作品タイトル不明
1
まだ頬が熱い気がする。溜め息まじりに吐き出す息も熱っぽい。
それもこれもハディスのお嫁さんが可愛いせいだ。
「もうジルってば、最近やけに積極的なんだから……」
自分の気持ちや立場も考えてほしい。さっきだっていきなり物置に引っ張り込まれてあの騒ぎ、まるで人目を忍ぶ密会だ。状況だけで破廉恥極まりない。思い出すだけでもじもじしてしまう。
煮え切らないハディスの態度にジルが苛立っているのは理解しているのだが。
(で、ででででもキスの練習なんて、そんな)
ばっと両手で顔を覆い隠す。
昨夜、目を閉じてじっとハディスを待っていたジルの姿が否応なく浮かんでくる。
無理だ。心臓はばくばくしてくるし、呼吸もうまくできなくなる。冷や汗まで浮かんでくる有り様でいったい何ができるというのか。もしそんなことをしてしまったら――
「歯止めをかける自信がない……!」
「そっちかよ!」
育て親の竜神ラーヴェに勢いよく尻尾で後頭部をはたかれた。いい音がしたが、どうせ周囲には聞こえない。
「お前なあ、嬢ちゃんは春には十二歳になるとはいえ、まだ子どもだぞ。お前がその辺わきまえなくてどうすんだよ! ちゃんと分別がつく程度には成長したのかと思ってたのに」
「そういえば今年こそジルの誕生日のお祝いをしなくちゃ……!」
「聞けこのアホ! いやもう聞かなくていいから今の状況を思い出せ、会議中だ!」
あ、と声をあげて、顔をあげる。ラーヴェの姿も見えない、声も聞こえない、会議の出席者がそろって最上席にいる皇帝を見ていた。
「ラーヴェ様から何かご意見ですか?」
すました声色で尋ねたのは、細長い机の左側最奥、ハディスにもっとも近い位置にいる宰相の兄ヴィッセルである。その隣で、糸目の壮年男性が小さく笑った。
「神の意見を拝聴できる会議とは。竜帝を戴いた甲斐もあるというものです」
「おや、フェアラート公は竜帝と竜神の存在をお認めになったんですか」
すかさず横からヴィッセルが嫌みをまぜる。だが、フェアラート公――モーガン・デ・フェアラートは優しい眼差しをヴィッセルに向け、穏やかに言った。
「もちろん、私は最初から認めています。認めなかったのは私の従兄弟殿ですよ」
従兄弟とは、前皇帝メルオニスとその弟ゲオルグ――今は後者を指しているのだろう。会議室の半分ほどが眉をひそめたが、本人は涼しい顔つきだ。
偽帝騒乱が起こった際、首謀者ゲオルグの亡き母親が彼の伯母であり、ハディス捜索のため私軍を出したことで関与が疑われたが、フェアラート公はあっさりゲオルグを切り捨てた。早く竜帝陛下をお守りせねばと使命感に駆られて捜索隊を出したのだ、という言い分を否定するだけの証拠も何も出てこなかった。ゲオルグの出兵に反対し帝城を追われたヴィッセルを保護したのも、この男である。
「過去のあれこれをどうこう言っても始まらないだろう」
なぜか両腕を組んだまま、やたら体格のいい男が切り出す。
「現三公が帝都に集まって腹の探り合いをするだけなら、訓練に励んだほうがいい。もちろん俺には腕相撲で話を決める心構えはできている」
ハディスに近い席の中でも一番若いが、見るからに武人で強面の彼がブルーノ・デ・ノイトラール――今のノイトラール公だ。エリンツィアの伯父にあたる。前のノイトラール公は偽帝騒乱でエリンツィアがゲオルグについたことに加え、誤解とはいえリステアードを捕縛する遠因になったこともあり、高齢を表向きの理由として、ジルとハディスの婚約式のあと息子に跡目を譲って自ら引退した。まだ三公の地位について一年とたっていない若造ということになるが、物怖じした様子はない。ただし、正面に座るフェアラート公も嘲りを隠さない。
