軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

732円の庭、世界の崩壊を食う

土曜日。C-7に着いた瞬間、足が止まった。

耳鳴り。

先週まで穏やかだったはずの空気に、微かなノイズが混じっている。高周波の、キーンという金属音。ダンジョンの通常階では常に鳴っている音。でもC-7では消えていたはずの音。

庭に入った。薄紫の空が、少し濁っている。いつもは透き通った薄紫が、今日はわずかに灰色がかっている。

土に手を当てた。

脈動がおかしい。いつもの穏やかな拍動じゃない。速い。焦っている。人間でいえば頻脈だ。

先週見つけた「継ぎ目」——あの硬くて冷たい折り目に手を伸ばした。

脈動が速い。先週のカチカチどころじゃない。振動している。細かく、痙攣するように。

ミン三郎。

根止め壁の底辺に沿って、根が一斉に動いていた。壁を越えようとしているんじゃない。壁の向こう側にある何かに、全部の根が向きを揃えて進んでいる。継ぎ目の方向。

「……何してるんだ、ミン三郎」

返事はない。植物だ。

でも動きが明確だった。先週まではランダムに壁を小突いていたのに、今日は全ての根が同じ方向を向いている。

嫌な予感がした。

「おかえりなさい。今週もダンジョン庭配信を始めます」

(Comments)

【◆常連A】おかえりー

【◆常連B】今日も来たぞ

【新規53】先週のアーカイブから来ました! トマトの庭!

【新規54】初見です。チビケルちゃん見に来た

【◆gardenFan_03】先生、顔色悪くない?

【◆GreenThumb】Good evening. How are things?(こんばんは。調子はどうですか?)

「えっと、今日はちょっと……庭の様子がいつもと違うので、先に報告します。空気が少し変です。今までの過ごしやすさとは打って変わって耳鳴りがします」

(Comments)

【◆gardenFan_03】耳鳴り?それって不味くないか

【◆カンナ先輩】空間振動値が上がってるんですか?

【◆毒舌キノコ】……計器はどうだ

GreenThumbさんにもらったEM計を起動した。

数値がおかしい。

「EM値が……安定しません。0.4と2.1の間を行ったり来たりしてます。先週は1.2で安定してたのに」

(Comments)

【◆gardenFan_03】乱高下!?

【◆カンナ先輩】それ、通常のセーフエリアでもあり得ない変動幅ですよ

【◆毒舌キノコ】……嫌な振れ方だ

そのとき、足元がぐらっと揺れた。

地震。じゃない。地面が揺れたんじゃなく、空間が歪んだ感覚。水面に石を投げたときの波紋が、足の裏を通り抜けた。

「わっ」

(Comments)

【◆常連A】今の何?

【◆常連B】画面揺れた?

【新規53】え、地震?

【新規55】なにこれ怖い

【◆gardenFan_03】いや、カメラは固定のはずだ。画面の歪みは空間ノイズだろ

薄紫の空にヒビが入った。

比喩じゃない。天井を覆う薄紫の光の層に、実際にヒビのようなノイズラインが走った。灰色のモザイクが、紫を侵食するように広がっていく。

遠くから、壁が崩れる音がした。C-7の外。ダンジョンの通路のどこかで、空間が剥がれ落ちている。新宿御苑跡ダンジョンそのものが軋んでいる。

カケルが飛び立った。

チビケルがその後を追った。2羽が薄紫の空に向かって、本能のままに飛んでいく。逃げている。ダンジョンの生き物として、空間が壊れることの意味を体で知っている。

庭に残ったのは俺と、4体の植物だけだった。

「え、何、これ」

(Comments)

【◆gardenFan_03】EM値が振り切れてる! 数値飛んでる!

【◆カンナ先輩】これ、空間の安定度が落ちてるんじゃ

【◆毒舌キノコ】つちのこ先生。落ち着いて聞け。それは「空間崩壊の前兆」だ

【◆GreenThumb】...(……)

「空間崩壊?」

(Comments)

【◆毒舌キノコ】座標が不安定になる現象だ。最悪の場合、そこにいる人間ごと、座標が『なかったこと』にされる

【◆gardenFan_03】は?逃げたほうがいいんじゃ

【◆常連A】先生逃げろ!

