作品タイトル不明
第1話 冷めたお茶と、15歳の婚約者
「以上の理由により、ヘンリーとマリアは出奔した。……すまない、アナベル嬢。我が息子の不始末、どのような責めも受ける覚悟だ」
ゴードン伯爵家当主、フランソワ卿の沈痛な声が響く応接室の空気は、肌を刺すほどに重苦しかった。
差し出されたお詫びの品や、事の経緯が記された書面を前にして、私、アナベル・ロイドは、静かに手元のティーカップをソーサーへと戻す。カチャリと響いた硬質な音の頼りなさ。すっかり冷めきった紅茶は、長い話し合いの末に冷めて濁り、本来の輝きを失っていた。まるで、たった今完全に破綻した、私とヘンリー様の婚約関係そのものを映し出しているかのように。
「お顔をお上げください、伯爵閣下。驚きはいたしましたが、私が涙を流すようなことではございませんわ」
私は努めて冷静に、いつもの「完璧な侯爵令嬢」の微笑みを浮かべてみせた。胸の奥がひやりと冷えた感覚はあっても涙の一滴すら浮かんでこないのは、二十一歳になる元婚約者、ヘンリー・ゴードン次期伯爵との間に愛情などこれっぽっちもなかったからだ。あれは純然たる、家同士の利害の一致による政略結婚。裏切られたという貴族としてのプライドの傷はあれど、恋い焦がれた男を失った失恋の痛みなど、微塵も含んではいなかった。
(問題は、そこではないのだわ)
私の脳裏を過ったのは、もっと現実的で、もっと容赦のない社交界の格付けだった。
私は今年、十八歳になった。この国の貴族社会において、女子のデビュタントは十五歳。そこから三年間、十八歳までに婚姻を結ぶか、確実な婚約を内定させておくのが「まともな令嬢」の絶対条件とされている。十九歳になれば行き遅れの足音が聞こえ始め、二十歳を過ぎれば完全に残り物として扱われるのが現実だ。
そんな十八歳の今、婚約者に駆け落ちされた。この事実だけで、私は明日から社交界の格好の餌食となる。同情の皮を被った嘲笑と、男に逃げられた哀れな傷物という烙印が、容赦なく私に押し付けられることになるのだ。
「寛大な言葉、感謝に堪えん。だが、共同事業のこともある。ロイド侯爵家との絆をここで断ち切るわけにはいかないのだ。そこで、不躾なお願いなのだが……」
ゴードン伯爵が、躊躇いがちに、しかし確かな意志を瞳に宿して私を見た。
「ヘンリーに代わり、次男のミッシェルを、新たなアナベル嬢の婚約者として迎え入れてはもらえないだろうか」
「ミッシェル様、ですか?」
私の口から、戸惑いの声が漏れた。ミッシェル・ゴードン。ヘンリー様の六歳下の弟。私の頭に浮かんだのは、まだ声変わりが始まったばかりのような、線の細い、あどけなさを残した少年の姿だった。
「ああ。ミッシェルは今年、学園の一年生になった。幸いにも成績は優秀で、魔術の才もある。ヘンリーに代わり、彼を我が家の嫡男として据える手続きを進めているところだ。年齢の差はあるが、どうか、検討していただけないだろうか」
私は一瞬、言葉を失った。
三歳差。数字だけで見れば、世間によくある範囲の年齢差かもしれない。男性が三歳上で、女性が三歳下、ならば。だが、今回はその逆だ。女性である私が三歳上で、相手が三歳下。
『私が十八歳で、ミッシェル様が、十五歳……』
その言葉を口の中で転がした瞬間、じわりと、心臓の奥を針で刺されたような痛みが走った。十五歳といえば、ついこの間まで子供部屋にいたような年齢だ。これから瑞々しい青春を謳歌し、学園で同世代の可愛らしい令嬢たちと恋の駆け引きを学ぶべき輝かしいお年頃である。対して私は、すでに社交界の荒波に揉まれ、大人としての振る舞いを求められる十八歳なのだ。
(十五歳の男の子の隣に、十八歳の私が並ぶの?)
想像してしまい、背筋が寒くなった。ただでさえ、私は生まれつき背が高く、顔立ちも派手さのない冷ややかな部類だ。社交界ではよくクールビューティなどとお世辞を言われるが、裏を返せば、可愛げのない大人びすぎた女という意味でもある。
まだ成長期すら終えていないであろう、華奢で童顔な美少年の隣に私が並んだら、周囲の人間はどう見るだろう。まるで弟とお姉様、いいえ、母親気取りかしら。十五歳の将来ある坊やを捕まえるなんて、十八歳の行き遅れおばさんは必死ね。まだ見ぬ社交界の令嬢たちの、クスクスというあざ笑うような幻聴が耳の奥で響いた。
おばさん、という残酷な響きが、私の胸に鋭く突き刺さる。まだ十八歳なのに。たった三歳しか違わないのに。女性が年上というだけで、どうしてこれほどのみじめさを予感しなければならないのだろう。
「アナベル、お前の意見を聞かせておくれ」
それまで沈黙を保っていた我がロイド侯爵家当主である父ピエールが、私を気遣うように声をかけてきた。
断ることも、おそらくできた。ヘンリー様の有罪を盾に、ゴードン家から莫大な慰謝料をむしり取り、別の縁談を探すことも。けれど、十八歳で婚約者に逃げられた女となった私に、今更これ以上の好条件の縁談が舞い込むだろうか。
ゴードン伯爵家は由緒正しき名門であり、次男のミッシェル様が嫡男になるのであれば、家格としても申し分ない。何より、この縁組を前提として立ち上げた共同事業は、すでに両家の領地を跨ぐ一大プロジェクトへと成長している。
ここで私の感情に任せて破談にすれば、国をも巻き込む事業を頓挫させ、それこそ実家に泥を塗ることになる。私に残された道は、最初から一つししか無かった。
私はゆっくりと深呼吸をし、胸の中のどろりとした感情を、強引に心の奥底へと押し込めた。冷徹な、完璧な貴族の娘の仮面を被り直す。
「分かりました。ゴードン伯爵、そのお話、謹んでお受けいたします。ミッシェル様との新たな婚約を、承諾いたしますわ」
「おお、受けてくれるか! 感謝する、アナベル嬢!」
安堵の表情を浮かべる大人たちを視界の端に収めながら、私はもう一度、冷めきったティーカップを見つめた。
ああ、面倒なことになってしまったわ。十五歳の、まだ恋も知らないような男の子の婚約者。一番迷惑しているのは、こんな行き遅れ一歩手前の年上女をあてがわれた、ミッシェル様ご本人に違いない。
明日から始まるであろう、社交界からの容赦ない好奇の目と、年齢という名の見えない壁。私の、胸を掻きむしられるような苦悩の日々が、静かに幕を開けようとしていた。