作品タイトル不明
竜帝陛下はやり直し令嬢と離別中
「ハディス? どうした。疲れたか」
兄のヴィッセルがお茶を出してくれたのは、昼下がりのことだった。取り戻したばかりのベイル城は復興作業は始まったものの、まだまだ人手不足で静かなことが多い。
ぼんやり窓を見ていたハディスは思考を切り替え、視線を兄に向ける。
「ううん、平気だよ。それよりアルカの動きはどうなってる?」
「今のところはあのいけ好かない狸坊やの作戦どおり進んでいる。失敗したらすべてクレイトスに押しつける準備も万全だ」
「ははは。俺の目の前で堂々と言うの、すごいですね」
ロレンス・マートンの笑い声が聞こえた。少し離れた机で、書類の山で埋もれている。
ヴィッセルは、穏やかに微笑み返した。
「今やクレイトス女王随一の側近と言われているあなたを信用しているだけです」
「そう言ってものすごい量の決済書類押しつけてくるの、やめてくれません?」
「クレイトス側の人材不足をこちらのせいにされましてもね」
「マイナード殿下とか使ってもいいなら使いますが」
「あいつは処刑していないだけありがたいと思え」
いきなり声色を低くしたヴィッセルに、書類を取ろうとしていたロレンスの手が止まる。
「使える人材だと思いますが……トラブルはさけたいので、女王陛下の看病に専念していただきましょうか」
「女王陛下のご容態はいかがですか。あなたがいれば問題ないのだから、クレイトスにさっさとお帰りになればいいのに」
「そうはいきませんよ。さすがに本人不在では婚約の準備も進められません。――そちらこそ、療養中の竜妃殿下の容態はその後いかがですか?」
うきゅ、と鳴き声がして、ハディスは足元を見おろした。ローと名づけられた金目の黒竜が、こちらを見あげている。成長する様子は相変わらずない、竜の王だ。
「竜妃の騎士たちの行方も、まさかまだ行方がわかってないとは言いませんよね。竜の目があるラーヴェ帝国で」
竜帝ハディスの婚約者でかつ竜妃であるジル・サーヴェルについては、現在『天の青作戦時に負った怪我がもとに療養中』とだけ公表されている。周囲の反応は「あの竜妃が……?」という困惑が大半を占め、ほとんど誰も信じていないのが現状だ。
かわりに真相だと噂されているのが『クレイトス女王と竜帝の結婚に反対し竜帝を殴るついでに後宮を破壊してしまい、落ち込んで表舞台に出てこない』である。そんな馬鹿なと思うことほど、ひとは可能性を感じるらしい。「あの竜妃ならあり得る」――頭の切れる女王の側近も、無茶苦茶な真相の可能性を捨てきれていないようだ。
「竜妃は療養中です。それ以上はお答えできませんよ」
ちなみに面白おかしい竜妃の真相を複数流したのは、この実兄である。
「竜妃は療養中でも、逃げた騎士たちがどう動くかわかりません。泳がせるにしても情報は共有してください」
「共有してるでしょう、療養中だと」
「――まさかすでに竜妃と一緒に離反しているとか、ありませんよね?」
ローは、ジルが帝城を逃げ出してから、ハディスのそばから離れなくなった。首のうしろをつまんで持ち上げる。嫌そうな顔をされた。
「竜妃が反対するのは、想定内です。でも彼女はお花畑の女の子じゃない。竜神を助ける手段がない以上、反対どまりで離反の可能性は低いと俺はみてます。竜帝陛下――あなたが、説得をわざと投げ出さなければね」
「女心がわからないんだね、横恋慕君は」
そう言ってハディスはローを片腕で抱き、執務椅子から立った。
「もし竜妃の説得を自分がなんて思ってるなら、やめたほうがいいよ。死にたくないだろう」
固まったロレンスを鼻で笑い、ハディスは「いってくる」とだけ告げる。ヴィッセルは嘆息で了承を返した。
あ、とロレンスが声をあげる。
「竜神ラーヴェのところになら、今、女神が」
聞こえないふりをして、転移した。
――秋のさわやかな日の光が、神様が眠る広間に注いでいる。