【新規55】やばいやばいやばい

【新規56】逃げて!!

【◆常連B】庭は!?

佐伯さんが飛び込んできた。

文字通り走ってきた。息が上がっている。手に計測器を抱えている。

「柏木さん!管理局のモニターが新宿御苑跡ダンジョンで異常値を観測しました!もって数分、崩壊が始まります!」

「佐伯さん、今ちょっと配信中なんですけど」

「配信どころじゃないです! 座標安定度が急落して——」

空が軋んだ。2回目の揺れ。さっきより強い。

画面が一瞬、真っ暗になった。

(Comments)

【◆gardenFan_03】画面止まった!

【◆常連B】映ってる?

【新規55】つちのこ先生!聞こえますか!

映像が戻った。ノイズが走っている。画面の端がちらちら歪んで、コメント欄の文字が一瞬読めなくなった。空間の不安定さが配信そのものを揺さぶっている。

逃げるべきだったのかもしれない。

でも、庭がある。

上空で鳥獣型のモンスターが飛び立っている。こんなにいたのかと驚くほどの数が、薄紫の空を埋め尽くして逃げていく。カケルとチビケルも、その群れに紛れた。

でも植物は逃げられない。根を張った場所から動けない。

逃げたら、この庭はどうなる。

土に両手を突っ込んだ。

(Comments)

【◆常連A】先生!?

【◆gardenFan_03】何してる!

【新規56】逃げないの!?

【◆毒舌キノコ】……逃げるんじゃないのか

壁を厚くする?

違う。壁で防いだところで、崩壊エネルギーは壁の向こうに溜まり続ける。押し返したって、またこっちに来る。ただの延命だ。

じゃあ、食べさせたら?

崩壊エネルギーを、植物に食べさせる。エネルギーを栄養に変える。以前ラベ四郎で覚えた「逆方向フロー」。あのときは、小さなラベ四郎1体が相手だった。

指先から、根の方向に意識を流した。

今は——

最初に応えたのは、ミン三郎だった。

あいつはとっくに動いていた。

指先を根の方向に伸ばしたとき、ミン三郎の根はもっと近く、すぐ手の届く範囲にいたのに、根の先端が指の感覚の外にある。

触れた。瞬間根止め壁を突き破って、継ぎ目に向かって一斉に突進した。35センチの壁を潜り抜け——いつの間に覚えた——継ぎ目の真上に到達している。

根の先端が「灰色の粉」に触れた。空間の折り目から漏れ出している崩壊エネルギー。

継ぎ目の真上に根を広げて、灰色の崩壊エネルギーを片っ端から飲み込んでいる。飲むたびに根が太くなり、先端がさらに伸び、そこからまた細い根が枝分かれしていく。暴君が、ここぞとばかりに領土を広げている。

——ミン三郎。お前、これを待ってたのか。

根が継ぎ目に沿って走る。灰色の粉を吸い込んで、土のあいだから小さな緑の芽を吐き出す。食べて、変えて、伸びて、また食べて。158円のスペアミントが、空間の崩壊に対して一歩も引かないどころか、前に出ている。

(Comments)

【◆gardenFan_03】ミン三郎の根が出てきた!

【◆カンナ先輩】何が起こっているの!?

爪の間が焼けるように冷たい。凍傷に似た痛み。崩壊エネルギーが土の中を流れていて、それが指先を通り抜けていく。真冬に祖母の庭で水をやったとき、指先が赤くなって感覚がなくなったのと同じだ。あのとき祖母が、両手で俺の指を包んで温めてくれた。

今はどんなに痛くても止めるわけにはいかない。

次に、バジ太郎。

198円のバジルは、ミン三郎ほど派手じゃない。根は短い。範囲も狭い。でも、ミン三郎が吸い込んだ崩壊エネルギーの「おこぼれ」——根を伝って土に滲み出した灰色の流れを、静かに、確実に吸い上げている。

葉の色が変わった。暗かった緑が、一段明るくなる。さらに、葉の縁から新しい葉がにじみ出るように伸びていく。さっきまでなかった小さな葉芽が、次々に開く。薄紫のダンジョンの天井を押し返すみたいな、鮮烈な緑。エネルギーを食べて、光と葉に変えている。

