軽量なろうリーダー

奥様、それは別途料金でお願いします

作者: 悠木 源基

本文

幼いときに両親を亡くしたマチルダは、男爵である伯父の養女となった。

マルロン男爵家は大きな農園を持っていた。そのために人手が必要だったからだ。他人の子供を働かせると罰せられるが、自分の子供なら罪にならないというわけだ。

彼女は物心が付く前からずっと、子守や雑事をやらされるだけでなく、農作業要員として酷使されてきた。

そんな苦労人である彼女の唯一の楽しみは、月に一度届く義姉からの手紙。そして、その手紙を届けてくれる郵便配達人と、短い会話を交わすことだった。

そんなある日、彼女は伯父から結婚を命じられた。

貴族は十六になると、王都の学園に入らなくてはいけないという暗黙のルールがある。例外は病気の者か、結婚が決まった令嬢だけだ。

伯父と伯母は、自分の子にさえも教育にお金をかけたくないと思うような夫婦だった。

それゆえに、当然姪であるマチルダにそんなお金を使いたくはなかった。

しかし、病気だと偽れば働かせるわけにはいかなくなる。働けない者を家に置くわけにはいかない。

そこで、持参金無しでも良しとする家に嫁に出すことにしたのだ。

しかも嫁ぎ先を探すのも面倒だった伯父夫婦は、長女の嫁ぎ先の子爵家に話を持って行った。娘の夫の弟との縁談だ。

マチルダは素直にそれを受け入れた。

古ぼけた大きな鞄に普段着数枚と身の回りのちょっとした物、そして義姉から譲られた宝物の教科書数冊、そしてこれまで書いてきた日記をさっさとしまった。

そして結婚を命じられてから十日後、彼女は半日荷馬車に揺られてマゼラー子爵家に到着した。

たった一人、たった一つの鞄と共にやって来たマチルダを見て、子爵家の面々は驚いていた。

「分かってはいたけれど、本当にケチくさい家だわね、マルロン男爵家は」

その格好から子爵夫人と思われる女性が苦々しそうに言ったので、「全くです」とマチルダは真顔で応えた。

すると夫人は目を見張った。それから少し目を細めて言った。

「持参金もない娘をもらってあげるのだから、しっかり働いてもらうわよ」

「最初にお尋ねしたいのですが、私のお相手は嫡男ではないのだから、結婚すれば平民になるわけですよね?

それでも財産分与はしてもらえるのですか?」

「はっ?

するわけないでしょう。ちゃんと学園で学ばせてやったのだから、それで十分。もちろんこの家で働いた分は賃金を出すわ」

「そうですか? それでは私が働けば、もちろん私も賃金をいただけるのですね?」

マチルダのこの質問に夫人は目を丸くした。

「嫁にお金なんて払うわけがないでしょう!」

「どうしてですか?

ここに嫁ぐといっても、夫になる方は家を継ぐわけでも、財産をもらえるわけでもない。それなのになぜこの家のために無償で働かなきゃいけないのですか?

もちろん食べさせてもらえるなら、夫の身の回りのことはさせてもらいますけれど」

「なんですって! 嫁になる分際でそんな生意気なことを言うものではないわ」

「生意気って、真っ当なことを言っただけです。だって平民になるのですよ?

身分や地位、そして財産ももらえないのに、無償でこの家のために働かないといけないのはおかしいです。ただの使用人の妻なのに。

他所で働けばちゃんと賃金をもらえますよ」

マチルダは理路整然とそう言った。あまりにも堂々としていて、怒り狂っている夫人よりも、よっぽど貴族らしいと、使用人達は思ってしまった。

二人は、なんと玄関ホールで会話をしていたのだ。

「サラサは私に逆らったことはないわ。従順で余計なことなど一切言わなかった。

そんなサラサの妹だからアンディーの嫁にもらおうと思ったのに、大間違いだったわ」

「たしかに間違っていましたね。

サラサ姉様はこちらのご嫡男と結婚して次期子爵夫人となるので、姑の指示に従っているのでしょう。

私とは立場が違います。そんなこともご理解していないのですか?

もし私にサラサ姉様と同じ働きを求めるのなら、同じ身分や地位を約束してください」

「なっ!」

「それに、なぜ私がサラサ姉様と同じに扱えるとお考えになったのですか?