ベイルブルグは復興作業中だが、このベイル城の大広間には一切手をつけさせていない。出入り口の見張りのみ信用できる兵にまかせて、誰も近寄らせないようにしている。
もう二度と、ラーヴェに向けて武器を振り下ろさせないために――あの光景を思い出すと、今でも吐き気がこみ上げる。
この女が、ラーヴェの前に立っているのと同じくらいに、気持ちが悪い。
女神の魔力の結晶でできた大樹は、変わりなかった。きらきら、まるでこの世のものではない輝きで、大広間を彩っている。中央の七色の繭の中で鏡のように入れ替わる、見慣れた天剣と育て親の輪郭も、昨日と変わらない。
そのことだけが、ハディスをほっとさせる。
「だれ」
突然現れた相手に鋭く視線を向けたあと、ハディスだとわかって女神は慌てて両手を振り、おろおろしだした。
「だ、大丈夫。すぐ帰るから、クレイトス」
この女は、ハディスに嫌われていることをよく知っている。ちらちらこちらを見ているくせに、いつもすぐ転移で消えるのだ。
「話がある」
声をかけると、背を向けようとした女神が固まった。
柔らかな髪。裸足で、飾りは花冠ひとつきりの、粗末な衣装。それでもこの女は美しい。
竜神ラーヴェを助けられる、この世でただひとつの花だ。
どうしてこの女なのだ。ジルがいなくなってから、毎夜考えている。
でも答えは同じだ。
ジルにラーヴェは助けられない。それにもう、ジルは竜妃ではない――ちまたでささやかれる真相の馬鹿馬鹿しさが、いっそ憎らしい。
本当にそうであったら、よかったのに。
「……ラーヴェを」
「助けるわ、必ず」
ハディスが今、何よりもほしい言葉を、女神がつむぐ。
「泣かないで、わかってるから。お兄様を本当に助けたいのは、わたしとあなただけ。他の人間は違う。必ず裏切る。ヒトはいつだってそう。施しを受け取っておいて勝手にやったことと開き直る。返すなんて考えもしない。――お兄様を助けるわけがない、あんなやつらが」
そしてハディスと同じように、懸念している。
「……今はいいだろうが、いずれ邪魔はしてくるだろうな」
「わたしとあなたがいれば、なんとでもなるわ」
女神がくすくす笑い、花の香りが、突然むせ返るような妖艶さに変わった。なんの罪悪もない無邪気な笑みだ。あの横恋慕君も器も、扱いの難しいこの女神をよく制御している。
「本当ならずうっと昔に滅んでた連中よ。お兄様のこれまでの功績を思えば、みんな死んだって、まだ償いたりないくらいでしょう。今はフェイリスと約束しているから、様子見してあげてるけど……」
「勝手に動くな。何がラーヴェの神格に影響するかわからない」
きらきら、女神の作った繭の中で、ラーヴェの輪郭が透けている。あの白銀の鱗は、見た目よりもずっとあたたかいのだ……。
「……同じこと言うのね。あのロレンスって子と」
「僕と取引しろ、クレイトス」
クレイトスが怪訝な顔でこちらを見やった。
「僕がラーヴェを救うための魔力をお前に集めてやる。この件に関して、僕はお前を絶対に裏切らない」
「……それは、信じるけど」
「お前にとっての最悪は、ラーヴェが戻らないことだ。だから保険をやる」
ローを肩に乗せ、ハディスは左手を、クレイトスに向けて自ら差し出す。
「こうすれば、ラーヴェの理には反しない。絶対に」
じっと女神はハディスを凝視する。蒼天の瞳が、やわらいだ。
「あなたはいい子ね」
竜神が翔る空にふさわしい、優しい目の色。
「いい子には、ちゃんとご褒美をあげなくちゃ。わたしは、愛の女神だもの」
女神が謳う。子守歌を聴かせるように。
「あなたの愛を、叶えてあげる。――わたしに、何をしてほしいの?」
ハディスは目を閉じる。
甘えるな。最後までひとりで立っていろ。
(ラーヴェ。僕が、助けるよ。僕が、必ず)
――誰にも理解されずとも、たったひとりで、君が成し遂げてきたように。