軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

26 皇帝陛下の執心

馬車が、ゆるやかに街道を進んでいた。

春の陽気は穏やかで、空は高い。道沿いには畑が広がり、荷車を引く農夫や、のんびり歩く旅人の姿が見える。王国の町へ向かう道は、拍子抜けするほど平和だった。

だが、その景色を眺める若き皇帝ゼノヴァルトの顔には、露骨な退屈が浮かんでいた。

「つまらんな」

窓枠に肘をつき、外を見たまま吐き捨てる。

「平和ボケした国だ。骨がない。あの第一王子も、とんだ腑抜けだ」

向かいに控える従者エリオスは、表情を変えずに答えた。

「争いが少ないということです。良いことではあります」

「私にとっては退屈だ」

即答だった。

エリオスは反論しなかった。するだけ無駄だと、もう十分に知っている。

ゼノヴァルトは若い。だが、若さだけでは片づけられない、剣のような鋭さがあった。才覚も決断力も本物だ。だからこそ帝国は短期間で勢いを増した。

ただし――人の心の機微や、穏やかな幸福に価値を見いだす趣味は、驚くほど薄い。だからこそ、この男は強い。そして、危うい。

そのときだった。

ゼノヴァルトの視線が、ふと止まる。

街道の近くを流れる浅い川。そのほとりで、ひとりの少女と小さな少年が遊んでいた。

石を拾い、少女が水面へ投げる。石は軽やかに跳ね、ひゅん、ひゅん、と小さな音を立てながら向こう岸へ走っていった。

「……あの女と子供は」

忘れるはずもなかった。

以前、顔を隠してあの第四王子をさらおうとしたときだ。あの場で思わぬ横槍を入れてきた女がいた。あの歪な兄弟たちをまとめあげていた、あの女だ。

「馬車を止めろ」

エリオスが目を閉じた。

「何だ、その顔は」

「嫌な予感がしている顔です」

馬車が止まる。

ゼノヴァルトはさっさと降り立った。エリオスも続くが、すでに胸中では諦めていた。こうなった皇帝陛下は止まらない。

***

「むう……また二回しか跳ねなかった」

アルベールが唇を尖らせる。

今日はお忍びで遊びにきていた。貴族の子息らしい服を着て、髪も少し整えている。少し離れた場所には護衛もいるが、目立たぬよう距離を取っていた。

チヨは川辺にしゃがみ込み、石をいくつか選んでいた。

「でも、最初よりずっと上手よ。えらいわね」

「ほんと?」

「ええ。ちゃんと腕の振り方を覚えてきてるもの」

そう言って、薄くて平たい石を一つ手渡す。

「手首を使って回転をかけるの。力いっぱいじゃなくて、すっとね」

「すっと……」

アルベールが真面目な顔でうなずいた、そのとき。

「面白いことをしているな」

背後から声が降ってきた。

アルベールはすぐさま振り返り、チヨの前に出た。小さいながらも、はっきりした警戒だった。

目の前の男は、旅人にしては隙がない。立ち姿も、視線の運び方も、妙に堂々としている。普通の人間ではないことは、子どもの目にもなんとなくわかる。

「誰だ」

アルベールがきっと睨む。