血は繋がっていますが、妹とは言っても本来は従姉妹ですよ。

というより、たとえ本当の妹だと言っても別の人間なのだから、性格も考え方も違うに決まっているではないですか。

夫人の二人の息子さんだって双子でもないのだから、全く同じというわけではないでしょう?」

至極真っ当だと使用人達は思った。特にこの家の嫡男と次男は容姿だけでなく、性格も全く異なっていたので、なおさらにそう感じた。

「ああ言えばこう言う。本当によく口の回る生意気な子ね。学園に入る前だから余計な知恵が回らなくて、素直に人の言うことを聞くと思ったのに」

夫人は忌々しそうに言った。

「とんだ見込み違いだったわね。あなたみたいな娘を こ(・) の(・) 家(・) の(・) 嫁(・) に(・) す(・) る(・) 気(・) は(・) な(・) い(・) わ。息子に会わせる必要もないからさっさと帰ってちょうだい」

「わかりました。でも、すっかり日が暮れてしまいました。

今からでは宿も見つけられないと思いますので、一晩だけこちらに泊めて下さい。

雨風がしのげれば物置でもどこでも構いませんので。どうかお願いします。

このまま屋敷を追い出して、もし私に何かあったら、さすがにこちらも体裁が悪いでしょうし」

「なんて図々しい子なの!」

マチルダの言葉に夫人はさらに顔を真っ赤にして怒りを表した。

しかし、使用人達に見られていることにようやく気付き、無理やりに感情を抑え込んでこう言い放った。

「分かったわ。でも朝一番で出て行ってちょうだいね。ヘレン、後は任せたわよ」

と言うと、肩を怒らせて屋敷の奥へと消えて行った。

「お茶をお出しするのが遅くなって申し訳ありませんでした」

侍女長のヘレンがそう言いながら、マチルダにお茶を出した。

そこは彼女が準備しておいてくれた使用人部屋だった。

これまで嗅いだことのない良い香りがした。

「とても素敵な香りですね。気持ちが落ち着きます。ありがとうございます」

マチルダは先ほどとは全く違う笑顔で礼を言った。

『ヘレンの淹れてくれたお茶を飲むと、張り詰めていた気持ちが解れてホッとできます』

以前義姉サラサからの手紙にそう書いてあったことを思い出した。

お茶を飲み終えると、ヘレンが言った。

「使用人部屋で申し訳ないのですが、ここに夕食もお届けしますね。

サラサ様からお預かりした帳面も」

マチルダに案内された部屋は狭いけれどきちんと掃除がされていて、綺麗に整えられてあった。

ヘレンはすぐに食事をワゴンに載せて運んできた。そしてライティングデスクの上に数冊の帳面と大小二つの鍵を置いた。

「お疲れのところを申し訳ないのですが、お休みになる前に、一番上の帳面だけでよいので読んでおいていただけますか?」

「あの計画は順調ってことですか?」

マチルダの問にヘレンは頷いた。

「おそらく、明朝、奥様はかなり慌てると思います。そして人手を欲しがると思います。

ですから、マチルダ様はゆっくりと起きてきてくださいね。

その鍵はこの部屋とライティングデスクの引き出しの鍵です。大切なお品と共に若奥様の帳面をしまっておいてください」

マチルダは頷いた。おそらくしばらくはこの部屋が自分の仮住いになることだろう。

すきま風の入るマルロン男爵家の部屋と違って、ここはとても過ごしやすそうだとそう思った。

「それではこれで失礼しますが、ワゴンは廊下に出しておいてください。

そして、必ず鍵をかけてお休みくださいませ」

「分かりました。色々とありがとうございます。最後に質問を一つしてもよろしいですか?