「さすがノイトラール公。先代に負けず劣らず前向きな意見をお持ちだ。腕相撲とは」
「暴力は大抵のものを解決するぞ、モーさん」
「おやその呼び名、先代から? 不愉快ですね、退室します」
「不戦敗ということでよろしいか、モーさん」
「なぜ止めもせず呼び続ける!」
「親しみだ。フェアラート公を攻略する際には暴力、ご自由にどうぞという放置プレイ、親しみをこめた愛称が有効だと先代からの引き継いだ」
「この歴代筋肉馬鹿公が……! ならレールザッツ公はどうなんです!」
「暴力、お金はうちにはありませんという開き直り、親しみをこめたイーさんという愛称」
「なぜノイトラール公が存続しているのか不思議でたまりませんよ、私は……!」
「落ち着きなされ、フェアラート公。ノイトラール公もですぞ。我ら三公、等しく竜帝陛下にお仕えする臣民」
しゃがれ気味だがはっきり通る声が、ちぐはぐなふたりの口論を止めた。
ヴィッセルの向かい側、ハディスにもっとも近い席に座れる三公。イゴール・デ・レールザッツ――リステアードとフリーダの祖父、レールザッツ公だ。
偽帝騒乱の際は一切、動かなかった。ラーデアで争乱があったときは南国王を迎え入れ、ラーデアの動向をさぐり、リステアードを助けた。
しかたなくハディスに従順の意を示したフェアラート公とも、権力争いに興味のないノイトラール公とも違う、三公の中でいちばん真意が読めない人物だ。
今もまっすぐ、鋭い眼差しでハディスを見て笑っている。
「なのに竜帝陛下の許しもなく退室とは、叛逆ととらえられてもおかしくないですなあ。ノイトラール公はそれを止めてくださったのでは?」
「うむ、そうだ!」
「嘘をつけ! ……レールザッツ公は相変わらず竜帝に心酔されておられる」
「ほっほっほ。早くから竜帝を戴き楽ができる若者たちにはわかるまいよ。――さて、竜帝陛下。話は聞いておられましたかな」
子どもに向けるような眼差しだ。ハディスは乱雑に答えた。
「秋頃から、ノイトラール、レールザッツの土がおかしい。特にラキア山脈の麓、国境に近い場所ほど顕著で、ひどいところでは木が根から腐り出している」
両腕を組んで、ブルーノが深く息を吐き出した。
「今年の葡萄や林檎の収穫が例年の半分近くまで落ち込んだ。宴会や祭りで振る舞う酒を乾杯だけにするとうちの家令が言っている……ゆゆしき事態だ!」
「いっそ中止にすればよろしい。ノイトラールの酒の消費量は異常だ、健康に悪いですよ」
「なお、対策としてフェアラートの果実酒を強奪する案を検討している」
「暴力での解決を今すぐやめていただきたい!」
「レールザッツは平野での農耕が主なのでそれほど打撃はないですが、木の腐れで土砂災害が起こりました。食べ物がなくなったのか、山から獣共がおりてくる回数も例年にくらべて倍になっております。また、竜が集団でラキア山脈から飛び去る目撃情報があがっております。危機を察しての引っ越しではないか、と領民の間ではもっぱらの噂ですな。竜帝陛下ならご存じでしょうが」
三公と会議室の高官全員の目が、ハディスに集まる。体の中に引っこんだラーヴェがひとりごちた。
(ラキア山脈の盾が消えたせいだろうな……女神が仕掛けてきてるんだ)
クレイトスで女神の護剣と渡り合うため、ジルはラキア山脈の魔法の盾を取りこんだ。結果、ジルは女神に奪われた竜妃の指輪、すなわち女神を打ち斃す竜妃の神器という力を取り返したが、女神の力を弾いてきた守護の結界――魔法の盾は消えた。
「このままでは、竜帝陛下と竜妃殿下の婚礼にも支障が出ます」
はっきりイゴールがそう切り出した。