軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

30 レオンの願い

馬車は静かに揺れていた。

車輪が石を踏むたび、低い振動が床から足元へ伝わってくる。窓は小さく、外の景色はほとんど見えない。見えるのは暗闇と、ときおり流れていく街頭の影だけだった。

帝国へ向かうための馬車。

護送のための馬車。

王を乗せるにはあまりに簡素で、客人を迎えるにはあまりに冷たい。

当然か、とレオンは思う。

私は客ではない。

歓迎される立場でもない。

王でありながら、国を縛るための楔として運ばれているだけの存在だ。

レオンは目を閉じ、背もたれに身を預けた。

「……今頃、手紙を読んでいる頃だろうか」

不思議と、心は静かだった。

胸の奥に痛みがないわけではない。

弟たちの顔を思い出せば、喉の奥がかすかに詰まる。あの人の顔を思えば、今すぐ馬車を降りて引き返したくもなる。

それでも、もう迷いはなかった。

***

父王が病に伏してから、城の空気は変わった。

王がいるだけで保たれていた均衡は、思っていたより脆かった。貴族たちは顔色をうかがい、臣下たちは先を案じ、隣国は機を探っていた。

その中で、自分が立たなければならなかった。

書類の山に埋もれ、報告を受け、判断を下し、責任を負う。ひとつ間違えれば国が傾く。そう思えば、休むことなどできなかった。

弟たちのことも、気にかけていなかったわけではない。

だが、気にかけるだけだった。

ルカの怯えたような目も、アルベールの反抗も、セドリックの軽薄な振る舞いも、目に入っていなかったわけではない。分かっていた。分かっていて、後回しにした。

今は国が先だ。

家族のことは、そのあとでいい。

そうやって切り分けてきた。

兄である前に王太子であれ。

それが正しいのだと、自分に言い聞かせてきた。

そうしなければ、やっていけなかった。

父王が崩御したあと、帝国から書簡が届いた。

属国となれ。

王は人質として帝国へ来い。

従わなければ戦争だ、と。

帝国は、それを何度も繰り返してきた。

王を奪い、国を縛り、従わせる。逆らえば踏み潰す。そうして版図を広げてきた。

分かっていた。だからこそ、なおさら理解してしまった。

これは脅しではない。

本気だ。

レオンは手を握りしめる。

爪が掌に食い込む痛みだけが、やけに鮮明だった。

(……何のためだったのだろうな)

私は国のために働いた。

弟たちを犠牲にしてまで、王家を支えた。

眠る時間を削り、感情を殺し、ただ前だけを見てきた。

それなのに。

(その果てがこれか……)

あまりにも、滑稽だった。

私は人質になる道を選ぼうとした。

それしかないと、思った。

(……私ひとりが行けば、この国はひとまず救われる。弟たちは生きる。民も守れる。王族として、それが当然の選択だ)

そう覚悟を決めた。

だが、その頃にはもう、国内にも敵がいた。

王の死で揺らいだ城内に、帝国へ通じた者たちが紛れ込んでいたのか、それとも別の思惑を持つ者だったのか。今となっては、もうどちらでもいい。

ただ、私は狙われた。

政務の合間。護衛の薄くなったわずかな隙を突かれ、命を奪われかけた。

王になる前に死ねば都合がいい者は、思っていた以上に多かったらしい。

逃げた。

みっともなく、必死に。

剣を振るい、息を切らし、血の匂いのする夜道を走った。

どこまで逃げればいいのかも分からないまま、気がつけば、あの川に辿り着いていた。

最初に、彼女と出会った川だ。

あのときの私は、もう何もかもが限界だった。

国のために生きてきたはずなのに、その国にまで喉元を食い破られようとしている。

帝国にも、国内にも、逃げ場はない。

私がどれだけあがいても、何も変わらない。

そう思った瞬間、ふっと力が抜けた。

(――もう、いい)

もう、何もかもどうでもいい。

死んでしまいたい。

そう思って、私は自分から川へ飛び込んだ。

冷たい水が全身を包みこんだ。

耳が塞がれ、視界が揺れて、重さも痛みも遠のいていく。

このまま沈めば終わる。

ようやく終われる。

そう思った、はずだった。

なのに。

沈みながら、最後にひとつだけ、どうしようもなく胸に浮かんだものがあった。

弟たちだった。

ルカ。

セドリック。

アルベール。

……幸せになってほしい、と、思った。

せめてあの子たちだけは。

私のように、自分を押し殺して生きなくていいように。

怯えずに、諦めずに、笑って生きていけるように。

助けたい、と願った。

今さらだった。

兄らしいことなど、ろくにしてこなかったくせに。

だが、それでも願ってしまった。

どうか。

(どうか、弟たちが幸せになれますように)