サラサお姉様の旦那様は、今こちらにいらっしゃるのですか?」

「夜会のエスコートを弟君に任せて、ご自分は愛する方の別荘にこもっていらっしゃいます。

昨日お出かけになったばかりなので、三日は戻らないと思います」

話の内容は眉をひそめたくなるものだったが、ヘレンは少し口角を上げてそう言った。

するとそれを聞いたマチルダまで、少し愉快そうな笑顔を浮かべて頷いたのだった。

そして翌朝、マチルダは甲高い怒鳴り声と、廊下を走り回る人々の足音で目を覚ました。

普段なら夜明けとともに起き出して家畜の世話をしていた。

しかし、さすがに昨日は長旅をした上に、夜遅くまで帳面を読み込んでいたので、起床が遅くなった。

ベッドから出て首や腕を回し、屈伸をした。一日中座りっぱなしだったので、臀部がかなり痛くて顔をしかめた。

(思ったより体がキツイわね。でも、今日一日何とか乗り切るわ)

マチルダはすぐに身支度を整え、鞄から手鏡を取り出し、いつものように濃い化粧をして、素顔がわからないようにした。

そして、夕べワゴンの上に用意されていたパンを食べて腹ごしらえをした。

「明日の厨房は、まかないを作る余裕なんてなくなっているでしょうからね」

そうヘレンは言って、朝食分のパンまで置いていってくれたのだ。

(そりゃあ朝食どころの話ではないだろうな。嫡男の妻である次期子爵夫人が、次男と共に昨夜のうちに駆け落ちしていたことが分かったらね)

心の中でマチルダはほくそ笑んだ。悪女にでもなったような気分だった。でも、それでいい。

虐げられても清らかな心でいられる人間なんて嘘くさいと思った。

「自分一人が我慢すればみんな丸く収まると思っていたけれど、それは間違いでした。

あの人達は反省することなく益々増長していく。このままではもっと多くの人達が辛い思いをするわ。

大切な義妹のあなたまであの人達の刃にかかりそうになって、私は初めてそのことに気付いたの。

私を思ってくださる人々の手を借りて、ようやく立ち上がる決意をしました。あなたも手を貸してくれると嬉しいわ」

ひと月前に、マチルダの憧れの郵便配達人が、義姉の手紙を届けてくれた。その手紙の中身はいつもとかなり違っていた。

これまでは義妹に心配をかけまいとして、嫁ぎ先の愚痴はほとんど綴られてなかったから。

もっとも、それを届けてくれる人から、なんとなく義姉の状況は知らされていた。

それゆえに、この場で開封して欲しいと彼から言われたとき、何やら予感がしていた。

だから手紙を読み終えると、彼女はすぐにこう言った。

「どんなことでも協力します。やらせてくださいとサラサお姉様に伝えてください」

すると郵便配達人から口頭で、いくつかの指示を与えられた。最初から私が了承することを前提に計画を進めていたのだろう。そう彼女は思った。

そして昨日がその作戦の決行日だった。

マゼラー子爵夫人とのやりとりはアドリブだったが、彼女に嫌われたことにより、自分の結婚話がなくなってホッとした。しかも、男爵家からも除籍されたし。

ようやく人に利用される人生とさよならできたのだ、とマチルダは思った。後は、義姉のしがらみを完全に断ち切るために動くのみ。

彼女はそう自分に気合を入れた。

今日この屋敷では、酪農関係者の持ち回りのパーティーが催される予定になっている。

(ここ数年はずっと、次期子爵夫人であるサラサお姉様がその準備をしてきたと聞いているわ。その人が突然いなくなったらそりゃあ奥様は大慌てするわよね。

サラサお姉様がいかにこの家のために尽くしてきたのか、それを思い知ればいいわ)

マチルダはそう思った。

田舎の子爵家に護衛は二人しかいない。その二人が数名の使用人を引き連れて、次期子爵夫人と次男の捜索に出かけて行った。

そして残りの使用人達が家畜の世話を始めたが、やったことがない者達も多くて、飼育場は混乱し、作業は一向に進まなかった。

「早くお客様を迎える準備を始めてちょうだい」

子爵夫人がこう命じると、侍女長のヘレンがこう言った。

「わかりました。では奥様、指示をお願いします」

「指示って。いつもの通りに進めればいいでしょ」

「そうはまいりません。今日は前回と違って人手が全く足りておりませんから。

しかも、この五年ずっと指示してくださっていた若奥様がいらっしゃいません。私一人では到底無理です。

厨房とお子様達のお世話は僭越ながら私が責任を持ってやらせていただきます。

ですから農園の方は旦那様に、そして、招待客をお迎えする部屋の支度の指示は、女主である奥様にしていただかないと屋敷が回りません」

ヘレンの言葉に子爵夫人は怒りを再燃させた。

「あの二人はよりにもよって、なぜこんな大切なときに駆け落ちなんてするの! この家がどうなってもいいの?」

(いいに決まっているじゃないか! あれだけ蔑ろにされてきたんだ。いっそ潰れてしまえと思っているだろう。

だから、わざとこの日にしたに決まっている)