「あら、こんにちは」

チヨはいつも通りに微笑んだ。

ゼノヴァルトはその反応に、内心わずかに愉快さを覚える。この女は、まさか帝国の皇帝だとは、これっぽっちも思っていない。それが妙におかしかった。

「よかったら、あなたもやる?」

アルベールがぎょっとしてチヨを見上げた。

「えっ」

怪しい男だぞ、と言いたげな顔だ。

「大丈夫よ。何かあったら騎士さんたちも飛んできてくれるでしょう。ほら、この石をどうぞ」

ゼノヴァルトは差し出された石を見る。

皇帝である自分に、何の躊躇もなく石を握らせる女。帝国ではまず見ない。

「……いいだろう」

受け取り、川へ向かって投げる。

石は一度だけ跳ね、あっさり沈んだ。

「へた」

アルベールが間髪入れず言う。

「なんだと?」

「ボクのほうがうまいもん」

「今のは失敗しただけだ」

「負け惜しみ?」

ゼノヴァルトが片眉を上げる。

チヨがくすりと笑った。

「いいじゃない。ライバルがいたほうが楽しいでしょう?」

「……ああ。負けっぱなしは好きじゃない」

ゼノヴァルトは別の石を拾う。そして水面を払うように投げた。

石は二度、三度と跳ねる。

「おおっ!」

アルベールが目を丸くした。

「すごい!」

「ふん」

ゼノヴァルトは鼻で笑ったが、少しだけ満足そうだった。

そこから先は、妙な時間だった。

アルベールが記録を競おうとむきになり、ゼノヴァルトが大人げなく張り合う。チヨがその間に入って、あちらを褒め、こちらをなだめ、ときどき自分でも見事な水切りを見せる。

川辺に、ぱしゃ、ぱしゃ、と軽い音が続く。風が水面を揺らし、笑い声がときおり混じる。

少し離れた場所で、エリオスはその様子を見守っていた。いや、見守るというより、呆れていた。

帝国の皇帝が、王国の川辺で子どもと石投げ。しかも、思ったより楽しんでいる。

「……このことは、墓場まで持って行った方がよさそうですね」

護衛のひとりが、こっそりうなずいた。

***

ひとしきり遊んだあと、チヨが籠を広げた。

「そろそろ休憩しましょうか」

アルベールが嬉しそうに駆け寄る。

「おやつ?」

「ええ、おやつの時間よ」

ゼノヴァルトはそのやりとりを眺める。

(……教育係というよりは、まるで祖母のようだな。王子に対してこんなに気安い教育係は聞いたことがない)

そんなゼノヴァルトをよそに、チヨは慣れた手つきで布の上に茶器を並べ、包みをほどく。中から出てきたのは、小さな焼き菓子だった。素朴だが、きれいに焼けている。

「こんなところで茶を飲むのか」

「こういうところで飲むからおいしいのよ」

チヨはそう言って笑う。

「ほら、座って」

自然に促され、ゼノヴァルトは一瞬だけ間を置いてから腰を下ろした。命令されたわけではない。だが、妙に逆らう気にならない。

渡された茶を飲み、菓子を一つ口にする。甘さは控えめで、素朴な味だった。けれど、不思議と悪くない。むしろ、良かった。豪奢な食卓に並ぶどんな菓子より、ずっと記憶に残りそうな味だった。

