軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ナターリエ皇女誘拐事件(4)

ひょっとして自分は運がいいのかもしれない。

そう思いながらナターリエは小さな石橋の下で林檎をかじっていた。ようやくやんだばかりの雨の滴が、ぽたぽた上から流れてきているが、寒くはない。夏間近の季節と、南方なのが幸いした。一歩先に流れる川の増水も引いてきている。

早々に帝城に捨て置かれたナターリエを気にかけてくれたのは、軍人であるエリンツィアと魔力の才に溢れたフリーダだった。特にエリンツィアは張り切って護身術と馬術、襲撃時の色々な考え方や行動の仕方を教えてくれたのだ。皇女に教えることではないと思いつつ呆れ半分でつきあってきたのが、こんなに役に立つとは思わなかった。

また、多忙なリステアードのかわりに、魔力のあるフリーダの教育に携わったのも幸いした。魔力と言えばクレイトスだ。竜がいないクレイトスの風土にも興味があって調べていた――わかりやすいところで大地の女神に加護されたクレイトスでは何でも実る。

(この時期この場所に野生の林檎の木が普通に生えてるって、すごいわよね)

そして昨日の雨は、途中で馬を乗り捨てて街に戻ろうとしているナターリエの足跡を流してくれただろう。昨夜は頭上の石橋の上を襲撃者らしき一団が往復していったが、増水を怖れてか橋の下を覗きこんだりさがしにくることもなかった。雨音で周囲の音は聞き取りにくかったし、視界も悪かったのだろう。ナターリエは靴先まで迫ってくる水の前で息を潜めているだけでやりすごせた。

(……本当に、運がいい。悪運かもしれないけれど、できればこのまま助けと合流できないかしら……)

林檎の芯をぽいっと地面に放り投げ、嘆息する。

襲撃から丸二日たっている。もう襲撃者たちは街にはいないだろう。クレイトスの交通網や連絡網に詳しくはないが、襲撃の報はもう出回っているはずだ。そろそろ街に戻るよう動き始めてもいいかもしれない。

そう思ったとき、再び足音が聞こえた。既に雨はあがり、晴れ間が広がっている。覗きこまれたらすぐ見つかるだろう。ナターリエは橋の陰になる場所でしゃがみ込み、息を潜める。

複数の足音は、ちょうど石橋の手前で止まった。

「馬は乗り捨てられていた、皇女の足ではそう遠くまではいけないはずだ」

指揮官というには若い男の声だった。まだ少年といっても差し支えなそうな声の高さだ。

だが有無を言わせない威厳がある。

「襲撃者もまだ皇女をさがしている可能性がある。どんな痕跡も見逃すな」

「はっ。全員、まず二人一組で周囲の安全を確認しろ! ……ジェラルド王子」

複数の駆け足にまざって小さく呼ばれたその名前にナターリエは驚いて息を呑む。

(嘘でしょ。本人がさがしにきたの?)

ジェラルド・デア・クレイトス――ナターリエの婚約者になるひとだ。同名の別人の可能性があるが、この状況で考えにくい。

そっと石橋の下から顔を出してみる。思ったとおり、石橋の手前に人影があった。顔が見えるのは、年かさの軍人だった。その正面に立っている少年はちょうど背を向ける恰好になっていて、ナターリエからは見えない。

だが、そのマントの色は青色。

クレイトス王家にしか許されない禁色――空と間違えて女神が奪った色だ。

「なんだ」

「せめて街にお戻りください。あなた様が現場で直々に指揮をとるような案件ではありません」

ナターリエも兵士と同じように思う。だがジェラルドは素っ気なく答えた。

「私の不手際だ。私が出るのが道理だろう」

「ですが、国王陛下の元へ襲撃者が連れ去ったという証言もあります。こちらよりもそちらからあたるべきでは」

「皇女らしき人物が馬を奪っていったという商人の証言もある。代金に投げたという宝石はフェアラート産のものだった。皇女が襲撃者から自力で逃げた線は捨てきれない」

「お言葉ですが、皇女が馬に乗って襲撃から逃げられるとは、とても思えません。万一逃げられたとしても、襲撃者たちにすぐ見つかるでしょう」

「ナターリエ皇女はあのエリンツィア・テオス・ラーヴェ皇女殿下に可愛がられていたと聞いている。商人の証言からしても、ただ蝶よ花よと育てられた皇女ではない可能性が高い」