使用人達は全員がそう思った。

この家の嫡男には、子供の頃から両思いの相手がいた。隣の領地の落ちぶれた男爵家の、二つ年上の令嬢だった。

恵まれた容姿をした、明るく自由奔放な性格の魅力的な女性だった。

同じく華やかで容姿端麗な子爵令息とはお似合いだと、もっぱらな噂だった。

しかし、持参金を用意できないほど貧しい男爵家の娘。

華やかな美貌はあるが、いつも自分が中心でいないと気が済まないような性格の持ち主。

そんな令嬢では、田舎の子爵家の女主は務まらない。

子爵家は二人の結婚を認めなかった。

そして結局その男爵令嬢は、学園卒業後にその美貌を買われて、父親より年上の伯爵の後妻として嫁いで行った。

ところが、たった二年で未亡人になってしまった。ただし、かなりの財産を譲られたので、本人は却って喜んでいたらしい。

それでもさすがに一年ほどは喪に服していたのだが、その後初恋の相手とよりを戻した。

しかもその三年後、その恋人の子を身籠った。

かつては見下していた相手だが、今では格上の伯爵家の未亡人。子供を孕ませてそのままというわけにはいかず、秘密裏に出産させた後、子爵家がその子を実子として引き取ることにした。

そのためには正妻が必要となった。

子爵家は慌ててお飾りの妻になってくれる相手を探した。そして目を付けたのが、次男の同級生だったマルロン男爵家のサラサ嬢だったのだ。

同じ酪農を生業にしている家の令嬢。成績優秀で気立ての良い娘だと評判だった。

早速彼らは男爵家に縁談を申し込んだ。こちらは格上の子爵家で、しかも息子は王子殿下とも仲良くさせてもらっている、評判の美男子だ。喜んで受け入れられるだろうと高を括っていた。