そこで、意識は途切れた。

***

次に目を開けたとき、見えたのは天国ではなく、一人の少女の顔だった。

不思議な少女だった。

状況をろくに説明もできない私に、怯えもせず、妙に落ち着いた顔でこちらを見ていた。

それだけでも妙だったのに、彼女は私にお茶を淹れてくれた。

湯気の立つ茶を差し出されて、私はしばらく言葉が出なかった。

香りがした。

あたたかかった。

震えていた指先が、少しずつほどけていった。そして――

「よくがんばったわね」

たったそれだけの一言なのに、ひどく救われた。

思えば、あんなふうに穏やかな時間を過ごしたのは、いつぶりだったのだろう。

政務に追われ、責務に追われ、いつしか、休むということすら忘れていた私にとって、あの時間はあまりにも静かで、あまりにも優しかった。

この人は、何なのだろうと思った。

川から拾っただけの見知らぬ私に、どうしてこんなふうに接することができるのか。

そして、柄にもなく思ってしまったのだ。

(彼女は、私の願いを叶えるために現れたのかもしれない……)

弟たちを助けたい。

どうか幸せになってほしい。

沈みながら最後に抱いた、あの願いのために。

だから私は言った。

「王室付きの教育係になってくれないだろうか」

自分がいなくなった後のために。

自分が人質となり、あるいは死んだあとでも、弟たちだけは生きていけるように。

その備えとして、チヨをそばに置こうとした。

だがチヨは、そんな打算も覚悟も越えて、あっさりとあの子たちの中へ入り込んでいった。

セドリックの軽口の奥にあるものを見抜いた。

ルカを笑顔にした。

アルベールの寂しさを受け止めた。

そして、私を。家族を繋いだ。

私が切り捨て、見ないふりをし、後回しにしてきたものを、あの人は自然に拾い上げてくれた。

気づけば弟たちは変わっていた。

ルカは驚くほど明るくなった。怯えて黙るばかりだった子が、自分の意見を口にするようになった。

セドリックは勉強を重ね、人の心を読み、場を支える力を見せるようになった。もともと才覚はあったのだ。私がきちんと見ようとしていなかっただけで。

アルベールもまた、拗ねて怒るばかりの子ではなくなった。泣いて、怒って、甘えて、それでもまっすぐに家族へ向かってくるようになった。

家族としての絆を、ようやく取り戻せたのだと思った。

こんな穏やかな日々が、続いていくのかもしれない。

一度は諦めたものを、これから少しずつ築いていけるのかもしれない。

そんな夢を見た。

だが、帝国は待たなかった。

返答を保留にしたまま時を稼いでいた私に、突きつけられたのがアルベールの誘拐事件だった。

あれはただの誘拐ではない。

帝国からの明確な示威だった。

――自分たちは、いつでも王城の内部に入り込める。

――いつでも王子を奪える。

――次は奪うだけでは済まさないかもしれない。

そう告げるための事件だった。

アルベールが無事で本当によかった。心の底からそう思った。

だが同時に、私は理解した。

(もう猶予はない)

私が決断を先延ばしにするたびに、危険に晒されるのは弟たちだ。

城の中にいてすら守りきれないのなら、私に何ができる。

そして決定打になったのが、皇帝ゼノヴァルトの訪問だった。

あの男は余裕のある顔で笑っていた。

「もう待つことはできない。さっさと選べ」

あれは最後通告だった。

従うか、逆らうか。

逆らえば、この国がどうなるか分かっているだろうと、言葉にせずとも十分に伝わった。

あのとき、ようやく腹が決まった。

いや、本当はずっと前から決まっていたのだろう。

私は行くしかない。

人質になるしかない。

それが、王としての責務だ。

だが、あの川に飛び込んだときとは違う。

あのときの私は絶望していた。

何もかもを投げ出し、死ぬことでしか終われないと思っていた。

だが今は違う。

私は自分で選んで、この馬車に乗っている。

弟たちはもう、大丈夫だ。

もちろん心配はある。

寂しくないわけがない。

もっと一緒にいたかった。もっと兄らしいことをしたかった。もっとあの穏やかな日々の中にいたかった。

(……チヨの淹れた茶を、もう一度飲みたかった)

ふと、そこでレオンは小さく笑った。

まったく。

最後に思い出すのがそれか、と、自分でもおかしくなる。

だが、あの人らしい。

死にかけていた男を、責務でも理屈でもなく、ただお茶一杯で繋ぎとめてしまったのだから。

(私の人生は、あの川で一度終わっていたのかもしれない。本来なら、あそこで沈んでいた命だ。……だから人質となることに、悔いはない)

あのとき拾った時間で、弟たちは育った。

家族は繋がった。

守りたかったものは、たしかに守れたのだ。

それなら十分だ。

レオンはゆっくりと目を開けた。

小さな窓の外に、遠い空が見える。

この先に帝国がある。

屈辱も、監視も、自由のない日々も待っているだろう。

それでも、その顔にもう絶望はなかった。

あるのは、静かな覚悟だけだ。

私は王だ。

そして兄だ。

だから最後まで、この国と、あの子たちを守る。

たとえこの身が囚われても、あの子たちが前を向いて生きていけるなら、それでいい。

……いや、 それだけではないな。

願うなら、もうひとつだけ。

(どうか、あの人が笑っていてくれますように)

弟たちのそばで、あの穏やかな声で、あの子たちを叱って、褒めて、困らせて、笑っていてくれますように。

そうすればきっと、大丈夫だ。

馬車は揺れる。

帝国へ向かって、静かに進んでいく。

もう、うつむくことはしない。

これは絶望の果ての旅ではない。

守るために、自分で選んだ道だ。

だからその顔に、影はなかった。

ただ静かに、王の覚悟だけがあった。