「……うまいな」

口をついて出た本音に、チヨがにこりとした。

「でしょう?」

まるで自分のことのように嬉しそうに笑う。

その顔を見て、ゼノヴァルトは思う。

この女は、自分を飾らない。何かを差し出すときも、気負いがない。相手が誰であろうと、自分が良いと思ったものを普通に出す。

そういう人間は、自分のまわりにはいなかった。

皇帝に気に入られようと媚びへつらうものばかり。だが、この女は違う。

「気に入った」

ゼノヴァルトが言うと、チヨは首をかしげた。

「お茶が?」

「お前がだ」

アルベールが盛大にむせた。

「げほっ」

チヨは目をぱちぱちさせる。

「あらまあ」

「私の元に来い」

ゼノヴァルトは真正面から言った。

「私の侍女となれ。お前のような女なら、退屈もしないだろう」

アルベールの顔がむっと曇る。だが、その前に、チヨが穏やかに首を振った。

「ごめんなさいね。この子の教育係の仕事があるの」

「では、その十倍の金を出そう」

あまりにも迷いのない言い方だった。

アルベールがかっとする。

「なっ……!」

自分の身分を言い返してやろうとした、その肩に、チヨがそっと手を置いた。口を開きかけたアルベールは、はっとして押し黙る。

「強き者が弱き者を従わせる。それが道理だ。悔しかったら強くなってみろ、坊主」

ゼノヴァルトは当然のことのように言う。

それが帝国のやり方だ。それで国は大きくなった。間違っているとは思わない。

だが。

「違う!」

アルベールが真っ向から言い返した。

チヨの横で、小さな拳を握っている。

「強き者は、弱き者を従わせるんじゃない!」

その声には、子どもらしい勢いだけではない、まっすぐな信念があった。

「ただ命令で従わせるんじゃだめだ! 従いたいって思ってもらうから強いんだ!」

「ほう……?」

この歳の子どもが、そんなことを言うのか。力を持つ者に対して、媚びも恐れもなく、それでも理想を口にするのか。

その視線は、自然とチヨに移る。この女が教えたのだろう。教え込んだというより、そばで育てた結果として、こういう考えが根づいたのだ。

それが少し、まぶしくすら見えた。

「……なるほど」

ゼノヴァルトが呟く。

「教育係というのは、本当のようだな」

チヨはふわりと笑った。

「ええ。こうやって、弱き者から学ぶこともあるでしょう。ただ従わせるだけじゃ、その学びは手に入らないわ」

そして、ゼノヴァルトの目を見て言った。

「あなたも王様なら、弱き者の声に耳を傾けなさい」

ゼノヴァルトの目がわずかに見開かれた。

見抜かれた。

この女はたぶん、知識で当てたのではない。ただ、そう見えたから言ったのだ。だが、それを分かったうえで、相手が何者かを怖がるより先に、人としての態度を見て、言うべきことを言った。

「……ますます欲しくなった」

低く、はっきりと告げる。

「お前はやはり私の元に来るべきだ。金でも地位でも、何でもくれてやる。あいつの傍に置いておくには惜しい」

アルベールがむっとした顔になるより先に、チヨはきょとんとゼノヴァルトを見上げた。

そして、いつもの調子で言う。

「あらあら、だめよ」

「は?」

「そんな言い方じゃ、私はあげられないわ」

ゼノヴァルトは一瞬、言葉を失った。

子どもをたしなめるような声音だった。

チヨはまるで気にした様子もなく、ぽん、と軽く彼の腕を叩く。

「まずは従いたいと思ってもらうところからね」

「……何?」

「あなたの教育係はお受けできないけど……もしまた遊びに来ることがあったら、お茶くらい出すわよ」

「私の教育係……?」

違う。そういう意味で誘ったんじゃない。

だが、あまりにも自然で、あまりにも軽い返しだった。

皇帝からの誘いに向けられたものとは、とても思えない。

ゼノヴァルトはぽかんとした。

本当に、ぽかんとした。

断られたことよりも、自分がこの女を押し切れると少しでも思っていたことの方が、妙におかしかった。

チヨはそんな彼を置いて、アルベールの手を引く。

「ほら、そろそろ行きましょう」

「うん!」

そのまま二人は、さっさと歩き出してしまう。

アルベールは「ねぇねえ、王様ってどういう意味?」と無邪気に聞いていた。

ゼノヴァルトはその背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。

「陛下……?」

エリオスがそろそろと声をかける。

するとゼノヴァルトは、遅れて我に返ったように目を瞬かせた。

それから、ふっと口元をゆるめる。

「……は」

短い息のような笑いが漏れる。

次の瞬間には、それが大きくなる。

「ははははは!」

堪えきれないような笑い声が、春の川辺に響いた。

エリオスは肩を落としながらも、内心では少しだけ安堵していた。怒ってはいない。むしろ、完全に気に入っている。

ゼノヴァルトは笑いながら、遠ざかるチヨの背を見つめた。

「……面白い。この世でまだ私が手に入れられぬものがあったとはな」

その声は愉快そうで、だがそれだけではなかった。興味。執着。そして、まだ本人もはっきり自覚していない欲。

エリオスはそれを聞いて、静かに覚悟を決める。

「……ご命令は」

「あの娘の情報を集めろ」

やはり、そうなる。

「名も、素性も、立場も。あの娘に関すること全部だ」

「承知しました」

エリオスは一礼した。顔には出さなかったが、胸中では重いため息をついている。

(陛下がこんなに興味を持つ相手は初めてですね……。ご愁傷様です)

だが、ゼノヴァルトはそんな従者の苦労など知りもしない顔で、ただ楽しげに口元を上げた。

「必ず、手に入れる」