ところが、婚約期間なしですぐに結婚をしたいという申し出に、裏があるとすぐに察した男爵に足元を見られてしまった。

持参金無し、しかも三人の息子達の三年間の学費を全て援助してくれるのなら、嫁に出してもいい、という条件を出されてしまった。

「うちの娘の器量はそこそこですが、頭が良くて働き者。そして従順です。他にいくらでも良縁があるので、安売りはしません」

そう男爵に言われて改めて考えてみると、たしかにサラサ嬢は自分達の望んでいる嫁だと思い、その要求を受け入れたのだ。

そして結果として、その嫁は彼らの望んでいた以上に役に立った。

夫である息子に一切振り向かれなくても愚痴一つこぼさず、嫉妬もしない。

愛人との間に生まれた二人の子供を実子として、大切に育ててくれた。

家政の苦手な姑に代わって家の中だけでなく、領内の仕事まで上手く回し、その上、その手柄を奪われても文句一つ言わなかった。

嫁はいつも静かだった。淡々と日々の仕事をこなし、家族とは必要な最低限の会話しかしなかった。

結婚当初は子供に対してだけは本物の笑顔を見せて、優しく話しかけていた。

しかしある日を境に、彼女が子供に対しても距離を置くようになっていたことを、女性の使用人達は気付いていた。

「僕達の本当のお母様じゃないくせに」

悪さをして注意された兄の方が、サラサにそう言い放ったのだ。

最初は母親にべったりだったのだが、父親がこっそり実の母親に会わせるようになった結果、次第に態度を変化させていったのだ。

サラサは泣かなかった。でもそれ以降本当の笑顔を見せなくなった。

ヘレンを始めとする女性達は、この心無い嫡男の行為に対して激しい怒りを覚えた。

そんな彼女達の思いを代弁してくれたのが、子爵家の次男であるアンディーだった。両親や兄を痛烈に批判した。あなたたちのしていることは非人道的過ぎる。人でなしだと。

嫁より息子の方が煩いと当主夫妻は思った。

しかし、実務能力のない長男に代わって仕事をしているこの次男がいなくなると困るので、抗議を右から左へ聞き流していた。

「このままでは若奥様とアンディー様が、ただならない関係になってしまうかもしれません。何か対処しませんと」

嫡男夫婦は白い結婚であり、次男が義姉にいたく同情して何かと庇っている。その事実を知っていた執事が、主に何度か忠告した。

しかし、二人の存在を必要不可欠だと考えていた夫妻は、もしそうなったら、それでも構わないと考えていたので、何の対処もしなかった。

もし二人の間に子供ができたとしても、マゼラー子爵家の血筋なのだから何の問題もない。むしろ注意などして二人に逃げ出されでもしたら、その方が大変だと。

それなら、あの出来損ないで役立たずの嫡男を追い出して、次男と若奥様を結婚させればいいじゃないかと皆が思った。

しかし当主夫妻はやはり何も分かってはいなかった。

子爵家の農産物がお城の御用達になれたのは、嫡男が王太子殿下と親しいからだと信じて疑わなかった。

息子のあの素晴らしい容姿と社交術が功を奏したのだと。

しかし、マゼラー子爵家が御用達に選ばれたのは、サラサが商品開発した酪農製品を使った料理やデザートが高く評価されたこと。

そして、アンディーが加工品の輸送ルートを新たに開拓したことにより、以前より新鮮な農産物を王都へ届けることが可能になったからだった。

「奥様、手順を指示してください」

「旦那様、飼育場と農園の人手が足りません、何とかして下さい」

使用人全員に詰め寄られた子爵夫妻は、狼狽えて、しどろもどろになった。

そんな所へマチルダが鞄を抱えて現れた。

彼女は使用人に囲まれている子爵夫妻に聞こえるように大きな声で挨拶した。

「一晩お世話になりました。これで失礼します」

すると、夫人が彼女に負けないくらい大きな声で叫んだ。

「あなたの姉がとんでもないことをしでかしたのよ。息子と駆け落ちしたの。だからあなたが責任を取って代わりに働きなさい!」

「私はここへ来る前にマルロン男爵家から籍を抜かれました。それゆえにサラサ様とは赤の他人です。

責任を取る義務はありませんのでこれで失礼します」

「なっ!

それでは日当を払うから手伝いなさい!」

夫人は生意気な小娘に腸が煮えくり返った。マチルダの要求額も相場よりやや高かったし。

しかし、背に腹は代えられない。男爵家から彼女はすでに一人前に働けると言われていた。せっかく目の前にいる働き手を逃すわけにはいかないと、夫人はとっさにそう思ったのだ。