淡々とした声だが、ナターリエのことをきちんと調べてくれていることがわかった。

じっとしゃがんだままナターリエはそれを聞く。

「それにラーヴェ帝国は竜の国だ。皇女が竜に乗れる国なら、馬に乗れてもおかしくはないだろう」

「――だとしたら、皇女が自ら逃げ出したという可能性はありませんか」

硬い声に、ナターリエはつい顔を引っこめた。次に続く疑惑は、想像どおりだった。

「もともとラーヴェ帝国が、一方的に押しつけてきた皇女です。ひょっとして、この誘拐劇が自作自演。国王陛下と通じてあなたをはめるようとする策である可能性も」

「不敬はつつしめ」

冷たいが、きっぱりとしたその言葉に、ナターリエはまばたく。

「仮想敵国ではあるがラーヴェ帝国の皇女、覚悟を決めてこの国にきたはずだ。今ここで逃げ出せば、国との関係がどうなるかくらいは承知しているだろう」

ゆっくりと見開いた瞳に、雲の間から差す日の光を浴びる水面が映る。きらきらして、綺麗だった。

「故にこの襲撃は、私の不手際だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「ですが」

「それともお前は、皇女の罠であってほしいのか?」

王子の冷たい嘲笑に、兵士が口をつぐんだ。

「……いえ……申し訳ありません。出すぎた発言でした」

「行け」

短い命令に、兵士が駆け出す足音が聞こえた。それと嘆息がひとつ。

そっと橋の下から体を半分出したナターリエは、思い切って声をかけようとして――ふと自分の恰好を見おろした。森の中を二日さまよったせいで、あちこち泥だらけだ。服も髪も、今までの人生の中で一番、みっともない有り様である。とても皇女だなどと思えない。

こんな状態で、自分がナターリエ・テオス・ラーヴェであることをどう証明したらいいのだろうか。

そもそも初めて会う相手だ。ジェラルド王子がナターリエの顔を知っているかもわからない。わかってくれるのだろうか。

(何を気にしているの、出ていけばいいじゃない)

でも、わかってくれなかったら――少し、がっかりしてしまうかもしれない。

迷っている間に、ジェラルド王子は石橋から離れて歩き出してしまった。もう時間はない。勇気を出して、ナターリエは声をあげる。

「待っ――」

口を大きな男の手で塞がれた。太い腕に体が締め上げられ、靴底が浮く。

「やっと見つけたぞ、ナターリエ皇女」

「……!」

「手こずらせやがって。おっと騒いでも無駄だ」

男はひとりだ。もがいて逃げ出そうとしたナターリエの足元で、何か光った。ナターリエと背後の男を包むように半円を描く空気のような何かに、ナターリエの動きが止まる。

「ラーヴェ帝国の皇女様には珍しいか? 隠密系の結界だ。騒いだところで周囲に声は聞こえない。姿も見えない」

クレイトスでは結界なんてものが、誰でも簡単に使えてしまうのか。恐怖より先に混乱して、目線を動かす。

(どう、どうすればいいの)

さすがに警戒しているのか、体を拘束する男の手の力は緩む気配がない。しかも魔力だなんて不可思議な現象。――竜がいれば、結界ごと焼き払えと頼めるのに!

「さあ、こっちだ。お前は南国王の慰み者になってもら――」

硝子の突き破るような音と一緒に、黒い槍先が飛びこんできた。体勢を崩した男が、ナターリエを盾にするように突き飛ばす。だが槍先はくるりと回転し、かわりに腕がナターリエの体を支えてくれた。

「馬鹿なのか。私のそばで結界など貼れば、気づかれるに決まっている」

さっき頭上で聞いた声に、顔をあげる。

川面を踏みつけたせいで、水しぶきがあがっていた。だがその横顔は、まっすぐ敵を見据えている。切りそろえられた金髪がふわりとあがるのは、魔力か。

だがその横顔に見惚れるのは一瞬しか許されなかった。ジェラルドの背後、ナターリエの真正面にさっきジェラルドが指示を出していた兵たちが立っている。先頭に立っているのは、ナターリエの罠をジェラルドに忠告していた兵士だ。その手に持った剣が振りあげられた。

その切っ先が、ジェラルドの背中を狙っていた。両目を開いてナターリエは叫ぶ。

「あぶない、うしろ!」

ジェラルドは冷静に、後ろ手に持った槍で兵の剣を受け止めた。だが正面からも、体勢を戻した襲撃者が襲いかかってくる。まさか、全員敵なのか。

真っ青になったナターリエを抱え直し、ジェラルドが舌打ちする。

「たまには予想を外せばかわいげがあるものを、あの狸」

「え?」

「失礼、ナターリエ皇女殿下」

呼びかけられると同時に、体が浮いた。槍を片手でぐるりと回して地面に突き立てたジェラルドが、槍をばねに宙に飛び上がったのだ。固まったナターリエの腰をしっかりと支えたまま、ジェラルドは石橋の下からわらわら出てくる眼下の兵を見据えている。

「挨拶は後回しにさせていただきたい。ここを突破するほうが先だ」

「は、はい」

「ご理解、感謝する」

そう言ってナターリエを抱えたまま、ジェラルドが口笛を鳴らした。

蹄の音ともに森の奥からやってきたのは、白馬だ。ちょうど石橋あたりで飛び上がった白馬の鞍をジェラルドがつかみ、またがる。一瞬の、曲芸のような出来事だった。

華麗なその動きに、敵だけではなくナターリエもぽかんとしてしまう。

(王子様みたい)

みたいも何も、彼は本物の王子様だ。そう考える程度の余裕が出てきた。

「くそ、行かせるな!」

「頭を伏せて、口を閉じているように」

白馬の着地と同時に槍を構え直したジェラルドが端的に指示を出す。おとなしく言われるがまま、ナターリエは身をかがめ口を閉ざした。

剣戟や怒号の中を白馬が駆け抜けていく。止まることはすなわち死だ。その命運をこの王子に委ねるしかできないのが悔しい。

だが、不思議と怖くなかった。