し、完全に失ってしまったのだ。冷え切った沈黙が支配する部屋の中で、私はただ、その残酷な因果応報の結末を、静かに見つめていた。