そして結果的にその判断は正しかった。

年はまだ十五歳。しかも昨日初めてこの屋敷に来たばかりだというのに、マチルダはテキパキとみんなに仕事の指示を与えた。

その後、自ら家畜達に餌を与え、それを終えると応接間のセッティングを手伝った。

マルロン男爵家も酪農を主産業としていたために、マゼラー子爵家同様に同業者持ち回りのパーティーを開いていた。

マチルダは幼いころからサラサと共にその手伝いをさせられていたので、慣れたものだったのだ。

しかも、サラサが帳面に残しておいた手順もきちんと読み込んでいた。それゆえに彼女は的確に指示することができたし、自分自身もてきぱきと動けたのだ。

マチルダの活躍で、無事にパーティーを開始することができた。

もっとも夫妻がホストとして上手く采配が出来なかったので、無事に終了したとは言い難かったが。

ここ数年、マゼラー子爵家主催のパーティーやお茶会の評判がかなり高くなっていた。

それゆえに期待値が高くなっていたので、余計にその残念感が大きかったのだろう。

部屋は整っていた。席順にも問題はなかった。地産地消の珍しい料理も文句はなかった。事前の準備は完璧だったし、料理人の腕も確かだったからだ。

しかし、その料理について訊ねても、材料や作り方だけでなく名前も知らなかった夫人に、客達は失笑した。

やっぱり王家に気に入られたオリジナル料理を考案したのは、夫人ではなくて次期夫人の方だったのだと彼らは再確認した。

そして若奥様によるためになる話が聞けなくて残念だったわと言いながら、皆帰路についたのだった。

手渡された土産は素晴らしかった。しかし、こんな気の利いた良い物をもらえるのも今回が最後だろうと、客達は何となく感じたのだった。

マチルダは、その能力を目の当たりにした当主夫妻から、サラサが戻るまでここで働いて欲しいと頼まれた。

そこで仕事は家畜の世話なのか、それとも屋敷内の雑事なのかを訊ねた。

すると、サラサは両方をこなしていたので、どちらも頼むと彼らに言われたので、彼女はこう言った。

「サラサ様のやっていた仕事量は通常の人の二倍以上です。

同じ内容の仕事をしろと言うのならば、別途料金をいただかないと割に合いません。

それが二人分なのか三人分になるのかはやってみないと分かりませんが。

それが無理でしたらお断りします」

マチルダの要求に彼らは絶句したが、それを呑むしかこの急場は凌げない。二人は仕方なくそれを了承した。

マチルダは決して大ホラ吹きではない。サラサほどではなくても、賃金分はしっかりと働いた。

ただし仕事の内容によっては、別途料金を要求してくることに子爵夫妻は閉口した。

サラサだったら文句など言わず無償で働いてくれたのに。そんな思いが頭をかすめたが、その度に頭を振った。

いや、タダ働きをさせたせいで貴重な嫁を失ったのだ。やはり働きに対する対価はきちんと支払うべきだったと。

まあ、お金だけの問題ではなかったのだが。

その後、マゼラー子爵家は必死に次男と嫁の行方を追ったが、一向に見つからなかった。神隠しに遭ったのではないかと思えるくらい、二人の情報は全く入ってこなかったのだ。

このままもう見つからないのかもしれない。子爵夫妻は次第に諦めの気持ちが大きくなっていった。

そもそも目の前の問題に対処することが精一杯で、居なくなった二人のことを考えている余裕がなかった。

嫡男の妻と次男が駆け落ちした事実は、結局世間に隠し切れなかった。それゆえに、マゼラー子爵家はすっかり醜聞まみれになってしまったのだ。

嫡男は未亡人のところに入り浸って妻を蔑ろにしていた。

しかも、二人の子供はどうやら妻ではなくて、その愛人が産んだらしい。

そんな哀れな嫁を義両親は労るどころか、虐げ、こき使っていた。

黙って嫁ぎ先に尽くしてきた嫁だったが、ついに耐えられなくなって、唯一庇ってくれていた義弟と駆け落ちしたのだろう……と。

助っ人のマチルダの働きでどうにか屋敷は回っていた。

しかし、世間の評判はガタ落ちで、このままでは王城御用達の看板も取り上げられてしまうかもしれない状態に陥った。

そしてそれはマルロン男爵家も同じだった。

娘が嫁ぎ先から義弟と駆け落ちしたのだ。しかもその義弟に、家のために尽くしてきた養女を嫁がせようと、裸同然で追い出していたのだから。

なんて強欲で無慈悲なのだろうと、世間から白い目を向けられた。

もっとも彼らは反省などしていなかった。

むしろ娘が駆け落ちしたせいで、三人の息子のうち、末の息子の学費を自分達で支払わなくてはいけなくなった事実に腹を立てた。

そもそもそ自分の子供の学費を他人に払わせようとすること自体が図々しいことなのに、実の娘やマゼラー子爵家に対して恨み言を吐きまくっていた。

半年が経った。

さすがに嫡男をこのまま放置したままにするわけにはいかない。

マゼラー子爵夫妻はマチルダには何の了承も取っていないというのに、息子に対して、未亡人と別れてマチルダと再婚しろ。さもなくば廃嫡すると宣言した。

恋人の未亡人ではサラサの代わりは務まらないからだ。

それに、いくらなんでも彼女を後妻などにしたら世間体が悪い。

そしてマチルダをその後釜にしようしたのだ。

元々は次男アンディーと結婚するためにこの子爵家にやって来たのだから、それが兄になっても大して変わらないだろう。そう夫妻は思ったのだろう。

嫡男の嫁となれば使用人ではない。そうすれば高い賃金を払わずに済む。

もちろん、また逃げ出されたのでは堪らないので、それに見合った対価は払うつもりだ。

そして、次期当主夫人になるのだから、マチルダも文句はないだろう。そして、いちいち別途料金は請求してこなくなるだろうと。

とはいえ、子爵夫妻もさすがに、サラサが居なくなった当初からそんなことを考えていたわけではなかった。

そもそも、子供のころから年上の恋人を思い続けてきた長男が、簡単にあきらめるとは彼らも思っていなかったからだ。

それなりに綺麗だったサラサにだって食指を動かさなかった息子が、彼女よりも地味で平凡顔のマチルダに関心を持つとは到底考えられなかったからだ。

実際、彼女のことなんてただの使用人としか見ていない様子だったし。

もし長男が未亡人と別れないというのなら、男の孫がすでに二人もいることだし、ろくに仕事もしない、役立たずだと分かった長男のことは除籍しようと考えていた。

家政と子育てはお金が多少かかっても、それなりに優秀な侍女と子守を新たに雇い入れるしかないと。

だからその長男が未亡人と別れてマチルダと結婚してもいい、と言い出したときには正直驚いたのだ。

本当にいいのか、後悔しないのかと確認すると、息子はあっけらかんとこう言った。

「私ももういい年ですしね。そろそろ落ち着こうと思います。

それに弟や元妻のせいでこの家も少し傾きかけているようですから、私が戻って立て直さないとまずいでしょ」

(あなたのせいでこの家は危うくなったんだ。元凶のくせにふざけたことをいうな!)