ラベ四郎。

蕾が5つ。さっきまで固かった蕾が、一気に膨らみはじめた。表面の紫が濃くなって、筋のあいだから花びらの色がにじむ。ぱん、と小さな音がした気がして、1つ、2つと花が裂けていくみたいに開いた。

花が開くごとに、香りが跳ねた。ラベンダーの、甘くて鋭い匂い。普段なら一日かけて広がるはずの香りが、数秒で一面に満ちていく。

匂いが広がると、空気が変わった。

耳鳴りの高周波が、ラベ四郎の周囲だけすっと引いていく。香りの膜。さっきまで「蕾」だった株の根元から、淡い紫色の靄みたいなものが立ちのぼり、崩壊エネルギーのざわめきとぶつかって、音を食べている。128円のラベンダーが、一瞬で満開まで駆け上がって、匂いと靄で崩壊の余波を押さえ込んでいる。

(Comments)

【◆毒舌キノコ】……ラベンダーの匂いがしてこないか

【◆常連B】アロマバリア?

そして、トマ次郎。

248円のトマト。3個目の実が膨らんでいる。まだ緑。でも今——実の表面がわずかに赤みを帯びた。崩壊エネルギーが根を通ってトマ次郎に流れ込み、実の中で何かに変わっている。

茎が鳴った気がした。ぱん、と。実が内側からふくらむ。さっきまで「膨らみかけ」だった輪郭が、みるみる張りを増す。表面の細かい産毛が光を弾いて、うっすらとオレンジ色が混じっていく。

エネルギーが、甘さになっていく。

732円。

バジ太郎が浄化し、トマ次郎が変換し、ラベ四郎が防壁を張り、ミン三郎が前線を押し上げる。732円の植物たちが、732円なりの方法で、崩壊と殴り合っている。

交通整理に集中する。こっちの崩壊エネルギーをミン三郎へ。あっちの余波をバジ太郎へ。トマ次郎が飽和しそうだからラベ四郎に回す。Excelの行を整える感覚で、庭の中を流れるエネルギーを捌く。水やりの順番を変えているのと同じだ。特別なことじゃない。庭の手入れだ。

怖い。手が震えている。震えるたびに、指先を通るエネルギーの流れが乱れる。俺が怖がっている分だけ、庭も揺れている気がした。

指先の感覚がなくなり始めていた。土の温度が分からない。さっきまで温かかったバジ太郎のエリアと、冷たかった継ぎ目の境目が、手のひらの上で溶けて区別がつかなくなっている。庭師にとって一番怖いこと——土が感じられない。

視界の端が白く滲んだ。植物の位置が分からなくなりかける。どっちがミン三郎でどっちがバジ太郎か、目では追えない。手の感覚だけで判断している。感覚が消えかけている手で。

配信中だ。3,600人が見ている。佐伯さんが横で計器を持ったまま固まっている。空にヒビが走っている。

でも、植物が動いている。4体が、それぞれの持ち場で、食べている。伸びている。

祖母の声が聞こえた気がした。聞こえてはいない。死んだ人の声は聞こえない。

でも——手の感覚がある。

——重い。

小学生のとき、祖母の庭で持ったじょうろの重さだ。

水が土に染みていくのが嬉しくて、でも上手じゃなくて、根元を水たまりにしてしまったあの日。

祖母は笑って、俺の泥だらけの手を温かい手で包んでくれた。「多すぎても大丈夫。土が吸ってくれるから」

今も同じだ。

崩壊エネルギーが多すぎる。俺の手には余り、爪の間を真冬の水道管のような冷たさが焼き切ろうとしている。

けれど、土が——植物が——猛然とそれを吸い上げていた。

極限の恐怖と冷気の中で、懐かしい、喉の奥から旋律がせり上がってくる。

「んふふふん、ふふん」

祖母の鼻歌。無意識に漏れ出したそれは、震える指先を通じて土へと叩きつけられた。

その瞬間、庭全体の脈動が、ハルの心拍ではなく「鼻歌のリズム」に同期し、爆発的に膨れ上がる。

佐伯さんは見ていた。

計器を——置いた。

手から滑り落としたんじゃない。科学者がデータを追うことを放棄し、目前の「奇跡」に、ただ圧倒されることを選んだのだ。

ハルが鼻歌を刻むたび、空間に不可視の波紋が広がる。

薄紫の空を裂いていた灰色のヒビが、旋律の糸で縫い合わされるように閉じていく。

モザイク状の崩壊が、鼻歌の一拍ごとに鮮烈な薄紫へと「復元」されていく光景。

佐伯さんは、もはや数値を追うのをやめ、計器を胸に抱きしめた。

まるで、科学の敗北を認めるように。あるいは、この尊い一瞬を、心臓の鼓動と一緒に刻み込もうとするように。

「……ヒビが。空間が、歌に合わせて……治っていく……」

(Comments)

