軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8 第三王子の初めての感情

ルカは、毎日のようにチヨのもとへ通うようになった。

朝は花の話をし、昼はお茶を飲み、午後はおしゃれの話をする。

チヨが「このリボン、少し結び方を変えるだけで印象が変わるのよ」と実演すれば、ルカは目を輝かせて見つめた。

チヨがセドリックからもらった焼き菓子を分ければ、ルカは素直に喜んだ。

「チヨ、今日は何するの?」

「そうね。今日は一緒に刺繍をやりましょうか」

「ほんと?」

「ええ。私が長年培った刺繍の腕、見せてあげる」

ルカは毎回、子犬のような目でやって来る。

最初は遠慮がちだったが、今ではすっかり懐いていた。

ある日の午後、庭園の東屋で二人きりになったときのことだった。

風に花の香りが混じり、薄い布が白いカーテンのようにふわりと揺れる。

チヨはルカの髪を梳きながら、やわらかく尋ねた。

「あなた、この格好が本当に好きなのね」

ルカは少しだけ目を伏せた。

「……うん」

「かわいいものが好きなの?」

「それもある」

言いながら、ルカの声は少しずつ小さくなった。

「でも……」

チヨは急かさず、静かに待った。

ルカは膝の上で指を組み、ぽつりとこぼす。

「この格好をしているときは、王子であることを忘れられるから」

チヨは黙ってルカを見た。

ルカは視線を落としたまま続けた。

「レオン兄上は強くて、いつも正しい。セドリック兄上は軽そうに見えて、ちゃんといろんなことを見てる……でも僕は、何もできない」

ルカは自分の手を見つめる。

「剣も苦手だし、人前に出るのも怖い。王子らしくしろって言われるたびに、息が詰まりそうになる」

細い肩がかすかに震える。

「だから、この格好をしていると少しだけ楽なんだ。王子じゃなくて、ただの誰かになれる気がして」

その言葉は弱々しかった。

けれど、ずっと誰にも言えなかった本音なのだとわかる声だった。

チヨはしばらく何も言わなかった。

すぐに励ましたり、軽く流したりせず、ただ隣でその痛みを受け止めるように座っていた。

やがて、そっと言う。

「逃げ場所があるのは、悪いことじゃないわ」

ルカが顔を上げる。

「え……」

「ずっと張りつめていたら、心は折れてしまうもの。息をつける場所、ほっとできる格好、そういうのは大事よ」

ルカの瞳が少し揺れた。

チヨは微笑む。

「でもね、ルカ。あなたは王子である前に、あなたよ」

「僕……?」

「ええ。綺麗なものが好きで、やさしくて、ちょっと臆病で、でもちゃんと人の気持ちがわかる子。そういうあなたを、無理に消してしまわなくていいの」

ルカは何も言えなかった。

喉の奥が熱くなる。

「王子だからこうしなさい、男だからこうしなさいって、みんな勝手なことを言うけれど」

チヨはふふっと笑った。

「そんなもの、窮屈なら少しくらい蹴飛ばしてもいいのよ」

ルカはぽかんとして、その後吹き出した。

「そんなこと言うの、チヨだけだよ」

「あらあら。ちょっとおばあちゃんの悪いお説教が出ちゃったかしら」

「……ううん、ありがとう」

ルカはチヨの手を握った。

***

その様子を、少し離れた回廊からセドリックとレオンが眺めていた。

「いやあ、よかったじゃないか」

セドリックは柱にもたれ、軽く肩をすくめる。

「最近のルカ、見違えるほど元気だ。前は部屋に引っ込んでばかりだったのに」

「ああ」

レオンも視線を和らげた。

庭園では、チヨがルカの前髪を整えながら「じっとして」と言い、ルカが嬉しそうにしている。

以前の怯えた影は、ずいぶん薄れていた。

「……元気になったのはいいことだ」

レオンはそう言ったが、少し間を置いてから低く付け足した。

「ただ」

「ただ?」

「チヨがお茶に付き合ってくれない」

あまりの深刻な兄の声に、セドリックは思わず吹き出した。

(兄上にこんな顔をさせるのは、チヨだけだろうな)

その直後、庭園の向こうからチヨの声が飛んでくる。

「セドリック! レオン! そんなところで突っ立ってないで来なさいな! あら、レオン、あなた、また顔が難しいわよ!」

レオンはますます顔をしかめ、セドリックはまた吹き出した。

ある日の午後。

ルカは廊下を歩いていて、開いた扉の向こうから楽しげな声を聞いた。

のぞくと、そこにはチヨとセドリックがいた。

机の上には書物が山積みで、セドリックは珍しく真面目な顔で椅子に座っている。

どうやら王の務めに関する勉強中らしい。

「へえ、じゃあこの辺境伯の請願は、まず財務から見るべきなのか」

「そうだろうな。感情で判断するとあとで困る」

隣ではレオンが資料を見ながら淡々と説明していた。

チヨは感心したように目を細めた。

「まあまあ、セドリック。ちゃんと頑張っているのね」

セドリックは肩をすくめる。

「兄上が怖い顔で机に縛りつけるからね」

「それでも逃げずに座っているんでしょう? 偉いわ」

チヨはそう言って、セドリックの頭をよしよしと撫でた。

セドリックが一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑う。

「……褒められるのは悪くないな」

その光景を見た瞬間、ルカの胸がざわついた。

面白くない。

ひどく、面白くない。

自分だけが知っていると思っていたチヨの優しい手が、他の誰かの頭を撫でている。

その事実が、胸の奥をちくりと刺した。

気がつけば、ルカは部屋に入っていた。

「チヨ」

「まあ、ルカ。どうしたの?」

ルカは何も答えず、チヨの腕を掴んだ。

「来て」

「えっ、ちょっと」

そのままぐいぐい引っ張って部屋を出る。

後ろでセドリックが「おや」と目を瞬かせ、レオンが「こら、廊下は走るな」と言ったが、ルカは振り返らなかった。

ようやく人のいない小さな中庭まで来て、ルカは足を止めた。

チヨは少し息を整えてから、ルカの顔をのぞきこんだ。

「どうしたの、急に。お顔がむくれてるわ」

「……むくれてない」

「むくれてるわよ」

ルカは唇を引き結んだ。

言えない。

セドリックの頭を撫でていたのが嫌だったなんて。

自分以外と楽しそうにしていたのが寂しかったなんて。

そんな子どもみたいなこと、言えるはずがなかった。

チヨはしばらくルカを見つめて、やさしくその頬に触れた。

「大丈夫よ。あなたのことも、ちゃんと大事に思っているわ」

その一言で、胸がぎゅっと締めつけられた。

嬉しいのに、足りない。

もっと欲しい。

自分だけを見てほしい。

その感情の名前を、ルカはまだ知らなかった。