近くで立ち会っていた執事は、頭の中でプツンと何か切れた気がした。

「マチルダでしたか? あの娘は若いのにそれなり優秀らしいし、地味顔ですが顔立ちそのものは悪くない。きちんと化粧を施せば、子爵夫人としてどうにかなるでしょう」

執事の隣にいた中年のメイドがブルッと身震いした。

このとき二人は察した。若旦那様は三十代になった愛人より、十代半ばの若い娘の方がよくなったのだと。

マチルダが地味顔なのは、化粧でわざとそう見せていることを女性陣は気付いていた。素顔は本当に愛らしい顔立ちをしていたのだ。

身を守るためにそうしていたのだろうが、元々整っているので、じっくりと見つめられたら誤魔化せなかったのだ。

つまり言い換えれば、長男はどこかで彼女を観察していたことになる。

そのことに気付いてメイドは恐ろしくなった。

このことをマチルダだけでなくみんなに伝えておかなければいけない。居間を出た彼らは、仲間達が揃っていると思われる台所へと足を速めた。

そしてその半月後、マチルダは執事や侍女長のヘレンと共に主の執務室へ呼ばれて、この屋敷の長男との結婚の日取りはいつにするかと訊ねられた。

「一応君の希望も聞いてあげようと思ってね」

ウィンクされてマチルダはゾッとした。色男を気取っているのだろうが、二人の子持ちの三十近い男が何馬鹿やっているのかしら、としか思えなかった。

そもそも理解力ある男アピールをしているが、大切な義姉をないがしろし続けことを知っている自分に、そんなことをしても無駄だとわからないのだろうか。

クールなマチルダもさすがにムッときた。

「若旦那様とは結婚できません。だってサラサ様とはまだ……」

「そのことなら大丈夫。相手が行方不明になった場合、半年経つと離婚が認められる。だから、昨日役所で手続きを済ませたから、晴れて私は独身だ。

それに君の姉とは白い結婚だったからね、君が気に病むこともないだろう?」

「離婚が本当に成立したのですか?」

「ああ、本当だ。私達の間に何の障害もない。子供達も君にすっかり懐いているようだし」

「良かった!」

サラサがマゼラー子爵家と縁が切れたと聞いて、マチルダは歓喜の声を上げた。そしてヘレンと手を取り合った。執事も眉尻を下げてホッとした顔をした。

そんなに自分との結婚が嬉しいのか、可愛いなと長男は思った。主夫妻も。

しかし二人はすっかり忘れていた。マチルダがこの屋敷に到着して早々夫人自ら

「あなたみたいな娘を こ(・) の(・) 家(・) の(・) 嫁(・) に(・) す(・) る(・) 気(・) は(・) な(・) い(・) 」

と言ったことですでに彼女との縁は切れておて、今の関係はただの雇用関係に過ぎないことを。

マチルダは姉の元夫に向かって満面の笑みを浮かべながら

「若旦那様、これでようやく、愛する方とお子様お二人と本当の家族になれますね。お子様達もさぞお喜びになることでしょう。

いつも

『僕達の本当のお母様はサラサ母様と違って綺麗で優しくて、僕達のことを絶対に怒ったりしないの。

だから、本当のお母様と一緒に暮らしたい』

と、おっしゃっていますから。

私は今日でこのお屋敷からお暇をいただきますが、マゼラー子爵家の皆様のお幸せを遠くからお祈り申し上げます。

旦那様、奥様、半年間お世話になりました。こちらで働かせていただいたおかげで、結婚資金を貯めることができて深く感謝しております」

と言うと、深く一礼して部屋を出ようとした。すると、夫人が慌てて彼女の腕を掴んだ。