【◆gardenFan_03】空のノイズが消えていく!!

【◆毒舌キノコ】……おい。空を見ろ。ヒビが。旋律に合わせて、1本ずつ——

【新規57】何これ何これ何これ

【◆GreenThumb】...(……)

【新規57】奇跡?

バジ太郎の緑が、一段どころか二段くらい明るくなっていた。葉の枚数がさっきより増えている。新しい葉が、茎の節から次々と顔を出し、ダンジョンの薄紫を押し返すみたいに広がっている。

トマ次郎の実は、さっきまで「色づき始め」だったはずの3個目が、いつの間にかオレンジを通り越して、深い赤に近づいている。表面に走る筋がはっきりして、重さに耐えきれず少しだけ枝がしなっていた。

ラベ四郎は、もう蕾じゃない。5つ全部が開ききって、その周囲にさらに小さな蕾が新しくつき始めている。紫の花の輪の真ん中から、香りの層が幾重にも立ちのぼって、崩壊のざわめきを包み込んでいた。

ミン三郎の根は——止まっていた。暴れ回っていた根の先端が、継ぎ目の上で静かに張りついている。食べ尽くしたのだ。継ぎ目から漏れていた灰色の粉は、もうどこにも見えない。代わりに、継ぎ目に沿って薄い緑の筋が走っている。

732円帝国が、ダンジョンの崩壊を食い尽くして、庭の形を塗り替えていた。

「佐伯さん、EM値」

「あ——安定し始めて……1.2……1.15……1.08……」

下がっている。乱高下が収まっている。

でも体が限界だった。

視界の端が白く滲む。意識が薄れかける。両手から魔力を出しながら、鼻歌を歌いながら、4体の植物全部にエネルギーを流し続けている。体が持つわけがない。D級だ。月額手当3,000円の体だ。

鼻歌が、止まった。

声が出ない。喉が締まった。消耗のせいだと思った。でも——違う気がする。喉を締めたのは、消耗じゃなくて、もっと奥のほうにある何かだ。何かが怖い。空間崩壊じゃない。もっと別の何かが怖くて、喉が凍った。

旋律が途切れた。

(Comments)

【◆gardenFan_03】鼻歌止まった

【◆常連A】先生!

【◆カンナ先輩】顔色が……!

【新規55】大丈夫なの? 誰か助けて

そのとき、GreenThumbから空のコメントが送られてきた。

【◆GreenThumb】——

そういえば初めてだ。配信を始めてからあの人から、コメントが、:)が、送られてこなかったことはなかった。

空コメントなんて初めてだ。

胸の奥がひゅっと冷えた。崩壊でもダンジョンでもなく、遠くのどこかで、

人の線が、突然か細くなっていくような感覚。

「……GreenThumbさんも、今どこかで頑張っているんだろうか。それなら」

喉がまだ固い。それでも、無理やり息を押し出す。声にならない声で、旋律の続きを思い浮かべる。祖母の台所の歌。

「ここで諦めるわけにはいかない……!」

最後の力を、指先に集めた。土の中の4体へ、そして画面の向こうへ。

(Comments)

【◆gardenFan_03】何が起こってるんだ世界で

【◆毒舌キノコ】……

EM値が——

「……1.03。1.01。……0.98」

佐伯さんの声が震えている。

「安定。……安定しています。全エリア」

止まった。

全部止まった。

空を見上げた。

薄紫。

ヒビはない。灰色のモザイクもない。さっきまで崩壊しかけていた空が、いつもの、透き通った薄紫に戻っている。

耳鳴りが消えていた。

ラベ四郎の香りだけが、静かに漂っている。