「結婚資金って、うちの息子と結婚する予定だったのに、他に男がいたの? 不貞行為じゃない。許さないわよ」

「不貞行為?

私は半年前にお前なんてうちの嫁にはできないと、奥様からはっきり断られたのですよ。

ですからその後、私が誰と付き合おうが自由でしたよね?

私が結婚を決めたのは二月前ですし、何の問題もないはずです。

そもそも、そのときの結婚お相手はこちらの息子さんではなく、駆け落ちしていなくなったもう一人の息子さんだったわけだし」

「あっ……」

夫人は半年前のことを思い出して、掴んでいた手を離し、力なく下げた。

子爵とその嫡男は呆然としていた。マチルダは再び頭を下げると、二度と振り向かずにその部屋を出て行った。

そして半年寝泊まりした部屋をゆっくり見回した後、サラサの帳面をライティングデスクの上に置き、鞄を手にしてそこを出た。

玄関ロビーには使用人仲間が総出で待っていてくれた。

「半年間でしたが、大変お世話になりました。優しくしてもらって嬉しかったです。皆さん、どうかお元気で」

「こちらこそ色々助けてもらってありがとう。元気でやれよ」

「あんたの考えたチーズデザートはどれも最高だったわ。これからこの領地の名物にするわ。ありがとうね」

「彼氏と仲良くやれよ」

「彼氏じゃなくてすぐに旦那様になるのでしょ。あんたの手紙を旦那さんに届けてもらうのを楽しみにしているから、絶対に書いてね」

「はい。落ち着いたら必ず手紙を書いて彼に届けてもらいます」

マチルダはみんなと最後の挨拶をした。そして屋敷を出た。

するとそこにはいつもの郵便配達人の制服ではなく、私服姿の若者が石垣に背をもたれていた。

「おやリオン、駅馬車の停車場じゃなくて、わざわざここまで迎えに来たの? 心配性だね。私と執事さんがついているから心配はいらないと言っておいたのに」

ヘレンが笑ってそう言うと、若者はムッとした顔をして言い返した。

「別に母さんを信用していなかったわけじゃないよ。

だけどさ、婚約者が、別の男に結婚を申し込まれるかもと思ったら、居ても立ってもいられなくなるのが当然だろう」

昨日リオンは役所の建物の中に入って行く子爵令息の姿を目にしていた。

ああ、ついに離婚届を出しに行ったのだなと思った。それと同時に、きっと明日、自分の婚約者に結婚話をするのだろうと予測していたのだ。

「そりゃあそうだわね。

とにかく、私の大切な娘なんだから、幸せにしないと承知しないわよ」

「わかってるよ。母さんも、ここが嫌になったらいつでも俺達のとこに来てくれ。

あ(・) の(・) 方(・) 達(・) も会いたがっているしさ」

「仕返しはちゃんとしておいたよって、お二人には伝えておいてね」

「ああ。

マチルダ行こう」

リオンは婚約者から鞄を取り上げると、空いている手で彼女の手を握った。

マチルダは彼に眩い笑顔を見せた後で、ヘレンに向かって言った。

「お義母さん、いつでも一緒に暮らせるように、準備しておきます。それまで無理しないでくださいね」

「ああ。こっちがとりあえず落ち着いたら、そっちへ向かうよ」

ヘレンは手を振りながら二人にそう言った。

しかし、あの若旦那の根性を執事と一緒に叩き直さなくてはならないから、すぐには辞められないだろうな、と思った。

もっとも、その方が新婚の息子夫婦の邪魔をせずに済むだろうから、却って都合がいいかもしれない。

でも孫ができたら絶対に休みを取って側についていてあげたいから、スパルタで鍛えようと、ヘレンは固く心に誓ったのだった。